第七十話「歪みの内側」
ダンジョンの中は、静かだった。
だがそれは、いつもの静けさとは違う。
音が消えているわけではない。
音が届く前に、わずかに“ずれている”。
航は足を止めた。
「……ここ、変だな」
セイリスも同時に周囲を見渡す。
その視線は落ち着いているが、奥は鋭い。
「空間の整合が弱くなっているわね」
静かな声だった。
目の前の通路は、確かにまっすぐ続いているはずだった。
だが一歩進むたびに、わずかに位置感覚がずれる。
左に進んだはずなのに、わずかに右へ寄る。
前に進んだはずなのに、距離の感覚が噛み合わない。
「歩いてる感覚と、結果が合ってない」
航は低く呟く。
セイリスは小さく頷く。
「空間座標が固定されていない状態ね」
それは異常というより、“未定義領域”に近かった。
ヴェリオスの観測層。
その記録が、一瞬だけ揺れる。
「……ここかもしれないな」
揺れの発生源そのものではない。
だが、最も濃く反応が出ている地点。
(層そのものの可能性が高い)
そう判断するには、十分すぎる断片だった。
ダンジョン内部。
航はゆっくりと息を吐く。
「これ、戦闘って感じじゃないな」
セイリスは目を細める。
「ええ。敵というより……環境そのものの問題ね」
一歩踏み出す。
その瞬間だった。
視界が一瞬だけ“遅れた”。
世界がずれたのではない。
認識が一拍、外れただけ。
「……今の」
航がすぐに反応する。
セイリスはその場で止まったまま答える。
「見えたわね」
それは攻撃ではない。
崩壊でもない。
ただ、“同期が一瞬外れただけの現象”。
ヴェリオスは静かに記録を閉じる。
「やはり……層そのものに近い現象だな」
異常は点ではない。
線でもない。
“空間の整合そのものが揺れている”。
ダンジョン内。
航は脇差に手を置く。
だが抜かない。
必要がない。
「敵がいた方がまだ楽だな、これ」
セイリスはわずかに息を吐く。
その表情は、ほんの少しだけ柔らかい。
「同感ね」
その瞬間だけ、緊張ではなく“共有”が生まれていた。
だが空間は、まだ静かに揺れ続けている。




