第78話 ヴェンデリン、記憶喪失になる(その5 )
「ぷはぁーーー! 森の果実を漬けた、バウマイスター辺境伯が作った樽醸造の酒が美味いのである! ぜひこの村以外でも販売してほしいのである!」
「辺境伯様の記憶が戻らないと、こればかりはなぁ……。しかし記憶がなくても、やっていることは同じだな」
「本人はあまり酒を飲まないのに、酒に詳しいのは不思議であるが……。お姉さん、次は『ハイボール』をくれなのである!」
「辺境伯様が森の奥で見つけた、泡の出る水で酒を割ったやつな。キンキンに冷えたこいつは最高だよな。俺もハイボールを!」
「お館様の記憶はいつ戻るのか……。とはいえ、無理やりこの村から連れ出そうとすれば強く抵抗され、最悪またいなくなってしまうかもしれず……」
「そんなものなんですね」
「医者に相談したところ、お館様はこの村でノンビリ暮らすことで心が安定している状態だそうで、今の状態を維持した方が記憶が戻る確率が高いそうだ」
「確率が高い……。絶対に記憶が戻る保証はないと?」
「確実に戻るとは言い切れないそうだ。我々はお館様が他所にいかないように監視しながら、日々の業務や書類の整理を進めていかなければならない。他の家臣たちも忙しくてここに滞在できないので、エルヴィンの役割は大きいのだ」
「もう書類は見飽きましたよ……」
シンゴーさんの記憶は戻らない。
魔法使い二人……なんとそのうちの一人、巨体で筋肉の塊で、とても魔法使いに見えないおじさんは、王宮筆頭魔導師であるアームストロング子爵様だったことが判明した。驚いたなんてものじゃない……は、シンゴーさんを見張る名目で彼が村の外に出ると必ずついて行くも、なぜか自分たちも獲物や採集物を集めてそれを村で売り、酒場でお酒を飲みまくっていた。
一方、重臣の二人は酒場の二階、シンゴーさんの隣の部屋を借りて、そこで毎日書類と格闘したり、魔導携帯通信機で打ち合わせをしたり、指示を出して忙しそうに働いていた。
バウマイスター辺境伯領内にいなくても仕事が進むなんて、魔導携帯通信機って便利なんだって思っていたら、なぜかシンゴーさんが『リモートで仕事できるようになると、余計に忙しくなる。ううっ……頭が!』と頭痛になっていた。
シンゴーさんはこれまで、バウマイスター辺境伯として忙しく働いていたから、重臣の二人が懸命に働いているところすらトラウマになっているのだと思う。
「シンゴーさん、本当に記憶が戻るのかしら?」
「戻らない方がいいと思ってしまう私がいる」
「私もそう思ってしまいますね」
シンゴーさんには奥さんたちとお子さんたちがいるから、記憶が戻った方がいいに決まっている。
でももしこのまま記憶が戻らなかったら、この村に残ってこれまでどおり生活してもらっても……。
奥さんとお子さんたちの記憶がないのであれば、私たちと……。
こんなことを考えてしまうのはよくないと思うのだけど、バウマイスター辺境伯様として忙しく暮らすよりも、この村で必要な食い扶持だけ稼ぎつつ、のんびり過ごした方が幸せな気もしてしまうのだ。
「このまま記憶が戻らない可能性もある。そう考えておきましょう」
その時、シンゴーさんの奥さんたちはどうするのか?
無理やりバウマイスター辺境伯領に連れ戻すのか。
それとも、もうシンゴーさんはバウマイスター辺境伯として用をなさないので放置、お子さん次のバウマイスター辺境伯にして後見するのか。
色々と考えてしまう……酒場の娘である私にはよくわからいから、全部リーアさんから教わったのだけど……。
「もしシンゴーさんがこのままずっと記憶が戻らず、この村に残ることになれば……」
シンゴーさんは酒場の若旦那として二階で暮らし続けて、たまにお酒を作ってもらえれば、あとはノンビリと過ごしてもらっても問題ないどころ、大助かりだ。
酒場は私が女将になって経営すればいいのだから。
「たまに魔法で開墾や用水路の整備を手伝ってくれから、あとは私の屋敷で遊んでいてくれていい。名主の仕事は私がやれば済む話だ」
「今と同じく、たまにシンゴーさんと一緒に狩猟に行く生活が続くだけですね。私が猟師を続ければ生活は成り立つので」
できればシンゴーさんには、ずっとこの村にいてほしいものだ。
※※※※
「……ヴェルのやつ、いつも自分はモテないとか言ってるけど、すげえモテテますよね? 村の可愛いい子たちの視線が、みんなヴェルに向かってますよ」
「お館様は女性に優しいし、甲斐性は最高だから、女性にモテないわけがないということを本人が一番気が付いていなかった。ただそれだけのことです」
「安静が一番とはいえ、バウマイスター辺境伯の記憶がなくなってからもうすぐ一ヵ月である! さすがにエリーゼたちが……」
「そりゃあジレるよな」
「下手にここに押しかけて、強引にバウマイスター辺境伯を連れ帰ろうとすれば、どこかに逃げ出してまた行方不明になってしまうかもしれない。エリーゼにはそう説明したのである!」
「そこがなぁ……。この、蒸留酒を森の巨木で作った樽に入れて、辺境伯様が魔法で熟成させた酒。老舗の蒸留所で長期間貯蔵、熟成していた古酒に劣らぬ味だな。また作ってもらおうっと」
「ブランターク殿、お館様にはお酒造りではなく、領地の開発を進めてもらいたいのですが……。確かに、酒精分が強いのに味がまろやかで、ナッツとハーブに似た味わい、それでいてスモーキーさも感じ。内側を焦がした樽だからこその味ですか」
「ふと思ったのであるが、もしバウマイスター辺境伯の記憶が戻ると、この酒をもう造れなくなってしまうのでは?」
「それは惜しいな! ……辺境伯様は忙しかったからな。もう一~二ヵ月、お休みでも仕方がないと思うな」
「ブランターク殿!」
「いやだって、記憶が戻らないんだから仕方がないじゃないか」
「ブランターク殿はこの前、数日出かけて、ベッケンバウアー殿からなにか手に入れていましたよね? お館様の記憶喪失を治す薬かなにかを貰ったのでは?」
「貰ったには貰ったけど、ベッケンバウアーが作った魔法薬だぞ。もしこれを辺境伯様が飲んだ結果、余計に記憶喪失が悪化したらどうするんだ?」
「それは……」
「ゆえに、今は静かに待つしかないのである! お姉さん、この長期熟成古酒のハイボールを一つくれ、なのである!」
このところ、ローデリヒさんから書類仕事ばかり手伝わされ、一日も早くヴェルの記憶喪失が治らないかと心待ちにしているが、なかなかそう上手くはいかないようだ。
ヴェルは毎日楽しそうだし、村の娘たちは全員、ヴェルにこの村に残って生活してもらいたいと思っているのが容易にわかってしまった。
あいつ、いつも自分はモテないと言っているが、絶対に嘘だよな。
「どうしたものかなぁ。ブランタークさん、その魔法薬は効果あるんですか?」
「……ベッケンバウアーが作ったものだから、効果がある可能性は高い」
「じゃあ!」
「同時にそれと同じくらい、さらに悪い結果を招く可能性も否定できない。エルヴィンで試してみるか?」
「俺は記憶喪失じゃないので」
ベッケンバウアーさんの魔法薬のせいで、俺も過去に何度か酷い目に遭った。
そんなものを試した結果、逆に俺が記憶を喪失するなんてことになったら嫌なので、お試しはお断りしていた。
もどかしいなんてものではないが、今は待つしかないのか。
「俺にも一杯ください。そのハイボールとかいうお酒。というか、変な名前ですね」
「辺境伯様の命名だけどな」
「記憶がなくなっても、基本的にやっていることは同じような……」
「そこは、バウマイスター辺境伯らしいのである!」
魔法で作った、酒精分の強い蒸留酒に果物を漬けて果実酒を作ったり。
木の樽に入れて魔法で熟成させて売ってみたり。
サトウキビの廃蜜液を使って、少し入れるだけで料理が美味しくなる『旨み調味料』なるものを作ってみたりと。
普段と変わらないといえば変わっていないんだよなぁ。
ローデリヒさんから頼まれる仕事がないなら、すげえノビノビ毎日暮らしているけど。
「ヴェルの記憶が早く戻るといいですね」
「うむ、さすがにこの村で毎日、好きに飲み食いしていたら飽きたのである!」
「……導師、遊びに来たじゃないですから」
俺は毎日、ローデリヒさんと一緒に書類の山と格闘しているというのに……。
導師がいくら切羽詰まっても、書類の処理なんて死んでもやらないか。
「(明日も書類の山と格闘かぁ……。ヴェル、早く記憶を元に戻してくれ)」
ベッケンバウアーさんの魔法薬を……いや、もしもっと酷くなったら大変だ。
ここは、書類仕事をしながら気長に待つしかないか。
※※※※
『ということらしい。だから、アームストロング導師も、ブランタークも、ローデリヒもエルヴィンも戻って来ないのだよ。婿殿が記憶喪失では致し方ないな』
「そんな……」
「ヴェルが、私たちのことを覚えていないなんて……」
「子供たちもだよね? ヴェルが無事だったのはいいけど……」
ヴェンデリン様が行方不明になって一ヵ月ほど。
ローデリヒさんとエルさんが、バウマイスター辺境伯領を出てリモートで仕事をしていると聞いておかしいと思ったのですが、先にヴェンデリン様の捜索に向かった伯父様とブランタークさんと合流したのち、なんと北部の村でヴェンデリン様を発見したとか。
ただヴェンデリン様は完全に記憶を失っており、無理やりバウマイスター辺境伯領に連れて帰ろうとすると、どこかに逃げてしまう可能性があるそうで。
今はその村でシンゴーと名乗ってノンビリと暮らしながら、記憶が戻るのを待っているとか。
「だからローデリヒさんとエルは、領地の外から他の家臣たちに指示を出して、書類を処理しているのね」
「で、エルはローデリヒさんお手伝い……大丈夫かな?」
「エルも重臣だから、このところちゃんと書類仕事もしているから大丈夫よ。それよりも、いつヴェルの記憶は戻るのかしら?」
「わかりません。伯父様が『強いショックを与えれば、すぐに記憶が戻るのである!』と言って、ヴェンデリン様を大木に全力で叩きつけようとしたとか、上空から地面に叩きつけようとしたとか、ベッケンバウアーさんが作った魔法薬を飲ませようとしたとか。色々と不穏な情報が……」
『『婿殿を殺す気か!』と魔導携帯通信機で注意しておいたが、アームストロング導師は、待機なのをいいことに毎日酒盛りをしているそうだ。ブランタークもいるからなぁ』
「……お爺様、ヴェンデリン様の記憶は戻るのでしょうか?」
『ワシも独自にドリー司教や他の医者たちに聞いてみたが、ショック療法というのはなにも、暴力的にやればいいものではないそうだ。なにか驚かすことでも構わないらしい。エリーゼ、お前が直接婿殿に会いに行くというのはどうだ? アームストロング導師に任せておくと、それをいいことに毎日酒盛りばかりして、さすがに陛下も困っているらしい。一応あいつは、王宮筆頭魔導師だからな』
ブランタークさんもいるとなると、伯父様が毎日酒盛りをしているのは容易に想像できますし……。
「私が、ヴェンデリン様と会えば記憶が戻るのでしょうか?」
『絶対とは言えないが、ベッケンバウアーの怪しげな魔法薬よりは効果があるかもしれない。それに、さすがは婿殿というか……』
なんとお爺様によると、ヴェンデリン様が滞在してる村の有力者の娘たちが、このままヴェンデリン様の記憶が戻らなかったら、婿にしようと考えているとか。
村の酒場に魔法で作ったお酒を納めたり、狩猟や採集で貢献したりと、村の人たちからとても好かれているそうで。
それがヴェンデリン様のいいところではあるのですが……。
「……。試してみることは大切です。私がその村に参りましょう」
『とにかく、色々な方法を試してみないとな。導師の木に叩きつけるは論外だが……』
たとえ記憶がなくても、ヴェンデリン様は優しいから、女性に好かれやすいのは相変わらずですね。
村の女性たちは、ヴェンデリン様の記憶が戻ってなお、ヴェンデリン様が妻として迎え入れたいと願うのなら問題ありませんが、私たちとフリードリヒたちは一日も早くヴェンデリン様に戻って来てほしいのです。
急ぎ、その村へと向かいましょう。
多分伯父様とブランタークさんは、お酒ばかり飲んでいて駄目でしょうから。
「私も行くわ」
「ボクも。ヴェルの奥さん総出で迎えに行こうよ」
「その方が、早くヴェンデリン様の記憶が戻りそうですね」
「ショックが必要だものね。他のみんなにも声をかけてくるわ」
イーナさんが全員を集め、私たちは小型の魔導飛行船を用意し、急ぎヴェンデリン様が滞在する村へと向かうのでした。
※※※※
「おい! あの空飛ぶ船はなんだ?」
「魔導飛行船じゃないかな? こんな田舎の村に来るなんて珍しいな」
「もしかして、この村に用事なのか?」
「あれ? 誰かが下りて来たぞ。それも十名以上も」
「美女揃いだな。先頭の女性はもの凄く上品だ」
「貴族の奥様っぽいな」
このところシンゴーさんのおかげで広がった畑を耕していたら、村のハズレにある草原に一隻の魔導飛行船が下りてきた。
実は初めて近くで魔導飛行船を見たのだが、本当にこんなに大きなものが空を飛ぶんだな。
などと感心していると、船から女性ばかり十名以上が下りてきた。
綺麗な人たちばかりで、特に先頭の女性は気品あふれるというか、村には決してこんな女性はいない。
「すみません、シンゴーという方はいらっしゃいますか?」
「ええと、村の酒場の二階を宿にしていて、今は酒場に酒を卸していると思います」
「ありがとうございます」
この人が、実はバウマイスター辺境伯様だったシンゴーさんの奥さん……たちか。
羨ましいのは当然として、アイシャ、リーア様、ミンファには勝ち目がなさそうだな。
「そりゃあ、バウマイスター辺境伯領に戻るよな。もう一ヵ月も経ったんだから」
「だろうな。できれば、もう少し畑を広げてほしかったけど」
シンゴーさんがいるとありがたかったんだけど、こんな幸運が長続きするわけがないか。
みんな、この一ヵ月でシンゴーさんに色々と教わったから、それを参考に村の発展に努めないとな。
そうすれば、俺も奥さんを二人くらいは……。
そういう欲も、村の発展には必要だってことでね。
※※※※
「シンゴーさん、今日のお酒の出来も素晴らしいですね」
「最近、注文が増えたよね」
「ええと……。その半分ほどを、あの魔法使い様二名が飲み干してしまうんです。売り上げは増えたのですが、王宮筆頭魔導師の方が、半月も毎日酒盛りをして問題ないのでしょうか?」
「一般的に考えるとよくない気がするけど、どうなんだろう?」
今日もアイシャさんの酒場にお酒を卸したが、その多くをあの二人が飲んでいたとは……。
ザルなんてものじゃないな。
「俺の記憶が戻るまでは、家宰と重臣の人たちも含めて、ずっとこの村にいるのかな?」
「だと思います。あの、もしシンゴーさんの記憶が戻らなかった場合、この村に残ってもいいのでは? 記憶もないのに、バウマイスター辺境伯様として振舞うのは大変だと思います。シンゴーさんはこのまま、今の生活を続けた方が幸せだと思うんです」
「……」
アイシャさんからそう言われると確かに、顔も名前も憶えていない奥さんと子供たちと、それも大貴族として暮らす自信が俺にはなかった。
それに、俺が記憶をなくしてもう一ヵ月だ。
このまま記憶が戻らない可能性だってあるわけで、ならばこのままずっとこの村で暮らす覚悟も……。
「アイシャ! 大変だ!」
「シンゴーの奥さんたちが!」
このまま村に残る選択肢もありだと思い始めたその時、まだオープンしていない酒場にリーアさんとミンファさんが駆け込んできた。
二人はお酒を飲まないので、この酒場に入ってくることはまずなく、なにか他の用事、それも緊急事態……あれ?
今、ミンファさんが俺の奥さんたちって……。
と思った瞬間、酒場の入り口の扉が開けられ、俺は……。
※※※※
「なにが安静にだよ! エリーゼたちが顔を見せたら、すぐに記憶が戻ったじゃないか!」
「まあままエルヴィン。ホーエンハイム枢機卿によれば、エリーゼ様たちと顔を合わせることも一種のショック療法だそうだ。いやあ、お館様の記憶が戻ってよかった。ところで、どうしてお館様は記憶をなくされたのですか?」
「それがさぁ……」
俺は貴重なお休みを、北部の森林地帯で狩猟や採集をしながら過ごしていた。
魔物の領域ではないのは、バウマイスター辺境伯領で新しい産業を始めるのに必要な木材を集めていたからだ。
「それで、目的の木によく似た木を見つけて、少し幹を削って香りを嗅いだら大当たり。大喜びでサンプルを持ち帰ろうとしたら……」
突然、後ろから強い衝撃に襲われて、太い幹に強く頭を打ち付けた。
そして目が覚めたと思ったら、今この時だったというわけだ。
「ヴェル、記憶を失ったこの一ヵ月の記憶はないのか?」
「俺、一ヵ月も記憶がなかったのか? ついさっき、木の幹に強く頭を打ち付けた感覚なんだけど……」
「記憶喪失の人の記憶が戻ると、記憶喪失中のことをすべて忘れてしまうそうです。ホーエンハイム枢機卿が、教会の医者からそう聞いたそうです」
「俺もそんなことを聞いた気がする」
ローデリヒと違って俺の場合、その話は前世で聞いたのだけど。
「それにしても、エリーゼたちには心配をかけてしまったな。ローデリヒたちにも迷惑をかけてしまったし」
「お館様の記憶が戻ったのであれば、これ以上の喜びはありませんよ」
「突然後方から俺を押した風……魔法の塊ようなものだと思うんだけど、周囲に魔法使いなんていなかったからなぁ。何者の仕業なんだ?」
俺を意図的に狙ったというよりも、誰か魔法使いが魔法の試射をして、それがたまたまはるか遠方にいる俺の背中に命中したって感じだな。
「魔法の流れ弾って感じか? 弓矢でそんなことがたまにあるが、よほどの高威力でなければそんなことにはならないはずだ。もし至近から放たれたら、辺境伯様はその魔法使いに気が付いて、回避なり防ぐだろうからな。その魔法使いもただでは済まないはずだ」
俺を狙う魔法使いなんていたら、腹が立つし、逃がしてまた狙われても困るから、確実に捕らえるか倒しているはずだ。
あの時の俺は、まったく他の魔法使いの気配を感じなかった。
つまり魔法は、かなり遠方から飛んできたのだ。
「となると、凄腕……魔力量の多い魔法使いが、ヴェルのいる方向に向けて放った風魔法の塊が、長い距離を経てたまたまヴェルに命中したってことですか?」
「そういうことになるな。しかしそうだとすると、よく数十キロも森の中を飛んで辺境伯様に命中したものだ。普通は、森の木かなにかに当たって消滅するだろうからな」
またも俺は、悪運に見舞われたということか……。
「そんなことが起こるなんてな。でも、そんな高威力の魔法を放てる魔法使いなんて……」
全員の視線が一斉に、導師へと向かった。
導師の魔法なら、数十キロ先の俺に命中するかもしれないからだ。
「導師、このところ放出魔法の鍛錬をしていると聞いた。まさか風魔法を北部に向けて放ったりは……」
「某、誰もいない北に向けて『風蛇』の魔法の練習をしていたのは事実であるが、アレが数十キロも飛んでバウマイスター辺境伯に命中したのであるか?」
「うーーーん、そう言われると……」
そんな奇跡が起こるとは思えず、いくら導師の魔法が凄くても、数十キロ離れた俺を吹き飛ばして木の幹に激突させるほどの威力があるかと問われると……。
「世の中、謎が多いのである!」
「「「「「「「「「「……」」」」」」」」」」
導師の魔法という決定的な証拠もなく、結局俺を吹き飛ばして木の幹にぶつけた魔法を放った人物は不明ということに。
……でもみんな、導師を疑っている感が……。
不可抗力なので仕方がないのだけど。
「とにかく、早く帰ってフリードリヒたちに会いたいですね。早く戻りましょう」
その前に、お世話になった村の人たちに挨拶をする必要があるだろう。
残念ながら、記憶が戻った俺は村の人たちのことをすべて忘れてしまったにしてもだ。
そして俺は、バウマイスター辺境伯だ。
しっかりと村に人たちに、この一ヵ月お世話になったお礼をしなければ。
「早くフリードリヒたちに会いたいな」
村の人たちにお礼をしてから、早くバウマイスター辺境伯領に戻るとしよう。
そしてしばらくは、記憶喪失の後遺症があるから、俺は静養するか。
明日からいきなり、ローデリヒに扱き使われないようにしなければ。
※※※※
「シンゴーさん、記憶が戻ったら私たちのことを忘れてしまったんですね。悲しいです。でもあんなに家族の仲が良さそうだと、私たちは……」
「シンゴーの奥さんたち、綺麗だったな。それにいい家族みたいで、シンゴーも子供たちのところに帰りたがっていた。引き留めるのは可哀想だし不可能だ」
「シンゴーさんの記憶が戻ったのも、奥さんたちの顔を見たからでしたしね。元から私たちにチャンスはなかったんですね」
シンゴーさんは村に多額のお礼をしてから、挨拶をしてバウマイスター辺境伯領に帰ってしまいました。
このまま記憶が戻らず、この村で私たちの婿になって……なんて都合のいいことは起こらず、残念無念です。
「はあ……。シンゴーさんよりも素晴らしいお婿さん、見つかるでしょうか?」
「難しそうだ」
「しばらくは気落ちしそうです」
三人とも肩を落としてしまいましたが、シンゴーさんがこの村に残したものは大きいです。
酒場は料理とお酒のメニューが増えましたし、シンゴーさんのように熟成酒を魔法で短期間では作れませんが、村の醸造蔵ではシンゴーさんが魔法で作ったお酒の再現が始まっていました。
時間はかかっても、完成すれば村のいい名産品となるでしょう。
私も、シンゴーさんに教わった果実酒やハーブ酒を自分で作るようになっていましたし、お酒を熟成させる時に必要な樽の材料となる木も教えてもらいました。
この木で作った樽を他の醸造所に販売すれば、村の新しい産業になるはずです。
村の畑も広がって、それと合わせて用水路も整備されたので、お酒の材料になる穀物の生産量も大幅に増えるでしょう。
村の脅威となる大きな熊も駆除され、しばらくは村も熊に怯えなくて済む。
こうやって彼の一ヵ月の功績を羅列してみると、さすがは王国一の出世頭と言われるバウマイスター辺境伯様というべきでしょうか。
「シンゴーさんが残したものを利用して、この村をもっと大きくしていきましょう」
「それが実現すれば、シンゴーには勝てないだろうが、いい婿が来てくれるかもしれない」
「そうなることを願って、シンゴーさんのことは諦めましょう」
その後の私たちは、シンゴーさんを忘れるべくそれぞれ仕事に没頭しました。
私は、自分も果実酒やハーブ酒を作るようになった縁で村の醸造所の跡取りに嫁ぎ、シンゴーさんが教えてくれた樽で熟成する蒸留酒の生産を軌道に乗せ、村の新しい名産品とすることに成功しました。
そして実家の酒場は、村の蒸留酒を優先的に取り扱えるようになり、他の村や町に支店を作るほど繁盛するように。
リーアさんも隣村から婿を貰い、さらに農地を拡大してお酒の材料である穀物の生産量を大幅に増やし、ミンファさんも婿を貰って村の猟師たちを束ねる存在に。
その結果、私たちが年寄りになる頃には、村は町と呼ばれるまでに発展したのでした。
そして私たちが亡くなる直前、町はシンゴーさんの功績を後世に残すべく、彼の銅像が建てられました。
ただバウマイスター辺境伯様の像とするわけにいかず、『村の功労者、シンゴーの像』とされてしまったのは残念でしたけど。




