第三十八話「祈りの不在」
セイリスは、いつもの席に座っていた。
レイの店は静かだった。
人の声も、皿の音も、いつも通りに流れている。
そのはずだった。
手元には温かい茶がある。
けれど、口をつける理由が見つからない。
(私は、何をしているんだろう)
そんな考えが、ふと浮かぶ。
セイリスは小さく首を振る。
違う。
考えることではない。
祈るだけでいいはずだった。
胸元に手を当てる。
癖のような動作。
いつもなら、そこで言葉が自然に出てくる。
だが。
今日は、出てこない。
「……?」
セイリスは瞬きをする。
祈りの“形”は知っている。
言葉も覚えている。
それなのに。
つながらない。
まるで途中だけが抜け落ちているような感覚。
セイリスは小さく息を吸う。
(私は、誰に祈っているの?)
その問いが浮かんだ瞬間。
胸の奥がわずかに揺れた。
違う。
そんなことを考えるものではない。
祈りは理由ではない。
意味でもない。
ただ、そう“ある”ものだったはずだ。
セイリスはもう一度、胸元に手を当てる。
唇が動く。
だが。
音にならない。
「……あれ?」
声は出たはずなのに、届いていない。
自分の中でだけ、途中で消えている。
セイリスは手を止める。
周囲を見る。
店は変わらない。
誰も気づいていない。
ただ、自分だけが取り残されているような感覚。
そのときだった。
カウンターの奥から声がする。
「また難しく考えてるの?」
レイの声。
セイリスは顔を上げる。
レイは帳簿を見たまま、こちらを見ていない。
「祈りなんて、考えてやるものじゃないでしょ」
「……でも」
言葉が続かない。
“でも”の先がない。
レイは小さく息を吐くように言う。
「出てこないなら、それでいいんじゃない?」
その言葉は軽い。
いつもなら、少し救われるはずの言葉。
なのに今日は。
どこにも届かない。
セイリスは胸元に触れたまま、動かない。
(出てこない)
その事実だけが、静かにそこにある。
祈れないわけではない。
忘れたわけでもない。
それなのに。
“祈りという行為そのもの”が、途中で途切れている。
そのとき。
扉が開いた。
風が入る。
カラン、と鈴が鳴る。
その音が――一瞬だけ、遅れて聞こえた気がした。
セイリスは顔を上げる。
誰かが入ってくる。
だが、その瞬間。
“言葉として成立する直前の何か”が、静かにほどける。
セイリスは息を吐く。
胸元から手を離す。
(祈れないんじゃない)
(祈りが……途中にない)
そう理解した瞬間。
店の光が、ほんのわずかに揺れた。
セイリスはそれを見て、小さく呟く。
「……私は、何を信じていたんだろう」
その問いに、答えは返らない。
ただ、風だけが静かに流れていた。




