2.王太子の婚約者
彼女は、アーベリア・バセロルト。
バセロルト公爵家の長女だ。
ラハンより二歳年下でイグニスより一歳上の彼女は、しとやかな雰囲気を身に纏い、座り方も上品だ。
それは、彼女が幼い頃から礼儀や作法を寸暇を惜しんで学んできた努力の賜物だ。
「怪談話はよそでやってくれ。俺は興味ない」
「相変わらず手厳しいねぇ、イグニスは。まぁ、だからこの子を任せられるんだけどさ」
「アーベリア。本当に行くのですか? 君が少しでも迷っているのなら、私は王に直談判して話を白紙に戻しますよ」
ヒューガが心配そうに眉をひそめて言うと、アーベリアは即座に首を横に振った。
「いいえ、お父様。これはわたくしが望んだことなのです。このお話が舞い込んできた時、わたくしは嬉しさで胸がいっぱいになりましたもの。ぜひ行かせてくださいませ」
アーベリアがニコリとヒューガに微笑みかけると、彼は小さく息を吐いて頷いた。
「君がそこまで言うのならば……わかりました。ただ、『王太子の婚約者』としての立場は、あの城では苦難を伴うでしょう。ですが、何かあればすぐに私達を頼ってください。君は私達の大切な〝家族〟なのですから」
「ありがとうございます、お父様。そのお言葉だけで、わたくしはどんな困難も乗り越えられそうな気がしますわ」
アーベリアはソファからスッと立ち上がると、ヒューガのもとまできて、その温かく大きな手をそっと握った。
「あんな『魔の巣窟』に可愛い妹を行かせるなんて本当心配だよ。だってあそこの王妃、溺愛する息子の婚約者候補になった令嬢達に陰険な嫌がらせをして、耐え切れなくなった彼女達は自ら婚約者候補を辞退したって噂があるよ。だから王太子が二十五になっても正式な婚約者ができなかったって」
「王も焦ったのでしょうね。今回のうちへの打診も、王妃の許可を得ずにしたものでしょう。アーベリアは〝王家の婚約者〟として所作と教養は完璧ですから。『候補』ではなく『正式』に話がくるのは当たり前のことだったのですが……」
「大丈夫よぉ、あなた、ラハン。そのために従者兼護衛役として、イグニスを一緒に行かせるんだから」
カロリナは安心させるようにヒューガとラハンの肩をポンと叩くと、イグニスに向かってパチリと片目をつぶった。
「イグニス、アーベリアをしっかりと守るのよ? お城では何があるかわからないから、この子から離れないでね」
「あぁ」
無表情で頷くイグニスの肩にラハンは腕を回すと、彼にしか聞こえないような声音で耳元で囁く。
「イグニス、アーベリアの可愛さあまり理性を飛ばしてヘンなコトしないでよ? 血が繋がっていないからって、それはダメだからね?」
「……俺がそんなことをするとでも?」
イグニスが両目を細めて言い返すと、ラハンは腕を離し肩を竦めた。
「まぁ、カタブツの弟にはできないか。本当はボクがついていきたかったけど、長男のボクが父さんと母さんを守らなきゃいけないしね。可愛い妹に何かあったら……わかってるよね、イグニス?」
「…………」
ラハンの瞳が微かに開けられ、イグニスを見据える。
イグニスはその鋭い眼光を真っ向から受け止めた。
普通の者でイグニスの立場なら、蛇に睨まれた蛙のような気持ちになり、恐怖で身体が硬直するだろう。
「大丈夫ですわ、お兄様。イグニスが一緒なら心強いですもの。それに、わたくしはか弱い女ではありませんわよ? それはお兄様もわかっていますよね?」
「ははっ。うん、そうだったね」
今度はラハンのもとに来て手を握るアーベリアに、彼はいつもの糸目に戻し笑みを返す。
「王太子の婚約者になることは、わたくしの〝願い〟でもありました。ですので心配なさらないでくださいね。愛する人のためならば、どんな苦難や困難も乗り越えてみせますわ。――行ってまいります、お父様、お母様、お兄様」
「あぁ。気を付けていってらっしゃい、アーベリア」
――そうしてアーベリア・バセロルトは、弟のイグニス・バセロルトとともにユグドール王城へと旅立った。
しかしそこは、兄ラハンの言うとおり、さまざまな思いが蔓延る『魔の巣窟』であったのだった――




