第七十二話「噛み合わない日常」
朝は、いつも通り始まった。
店の扉を開けたときの空気も、変わらない。
変わらないはずだった。
レイは棚に並ぶ品を眺めながら、わずかに手を止める。
「……これ、ちょっとずれてる」
ほんの数センチ。
本来の位置から外れているだけの違い。
誰かが動かした痕跡はない。
それでも確かに、昨日見た配置とは違っていた。
レイは一度だけ目を細める。
「まぁ、いいか」
元の位置へ戻し、それ以上は追わない。
午前中、ギルド経由の依頼が届く。
物資の確認と配送の調整。
いつも通りの内容だった。
いつも通りのはずだった。
書類を見ている途中、レイはふと視線を止める。
「……航の名前、こんなところにあったっけ」
違和感は小さい。
消えかけた線のように曖昧で、掴めない。
だが確かに、何かが“薄くなっている”。
最初から存在しなかったような、そんな抜け落ち方だった。
レイは軽く息を吐いた。
「忙しいと、こういうの増えるのよね」
そのまま処理を続ける。
昼前、客が一人来る。
依頼の相談。
内容は単純なはずだった。
会話も問題なく成立している。
だが途中で、客が首をかしげた。
「さっき、そういう話だったっけ?」
レイは一瞬だけ視線を上げる。
「そう言ったと思うけど?」
客は少し考えて、やがて肩をすくめる。
「まあいいか」
そのまま会話は続き、違和感は訂正されないまま終わった。
扉が閉まったあと、レイはしばらく黙っていた。
何かがおかしい。
だが、それをおかしいと呼ぶ材料が足りない。
「気のせい、か」
そう呟いて、帳簿へ視線を戻す。
数字は正しい。
仕事も正しい。
日常は崩れていない。
夕方になる。
空は変わらず曇りでも晴れでもない。
ただ、少しだけ輪郭がぼやけているように見えた。
距離感が曖昧になる。
音がわずかに遅れる。
けれど誰も気にしていない。
気にしていないから、それは異常ではない。
レイはカウンターに肘をつき、窓の外を眺める。
「……遅いな」
誰に向けた言葉でもない。
航のことを思い出す。
だが、その記憶は少しだけ不確かだった。
確かにいたはずなのに、その輪郭だけが薄い。
レイは軽く首を振る。
「考えすぎ」
そう言って、再び帳簿に目を落とす。
世界は続いている。
日常も続いている。
何も壊れてはいない。
ただひとつ。
この一日を通してずっと残っていた違和感は、
誰にも認識されないまま、そこにあった。
まるで最初から、そういう世界だったかのように。




