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灰の王は赦されない  作者: 星喰ゆう
第1章 灰はまだ祈りを知らない

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第1話 灰の王は赦されない

はじめまして。

『灰の王は赦されない』を読んでいただきありがとうございます。


罪を抱えた男と、世界に選ばれた少女が、

逃亡の中で“この世界の正しさ”そのものに向き合っていく物語です。


第1話は、二人の出会いから始まります。

 人は、死ぬ直前になると似たようなことを言う。


 怒鳴る者もいる。泣く者もいる。神に祈る者もいれば、最後まで誰かを呪う者もいる。


 だが、最後の最後に喉の奥からこぼれる言葉は、案外ひとつだった。


 ――助けてくれ。


 アシュ・ヴァレンは、血に濡れた剣を静かに振った。


 刃についた赤黒い雫が、夜露を含んだ草を打つ。


 右腕は異様に膨れ上がり、皮膚の下では黒ずんだ筋が脈打っている。

 白目を剥いた顔は苦痛に歪んだま ま固まっていた。


 目の前に転がるそれは、もう人の形をしていなかった。


 ついさっきまで、そいつはただの盗賊だった。


 山道を荒らし、旅人から金品を奪い、弱い者を食い物にしていた小悪党。


 そして穢れに呑まれ、異端になった。


 死ぬ直前、そいつは確かに言ったのだ。


 助けてくれ、と。


 化け物になり果てたあとで。

 それでもまだ、自分は人間だと信じているみたいに。


「……遅かったか」


 独り言は、森の静けさに吸い込まれて消えた。


 返事はない。


 あるのは雨上がりの湿った土の匂いと、鉄のように鼻につく血の臭いだけだった。


 月は雲の切れ間から覗き、やけに白い光を地面へ落としている。


 綺麗すぎる夜だった。


 人が死ぬには、あまりにも。


 アシュはしゃがみ込み、異端の顔にかかった泥を手袋越しに拭った。


 三十前後。痩せた頬に無精髭。どこにでもいそうな、冴えない男だった。


 もし穢れに侵されなければ、もう少しだけ長く生きられたかもしれない。


 そう思ったところで、意味はない。


 剣を鞘に収めた瞬間、左腕の奥に鈍い痛みが走った。


「っ……」


 息が漏れる。


 遅れて、焼けつくような熱と、骨の芯を撫でるような冷えが同時に全身を這った。指先がわずかに痙攣し、膝が落ちそうになるのを無理やり堪える。


 さっき使った《灰刻》の反動だ。


 身体能力を底上げし、相手の綻びを強引に引きずり出す異常戦闘技術。その代償として術者自身の内側を削る。


 胸の奥が焼けるように痛む。


 呼吸が浅くなる。


 アシュは舌打ちを堪えながら、腰につけた袋の内側へ手を入れた。指先が触れた小瓶を取り出し、栓を抜く。


 中で揺れた黒い液体を、喉へ流し込んだ。


 舌が痺れるような苦味が広がる。

 飲み下したあとも楽にはならない。ただ、ばらけかけた身体の感覚が、無理やり一つに繋ぎ止められるだけだ。


 痛みが消えるわけじゃない。

 壊れるのが少し先になるだけだ。


 それでも今は、それで十分だった。


「……まだ死ねない」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 死ねない理由があるわけじゃない。


 ただ、まだ死ぬわけにはいかないだけだ。


 そういう日が、ずっと続いている。


 アシュは異端の死体に背を向け、森道を歩き出した。


 この先にある小さな街で報告を済ませ、賞金だけ受け取って、夜が明ける前にはまた出るつもりだった。


 どこにも長居はしない。


 名前も、過去も、居場所も残さない。


 それが今の彼の生き方だった。


 だが、その夜は少しだけ運が悪かった。


 あるいは、最初から決まっていたのかもしれない。


 しばらく進んだ先で、アシュは足を止めた。


 森道の脇に、横転した馬車が見えたからだ。


 月明かりに照らされたそれは、黒く焼け焦げていた。


 近づかなくても分かる。


 教会の馬車だ。


 車体の側面に刻まれた聖環の紋章が、半ば炭化しながらも辛うじて残っている。


「……面倒だな」


 低く吐き捨てる。


 ただの旅人の襲撃なら、盗賊か魔物の仕業で済む。


 だが教会が絡むとなると話は別だ。


 アシュは気配を探りながら、慎重に馬車へ近づいた。


 御者台には誰もいない。


 馬は逃げたか、喰われたか。轍の脇には、何かを引きずったような血の跡が続いていた。


 地面には争った痕跡がある。


 剣で斬り結んだ跡。焦げた土。踏み荒らされた草。


 少なくとも四、五人はいたはずだ。


 だが、死体は一つしかなかった。


 馬車の影に転がっていたのは、黒衣の聖職者だった。


 胸元を深く裂かれ、すでに息はない。


 その手が最後まで何かを掴もうとしたように、地面へ向かって伸びている。


 アシュの視線は、その指先に落ちた。


 泥の上に、白い布切れがある。


 女物の衣装の端だった。


 その瞬間、森の奥からかすかな物音がした。


 枝を踏む、小さな音。


 アシュは反射的に剣の柄へ手をかける。


「出てこい」


 静かな声だった。


 だが、それだけで夜の空気がぴんと張り詰める。


 数秒の沈黙のあと、物陰からゆっくりと人影が現れた。


 少女だった。


 白銀の髪が月光を受けて淡く光る。泥と血で汚れた白い衣装は、元はかなり上等なものだったのだろう。片足を庇うように立ち、今にも崩れそうなほど消耗しているのに、その青い瞳だけは不思議なほど強かった。


 アシュは一目で悟る。


 ただの娘じゃない。


 服装。身のこなし。何より、その身にまとわりつく空気が違う。夜気の中で、そこだけわずかに澄んでいるような、あるいは周囲を拒んでいるような、妙な感覚があった。


「……生き残りか」


 少女は答えない。


 呼吸が浅い。かなり無理をしてここまで逃げてきたのだろう。


 アシュは剣を抜いた。


 少女の肩がわずかに揺れる。


 それでも逃げない。ただ、まっすぐこちらを見返してくる。


「名前は」


 問いかけると、少女は少しだけ唇を動かした。


 そして、絞り出すように言った。


「……殺すなら、早くしてください」


 アシュは眉をひそめた。


 泣きながら助けを乞うでもなく、命乞いもしない。


 ただ、覚悟だけが先に死んでいるような声だった。


「誰が殺すと言った」


「その剣を向けておいて、違うんですか」


「逃げる気力はあるようだな」


「逃げる意味なんて、もうありません」


 少女はそこで一度息を詰めた。


 その拍子に首元の布が少しずれる。


 そこに刻まれていたものを見て、アシュの目が止まった。


 白い肌の上に刻まれた、淡い銀の紋。


 教会の管理下にある特別個体――神子候補にのみ施される刻印。


 アシュの喉がわずかに動いた。


 教会が隠して囲い込む、“器”。


 噂だけは耳にしたことがある。

 世界を守るために選ばれた、尊い存在。


 そう語る連中の顔を、アシュは一人残らず信用していなかった。


「……面倒ごとの匂いしかしないな」


 吐き捨てるように言うと、少女――フィアナは少しだけ目を伏せた。


「なら、ここに置いていってください」


 その言い方が妙に引っかかった。


 諦めではない。慣れだ。


 見捨てられることに最初から期待していない声。


 その瞬間、脳裏に焼ける匂いが蘇る。


 灰。

 火。

 崩れた家屋。

 泣き叫ぶ声。

 そして炎の向こうでこちらを見ていた、小さな子どもの目。


 アシュの指先が、わずかに強張った。


 四年前の、灰祈りの村。


 思い出したくもない記憶が、一瞬だけ喉元までせり上がってくる。


「……ちっ」


 舌打ちして、アシュは剣を下ろした。


 その時だった。


 森の奥から、複数の足音が響く。


 迷いのない、訓練された動きだ。


 アシュは即座にフィアナの腕を掴み、馬車の影へ引き寄せた。


「え――」


「喋るな」


 囁くように言った直後、木々の間から灯りが揺れた。


 松明だ。


 続いて、甲冑の擦れる音。


「いたぞ! この辺りに痕跡がある!」


「逃がすな! 神子候補を確保しろ!」


 王国兵と、教会の執行兵。


 思った以上に面倒な組み合わせだった。


 フィアナの身体が、目に見えて強張る。


 アシュはそれを横目で見ながら、低く問うた。


「お前、何をした」


「……逃げただけです」


「理由は」


「生きたかったからです」


 即答だった。


 迷いのないその一言に、アシュは一瞬だけ目を細める。


 兵たちの足音が近づく。


 隠れてやり過ごすには人数が多すぎる。見つかるのは時間の問題だった。


 そして見つかれば、フィアナは連れ戻される。


 “世界のため”という綺麗な言葉の下へ。


 アシュは小さく息を吐いた。


「……最悪だ」


「置いていってください」


 フィアナはまた同じことを言った。


 だが今度は、その声が少しだけ震えていた。


「あなたまで巻き込まれます」


「もう巻き込まれてる」


「なら、なおさら――」


「黙れ」


 短く遮る。


 フィアナは驚いたように目を見開いた。


 その青い瞳の奥で、恐怖と、諦めと、それでも消えていない生への執着が揺れている。


 アシュはその目を見てしまった。


 見てしまった以上、もう見捨てられない。


 それがどれだけ愚かなことか、自分が一番よく知っているのに。


 木々の間から兵の一人が飛び出してきた。


「いたぞ――ッ!」


 見つかった。


 次の瞬間には、数人が一斉にこちらへ剣を向けてくる。


「対象確認! 神子候補フィアナ・ルーシェ!」


「保護対象だ、傷をつけるな!」


「抵抗する者は排除しろ!」


 先頭の執行兵が、アシュを見て眉をひそめた。


「……貴様、何者だ」


 アシュは答えない。


 ただ一歩、フィアナの前に立つ。


 兵の一人が苛立ったように吐き捨てる。


「その娘は世界のために必要な器だ。部外者が口を挟むな」


 器。


 その言葉を聞いた瞬間、アシュの中で何かが冷たく切れた。


 四年前、同じような顔をした連中がいた。


 命を、名前を、人生を、全部“必要な犠牲”の一言で片づけた連中が。


「……また、そうやって使うのか」


「何だと?」


 兵が顔をしかめる。


 その瞬間、アシュは動いた。


 一歩。


 踏み込みは静かだった。


 だが次の瞬間には、先頭の兵の喉元へ剣先が走っていた。


「がっ――」


 血飛沫が夜の闇に散る。


「敵だ! 構えろ!」


 叫び声と同時に、残りの兵が一斉に襲いかかる。


 アシュは半身に構え、最短の動きで剣を振るった。


 重くない。

 速い。

 無駄がない。


 まるで何百回も繰り返してきた動作のように、彼の剣は相手の急所だけを正確に裂いていく。


 一人。

 二人。


 三人目の刃を受け流した瞬間、胸の奥でまた熱が弾けた。


 《灰刻》を使うほどではない。


 だが身体はすでに限界を知っている。反動を飲み込んだばかりの腕は重く、足取りも決して万全じゃない。


 それでも、止まれなかった。


 止まれば、後ろの少女が連れていかれる。


 ただそれだけの理由で、アシュは剣を振るった。


 最後の一人が地に伏した頃には、再び森は静かになっていた。


 松明が地面に転がり、じりじりと草を焦がしている。


 アシュは荒くなった呼吸を押し殺しながら、剣についた血を払った。


 フィアナは言葉を失ったように、彼を見ていた。


 怖がっているのか、驚いているのか、自分でも分からないような顔だった。


「……行くぞ」


 アシュは短く言った。


「え……」


「次が来る」


「でも、あなた……」


「お前をここに置いていけば、俺はまた同じものを見ることになる」


 自分でも何を言っているのか、よく分からなかった。


 だが言葉は止まらなかった。


「それだけは、もううんざりだ」


 フィアナはしばらく何も言わなかった。


 やがて小さく息を呑み、それから震える声で訊いた。


「……あなたは、誰なんですか」


 アシュは数秒だけ黙った。


 名乗るつもりなど、なかった。


 名前を持てば、人はどこかに繋がってしまう。


 それが嫌で、今までずっと捨ててきたはずなのに。


 それでも、この場で嘘をつく気にはなれなかった。


「アシュだ」


 それだけ言って、踵を返す。


「行くなら今しかない」


 フィアナはその背中を見つめ、ほんの一瞬だけ迷ったあと、痛む足を引きずりながら後を追った。


 夜の森に、二つの影が溶けていく。


 その先に何があるのか、どこへ向かうのか、どちらも知らないまま。


 ただ一つだけ確かなのは、もう後戻りはできないということだった。


 遠くで、鐘の音が鳴る。


 教会の追跡開始を告げる、冷たい音色。


 それを背に受けながら、アシュは一度だけ空を見上げた。


 月は白く、やけに遠い。


 灰にまみれたこの世界を、まるで赦す気などないように。

ここまで読んでいただきありがとうございました。


第1話は、

アシュとフィアナの“最悪の出会い”を描いた回でした。


ここから少しずつ、


アシュの過去

フィアナの正体

教会と王国の構造

世界そのものの歪み


が明らかになっていきます。


もし少しでも

「続きが気になる」

「雰囲気が好き」

と思っていただけたら、


ブックマーク・評価・いいね・感想など、めちゃくちゃ励みになります。


次話は

「逃げる理由」

です。

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