第三十七話「日常の継ぎ目」
レイの店は、いつも通りだった。
木の床は軽く軋み、窓から光が差し込む。
客は少ないが、途切れることもない。
静かで、忙しすぎず、退屈でもない。
「……いつも通りね」
レイは帳簿をめくりながら呟く。
誰に向けたわけでもない。
ただの確認だった。
カウンターの向こうでは、客が食事をしている。
皿の音、椅子の軋み、会話の断片。
すべて正常。
問題はない。
レイはペンを走らせる。
売上。仕入れ。在庫。
数字は正しい。
いつも通りに、正しく進んでいる。
「……うん」
小さく頷く。
その瞬間だった。
一行だけ、合わない。
「残高:+1」
レイは手を止める。
視線を落とす。
もう一度、最初から計算する。
合っている。
何度やっても合っている。
なのに、そこだけが浮いている。
「……何これ」
声は小さい。
苛立ちではない。
違和感だった。
帳簿の問題ではない。
“結果だけが一つ余っている”。
レイはページをめくる。
前日。
前々日。
そのさらに前。
どこにも異常はない。
それなのに。
今だけが、ひとつ多い。
そのとき。
カウンターのコップが、わずかに音を立てた。
コト。
レイは顔を上げる。
誰も触れていない。
風もない。
ただ、位置が数ミリずれている。
「……また?」
レイはコップを見つめる。
昨日も似たことがあった。
いや、“似ている気がする”。
確信は持てない。
だが無視もできない。
レイはコップを元の位置に戻す。
その瞬間。
“どちらが正しい位置か分からなくなる”。
「……は?」
珍しく、声が漏れる。
店の音は変わらない。
客は普通に食事をしている。
誰も気づいていない。
それでも――
帳簿の数字が、もう一度だけ揺れる。
レイはペンを握る。
強く。
「……落ち着きなさい」
自分に言い聞かせる。
計算ミスなら直せばいい。
ズレなら修正すればいい。
そういう問題のはずだ。
だが。
修正した瞬間、元に戻る。
直したはずの数字が、別の形で“正しくなる”。
「……何なのよこれ」
苛立ちではない。
理解できないものへの違和感。
そのとき。
扉が開く。
風が入る。
その一瞬だけ、音が遅れて届く。
カラン、と鈴が鳴る。
わずかに遅れて。
レイは顔を上げないまま言う。
「今日は変な日ね」
誰に向けた言葉でもない。
だがその言葉に応えるように。
コップが、もう一度だけ小さく動いた。
今度は、ほんの少しだけ“正しい位置へ戻ろうとするように”。
レイはそれを見て、静かに息を吐く。
「……仕事、増やさないでほしいんだけど」
その声は、いつも通りだった。
ただひとつ違うのは。
その“いつも通り”が、少しだけ信用できなくなっていたことだった。




