6-2-2 negotiation
虚脱感。
現実に帰還したセルゲイが最初に感じたのは、安堵以上に空虚さだった。
元々自分が何かわかっていた訳ではない。
わかっていたつもりになっていただけだ。
自分自身が役割を演じ続けていたように、彼女もまた演じていただけだった。
互いに交渉の場について議論を交わしているつもりになっていたが、自分はまだ交渉の席についてすらいなかったのだと、理解した。
「あらゆることが人並み以上にはこなせるように訓練してきた。だが、神代鏡の、あの『魔女』のそれは到底辿り着ける領域ではなかった」
セルゲイ・ロマノフは、皇族だ。
自然、評価はそれに準拠したものになるが、最低以上には能力が備わってなければどう甘く評価されても主席などにはなれはしない。
ありとあらゆる分野の努力を、議会の連中の注意を引かない程度にそつなくこなしつつ、それでいて公的な行事には参加しなければならない。
スペシャリストにはなれないが、大抵のことは水準以上にこなせるゼネラリストではあると自負していた。彼女もまた、同じだと思っていた。
それは、立場の問題もあるが、見極めの早さも起因している。
この程度にこなせていれば問題ない、という認識と、この程度であれば問題なくこなせるであろう、という認識。
それは、諦めと妥協。
つまり、自分にとっての上限は、彼女にとっての通過点でしかないのだ。
彼女自身、別段力を温存していた訳ではないだろう。
だが、どのような理屈か『魔女』という人格が、その力を最大限に引き出した結果が先ほどの戦いだった。もしかしたら、あの戦いすら彼女にとっては通過点の一つに過ぎないのかもしれない。
「畏れているのか? 彼女を」
元より彼女は異質だった。
憧れであり、理解者であり、目標であると思っていたそれは。
偶像でしかなかった。
求めてやまなかった偶像は、そこにはなかった。
いや、仮初めのなにかはあったのかもしれない。
だがそれは、後から現れた『魔女』によって上書きされてしまった。
コインの裏と表。
鏡写しのようなそれは、どちらも真実なのだ。
「神代からの通信か。安否の確認だとは思うが、さてさて『偶像』かそれとも『魔女』が出ることやら」
PITを経由して彼女の声が聞こえる。
天使の詩のようにも、悪魔のささやきにも聞こえる声だ。
「体に異常はないかい? こちらは、何とか無事に帰れたようだ」
「おかげさまで、生きている。君の素性がどうあれ感謝してる」
「素性? ああ、そうかクロエの方に会ったのね。意識と記憶が混濁してるから、私の方では状況が把握しきれてなかった」
「今、俺と話しているのは神代鏡の方なのか? 君は、いわゆる二重人格なのかい?」
未知なるものへの恐れと圧倒的な強者に対する畏れが混ざり合った思考は、少しずつ混濁していく。
「間違ってはいないと思う。私自身もそう思っているから、ただ、彼女は自分を姉のようなものといって、私自身と対話したりもしている。分割された意識が入れ替わっているわけではなく、おそらく、共存している状態なんだと考えている」
「では、この会話も『魔女』に把握されているということか」
「おろらくはね。しかし、『魔女』とは彼女を表す言葉としては、言い得て妙だが、言われる側としてはうれしくはないね。彼女は私であり、私は彼女でもあるんだから」
「いや、お前自身で間違いないのだろう。ならば『魔女』と切り分けをするなら、『魔女』の紛い物で十分だ」
「彼女は私であって私ではないものではある。だが、仮にも命の恩人にいう言葉とは思えないね。まあ、それだけ色々しゃべれるなら、安否の確認は十分だね」
やはり、彼女は優しい。
精々が虚勢を張ることしかできない自分とは違う。
「感謝する。君に会えたこと、共に学んだこと、そして、救われたこと。すべてに」
「なんだ、素直になれるじゃないか、君も。もっとも、最後の最後がこんな形になるとは思っていなかったけどね」
「そうか、旅立つのか。帰国かあるいは新天地か、だが、覚えておけ。何度でも俺は挑むだろう、それがいつどこになるかはわからないが、必ず君に辿り着く」
「なら、待ってるよ」
「改めて言う、首を洗って待っていろ」
「わかった。でも今は、さよならだ」
通話が終わる。
意識がまどろみの中へと消えていく。
極限状態からの帰還、取り戻した意識は暗い眠りへと沈んでいく。
夜の闇が世界を黒く染めていくように。
彼もまた変わっていった。
改装編暫定終了。次回は、別の展開予定です。