第23章 永劫回帰論の果て
彼は何処から出てきたのか定かでは無かったが、目の前で泣き崩れる彼女を冷ややかに見下した。
彼の眼光には悍ましいほどの憎悪が含有されており、何もかもの希望を悉く捻り潰すことが可能なものであった。彼女はそれに圧倒されるも、顔を見上げることはしなかった。
水色の、青空を描くようなサラサラした頭髪は今でも爽快であったが、決して感情では無く恍惚でも無い――只管の恐怖意志を持ち合わせた、絶望の爽快さである。
自己をもつこと、自己であることは人間に与えられた最大の譲与であり、無限の譲与であるが、しかし同時に、永遠が人間に対してなす要求でもある――それは彼女にとって須く強大な壁となって君臨した。
就中それを蔑ろに扱う愚は犯さなかったというもの、彼女自身が唯一不二の絶対自己の両保有となると、聊か神をも欺く対立矛盾となってしまう。これが彼女にとって最大の病であった。
世は隔靴掻痒、自分のもどかしさを恥じてはただ、己の依る処の相対的な現実を保存する為に繕われた意識的知性の、愚かな集団である。彼女はそれに無意識のうちに攻撃し、結局は投げ出されたのである。
これこそ愚かというものか、而してどうするべきか、と言う答えにどう応えるべきか、一切合切分からなかった彼女はカイアスの視線も含めて狭間に閉ざされていた。
眼前に広がるのは常闇である。空想なら幾らでもナラトロジーを分析できるが、どうも現実はそうはいかないらしい。彼女自身の夢にも出てきそうな非現実的現実の属性を帯びた闇は、黒洞々として広がっていた。
「第二人格のお前は、沢山の人を殺した。多くの災害を巻き起こすきっかけを作った。…それで"英雄気取り"か?」
ふと、彼女は笑いを作った。涙の奥から込み上げる、反射的な笑いである。それは意識さえしていなかったものだ。
彼女は不意に立ちあがった。よろめきながら立ち上がる彼女の姿は不気味であった。まるで幽霊のような非現実的な存在感を示し出していた。
「なあ、カイアス…否、セヴェロン」
「なんだ、馴れ馴れしいな。…開き直ったのか?」彼は多少身構えた。
「―――"何時から私は"多重人格者"だと思い込んでいた?」
彼女は豹変した。今までの人格と狂気に駆られた第二人格とを同一化させ、遠くに投げ飛ばした剣を再び拾ってはカイアスに斬りかかった。
不意な行動に一驚した彼は動けず終いでいた。しかし咄嗟に身を躱し、再び幻影の霧に包まれて身を消した。彼はいなくなってしまったのである。
彼女は空気を劈いた。無駄斬りである。…彼女は剣先を地面に付け、口元に微笑を作った。不敵な笑みであった。彼女は最早、最初からそうだったのである。
「…なあ、カイアス。お前は消えた。絶望の中に堕ち臥せ、今やお前は幻影だ。…お前の言った事は嘘、本物は"私だけ"だ」
その瞬間、彼女を取り巻く苔結ぶ部屋、爆発四散した兵器の跡が全て輝く粒子状となって消え失せた。
彼女はその瞬間、超人となって世界を見下ろす高台に立っていた。眼下には人々が見える。それは一種のカレンダーのようであり、右端には現代の世界が、左にずれて行くにつれて過去に遡っている。
丁度真ん中から少しずれた辺りに、立てられた木に縄で結び付けられた女性を火にくべる敬虔な教徒たちがいた。火刑に処されていたのは、紛うこと無き自分であった。
彼女はそれを見て、少し笑った。火刑に処されていた存在も笑っていた。するとどうだ、彼女を取り巻くカレンダーのような景色から、多くの笑い声が響いたのである。
大いなる光を以てして、今や彼女は世界を統べたのである。あらゆる過去も未来も、今や超人と化した存在の前では自明な事柄であった。故に彼女は恐怖や絶望が存在しなかった。
今に彼女は神となる。神と化して、あらゆる世界や存在、理性や悟性、そして萬物の真理やイデアを管理するのだ。彼女はシステムだ。サーカムフレックス体と言う名の、"共通的存在"であったのだ。
どうだ、遠くではヘテログロジアが笑っている。ノーエンデイルも笑っている。彼女はオルタナでもあり、ヘテログロジアでもあり、ノーエンデイルでもあった。更にアンティキティラ型のサーカムフレックス体も、モーター音で笑っている。今や世界が笑っているのだ。
彼女は大きく両手を広げ、天空から大地を見た。…磔刑に処されし神は、彼女と恒等であった。形式的にも、教条的にも、彼女自身はオルタナでもあってヘテログロジアでもあって神であった。
彼ら自身の十字架は、全て彼女が普遍的に与えた罪に過ぎない。…今に左端のほうで見える只見の洞窟では、彼女自身が神に問いかけていた。
「変革、変革って何」
神は、否、共通意識は言った。
「やがて世界の何をも覆い込む悪夢そのものだ。それは人間を破壊し、新たなる生命体を築き上げようとしている。遠い未知の神秘は、人間によって破壊されようとしている。
今に、お前が思う「世界理性」を理解しなければならない時が来た。…時は満ちたのだ。
―――お前に力を授けよう。お前の想う、お前の意思によって、お前はその変革を、お前自身の手によって葬らねばならぬのだ。其れこそ、お前の使命なのだ。お前の罪滅ぼしを唯一可能にするものとして」
悪夢とは、そして変革とは、まさしく彼女の事であった。
◆◆◆
「遠い世界線で垣間見たような景色が、たった今、具現化されている――果たしてどう思うか?」
共通意識の背後に広がる大いなる闇から、声が聞こえた。その声の主はやがて闇の中から姿を現し、スマートフォン片手に白衣を雑然と纏っている。
「かつてこう言ったっけな――『お前が思う、お前なりの最善の意思なら、俺はどんな結果になろうが何も思わんわ』」
共通意識は振り返った。ヒリヒリとした記憶が、鎮静する共通ゲージ的意識層の中に差し込まれた。
彼はスマホの画面を徐に彼女に向かって見せつけた。…『ロレンス・ヴォーグレイヴ』、それは共通意識体の一部が表明した、自我の表層であった。
なんだかなぁ、と独り言を言いつつ、彼は徐々に距離を近づけた。共通意識の中で雷雨が発生し、それはエラーを引き起こす。彼女は頭を抱えた。超人が超人でなくなろうとしている。
通俗性に耽溺した輩の一言一言が、飽くまで論理的でありながら悪魔の証明的な尖槍となって、彼女を突き刺すのだ。まるでロンギヌスのように。
「…ワタシが世界を揺るがすような存在で、もし皆を不愉快にさせてしまう結末を導いたら、皆はどう思う?」
「それだよ、それ。…お前自身がまさか、この広大な宇宙を包括する共通意識体の一個体であったとはな。それも、まさかお前が枢軸だったとは」
「…相手が私である事を最初から知っていたノカ」
「当たり前だろう。…しかし、まさかヘテログロジアやノーエンデイルが、全てお前の意思の元に遣わされた存在だったとはな。しかも観て見ろ―――」
彼は眼下を指さした。そこでは、ヘテログロジアやノーエンデイル以外にも、天子やパチュリー、にとりやアリスと言った面々から、オーウェンやカミルと言った敵対していた存在、更には全ての大衆が笑い始めた。
ふと、共通意識も笑いそうになった。しかし彼女は彼らと同等に陥ると言う模倣だけは回避した。
「全員、笑っていると来てる。全てサーカムフレックス体だったのか?」
「…いいや、彼らはサーカムフレックス体じゃないさ。…彼らは"本来予期されていなかった世界プログラムに於いて予測され得ぬ存在に対する相対的態勢"の一環に過ぎない」
「要するに、今俺が観てるのは、本来は有り得ない未来なのか。つまり俺は来てはいけない世界に辿り着いた――まさかコレが連れて行ってくれるとはな」
彼はスマホを見せつけた。
「…お前と言う共通意識との紐帯を持ったからか?」
「―――残念とも言うべきか?それとも"汝、悦べ。お前はお前と為ったのだ"と言うべきか?」
「後者がいいなぁ」
彼はスマホをスボンのポケットに仕舞い込み、更に両手をポケットに突っ込んだ。
そのまま彼は共通意識体の横まで歩いた。改めて世界が大きく広がっている事を痛感させられた。
「…零期回生って、ホントにあのままの意味通りだったんだな。受け持つ巨大な含蓄データのやり繰りは大変だろう?」
「大変じゃないさ。お前は見たのだろう、この世界のあるがままの姿を。…見ていないなら見るがいい、これが世界だ。…これが偽りと欺瞞に満ちた世界線の描く姿そのものだ。この上にも下にも世界はない。地獄や天国なんて譫言に過ぎない」
「――共通意識が言うとなると、信憑性があるね」
そう言うや否や、彼は徐に武器を取り出した。――ノーエンデイルが持っていた剣、確か名はレーヴァデインとでも言っていたような気がするが――を構えては、共通意識体に向けた。
それは人間による神への、世界への、また、真理への挑戦であった。偉大さが眠っている英雄的行為の裏腹には、彼自身の哲学も存在していた事は言うまでもない。
彼女は背中に剣先を向けられた。蒸気が焼け付くように熱いが、特に気にも留めなかった。別に熱いにせよ、共通意識にとってそれは"どうでもいい"のだ。
「…愚かだな。ワタシに歯向かうか」
「―――仇名で呼ばれている以上、ここでこう言う訳をしないって事にもいかないのでね…」
「フリードリヒ・フォン・シラー……良い仇名だな」
彼女は剣を構えた。眼前に敵対するは、真理への反逆者。そして大いなる英雄。
彼は目を尖らせた。一切合切の理屈や論理は、その場では最早通じないだろう。今や彼は神と化していたし、共通意識もまた、今や人間と化していた。
神に対する理性的な反逆は、これが最初であって最後であろう。――それは彼女が思う確信であったし、それを信じたいという願望でもあった。
2人を取り囲む笑い声。喧噪さが耳に障るが、両者の間では驚くほど静かであった。
「…何が幻想で、何が現実か。教えてくれよ、"オルタナレクリプスXV"――」
「ああ、教えるとも」
「それで結構。さあ、始めようじゃないか――何もかもを決める、全ての最終決戦を!!」




