第四十二話 森に響く音
その夜は来なかった。
次の夜も。
村の連中は、少しずつ気を緩め始めた。
もしかしたら、あの一匹きりだったんじゃないか。
そんな声も聞こえた。
俺は、気を緩めなかった。
腹を空かせた獣は必ず来る。
あとは、いつ来るか。
三日目の夜だった。
ヨハンの家の方で、鐘が鳴った。
何度も。何度も。
ついに来たんだ。
俺は飛び起きた。
服を着る前に、剣を掴んでいた。
体が勝手に動いた。
外はまだ暗い。
鐘が、村中に響き渡っている。
けたたましく、途切れなく。
ニールが鳴らしているんだろう。
あいつが、今夜の見張りだった。
「セラ」
寝ているセラを、毛布ごと抱え上げた。
目を覚ましたセラが、俺の顔を見た。
「ヨハンさんの家へ行くぞ。掴まってろ」
「う、うん……」
セラはまだ、事態が呑み込めていない顔をしていた。
それでいい。
分からないままでいい。
「レ、レイヴァン! おれたちはどうすれば――」
「柵のほうへ! 槍で数を減らしてください! 俺もすぐに行きます!」
「わ、わかった!」
ヨハンの家へ向かう途中、村の男連中とすれ違った。
震えていた。
でも、俺の指示通り柵へ向かった。
はやく行かないと。
ヨハンの家の前は、人でごった返していた。
戦えない年寄り、女、子供。
みんな寝間着のまま、家の中へ流れ込んでいく。
ニールの子供が、俺の腕の中のセラを見つけて駆け寄ってきた。
「ニールはどこだ?」
「上だよ。おとうさん! レイヴァンさんが!」
俺はセラを、その子の隣に降ろした。
「二人とも、家の二階にいろ。動くなよ」
セラが俺の服を掴んだ。
いつもの、あの掴み方で。
「大丈夫。すぐ帰ってくる」
俺はその手を、そっと外した。
「やくそく」
「……ああ、約束だ」
ニールが二階から降りてきた。
「レイヴァンさん! おれ、森でなんか、光ってるのが見えて! それが魔物の目って気づいて――」
「落ち着けニール。柵へ向かうぞ!」
「は、はい」
「ヨハンさん、ここを頼みます! もし俺達の撤退が間に合わなかったら、バリケードで扉を塞いでください!」
「わ、わかった」
「行くぞニール!」
森側の柵に着いた頃には、空がわずかに白み始めていた。
柵の傍の松明が、それを照らした。
魔物の群れが、柵に取りついていた。
黒い毛の塊が、いくつも、いくつも。
数えられない。
数える意味もない。
すでに、手が回らなくなっている。
当然だ。
ここの人たちは、訓練を受けていない。
頭ではわかっていても、動けない。
「みんな落ち着け! 一匹ずつでいい! 槍で確実に仕留めるんだ!」
俺は怒鳴った。
幸い、この戦線は俺の声の届く範囲だ。
これなら、全体に指示を出せる。
村の男たちが、震える手で槍を構えた。
柵の隙間から突き出す。
一匹が、杭に自分から刺さった。
もう一匹がその上に乗り上げて、また刺さる。
効いている。
狭い道に集まったやつを、村人の槍が突いていく。
なんとか機能している。
素人だけでも、どうにか戦えている。
だが。
そんなに甘くはなかった。
杭に刺さった死体の山を、後続が踏み越えてくる。
仲間の死体が道になる。
目の前の防衛線は、じきに死体で埋まった。
柵に、いくつもの角が取りついた。
板が軋む。
そして、柵の途切れた先――村の横から、回り込んだ一群がいた。
柵は、森側にしかない。
わかっていた。
全部は囲えなかった。
恐れていたことが、起きようとしていた。
「全員、撤退だ! ヨハンの家まで後退しろ!」
俺は、すぐに叫んだ。
「なんでだよ! このままここで――」
男が、村の横を見た。
魔物が走ってくるのが見えたのだろう。
俺は、指示を出し続けた。
「撤退だ! 急げ!」
男たちが、一斉に走り出した。
俺は殿についた。
追いすがる魔物を、剣で払い続けた。
一匹、二匹。
斬っても斬っても、後ろから次が来る。
あの壁の上と、同じだった。
倒した端から、湧いてくる。
ニールが、俺の少し前を走っていた。
そのとき、回り込んだ数匹が、逃げる年寄りの一団に襲いかかった。
一番後ろにいたのは、足の遅い、老人だった。
ニールが、足を止めた。
やめろ。
俺はそう言おうとした。
間に合わなかった。
ニールは槍を握り直して、その群れに突っ込んでいった。
一匹の脇腹を貫いた。
もう一匹の喉を突いた。
三匹目を蹴り飛ばした。
やれている。
あいつは、戦えていた。
老人がその隙に、這うように逃げた。
「ニール退け! もういい!」
俺は走った。
あいつのほうへ。
だが遠かった。
間には、魔物が何匹もいた。
あの日の光景が、頭をよぎった。
テオと俺の間にも、燃える櫓と、死体と火の粉がいくつもあった。
間に合わない。
四匹目が、ニールの背後から飛びかかった。
脚に食らいついた。
ニールが、叫び声をあげて倒れた。
倒れたところに、五匹目、六匹目。
ニールはそれでも、顔を上げた。
俺のほうではなかった。
村の真ん中のほう。
ヨハンの家のあるほうを見た。
あの子がいるほうを。
それきりニールの姿は、魔物の下に見えなくなった。
叫び声だけが響いた。
俺は、足を止めていた。
あそこへ行けば。
斬り込めば。
まだ、間に合うかもしれない。
いや。
間に合わない。
そんなことは、分かっていた。
行けば俺も死ぬ。
俺が死ねば、この村の連中はどうなる。
セラは。
あの子は。
俺は、ニールを見捨てた。
ゲルントを見捨てた時と同じように。
ダルクを見捨てた時と同じように。
テオを、エイダンを、二十四人を見捨てた時と同じように。
あの頃と、なにも変わっていなかった。
背を向けて走った。
振り返らなかった。
振り返る資格は、俺にはなかった。
ヨハンの家に転がり込んだ。
俺はすぐに扉を閉めた。
「おい! 材木を持ってきてくれ! ここを塞ぐ」
「お前で最後か? ニールは?」
老人の一人が聞いてきた。
俺は固まった。
「ニールは……」
「うそだろ。じゃあ、あの声は……」
扉の近くにいた人たちには、俺の態度で伝わったようだ。
すぐに、あらかじめ用意した材木で内側から塞いだ。
その瞬間、外でなにかが扉にぶつかった。
一度。二度。
板がたわむ。
だが、まだ、保っている。
「体力のある人はここで扉を抑えろ! 残りは二階から矢を真下に打ち込め!」
「お、おう」
柵から撤退してきた連中が、一斉に動き出した。
俺は一階に残った。
家の中は、人であふれかえっていた。
みんな、声もなく震えていた。
四年前を思い出していたのだろう。
俺は肩で息をしながら、扉の近くの柱にへたり込んだ。
その間も、扉は軋んでいた。
矢が刺さっているのか、魔物の叫び声が聞こえる。
手が、血で真っ赤だった。
「レイヴァンさん」
小さな声がした。
ニールの子供、アンナが、人の隙間から俺を見ていた。
その隣に、セラもいた。
俺は息が止まった。
「おとうさんは?」
答えられなかった。
まだ、嘘をつくことはできた。
すぐ来る。
今は見張りをしている、と。
だがその嘘は、すぐに剥がれる。
俺はこの子に、なんと言えばいいのか、分からなかった。
外では、魔物の悲鳴が聞こえていた。




