第四十六話「遅れている刃」
境界は静かだった。
風が吹いている。
草が揺れている。
空は高く、雲は薄い。
いつもと変わらない景色。
少なくとも、そう見えるはずだった。
ヴァルクは一人で立っていた。
手には剣。
依頼ではない。訓練でもない。
ただ、ここに来た。
それだけだった。
理由はない。
だが昔からそうだった。
ここにいると、少しだけ呼吸が整う。
剣を抜く。
短い音。
空気が一度だけ、薄く鳴る。
振る。
一閃。
空を切る。
草が揺れる。
問題はない。
いつも通りの動き。
だが。
ヴァルクは眉をひそめた。
(……遅れている)
結果が、遅れている。
剣を振った“あと”に、草が倒れる。
風ではない。
力でもない。
“現実の反応が遅れている”。
もう一度振る。
横薙ぎ。
空気を裂く。
今度ははっきりと分かる。
刃は通っている。
だが世界がそれを受け取るのが遅れている。
ヴァルクは動きを止める。
空を見上げる。
静かだ。
異常はない。
だがその静けさが、妙に“揃いすぎている”。
(どこかで似た感覚がある)
既視感だけが、わずかに残る。
剣を構える。
今度は何も斬らない。
ただ振る。
一閃。
――遅れている。
今度は“はっきりと”。
刃の軌道のあとに、空間が追いついてくる。
ヴァルクは目を細める。
(空間が遅れている)
そんなものは戦場には存在しない。
だが否定できない。
風ではない。魔力でもない。敵でもない。
ただ、“世界の反応”そのもの。
そのとき。
足元の草が揺れた。
遅れて。
ヴァルクは視線を落とす。
風はすでに通り過ぎている。
揺れる理由はない。
だが今、揺れた。
ヴァルクは剣を下ろす。
(これは斬れないものではない)
そう直感する。
むしろ逆だ。
“斬るという行為が遅れている”。
剣は届いている。
だが世界がまだ受け取っていない。
ヴァルクは息を吐く。
空を見上げる。
境界の森。
風。
光。
すべては正常に見える。
だがその正常さだけが、少しずつずれている。
ほんのわずかに。
確実に。
「……始まっているな」
言葉は風に溶ける。
返事はない。
当然だ。
だがヴァルクはそれでいいと思った。
戦えるならまだいい。
問題は敵ではない。
剣の届く・届かないでもない。
――剣が“世界に認識される速度”そのものだ。
ヴァルクは剣を納める。
境界は静かなまま。
だがその静けさそのものが、少し遅れていた。




