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名も無き戦場  作者: 六花
揺らぎ
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第二十九話「祈りの揺らぎ」

レイの店は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。


木の床はわずかに軋み、窓から柔らかな光が差し込む。

誰かが話し、誰かが食事をし、誰かが帰っていく。


その繰り返しの中に、特別な意味はない。


――はずだった。


セイリスは窓際に座っていた。


手元の茶にはまだ一口も口をつけていない。


湯気を見つめるだけで、時間が少しずつ流れていく。


(昨夜の歌……)


頭の奥に残っている。


言葉は確かに覚えているのに、意味だけが欠けている。


思い出せるのに、届かない。


そんな感覚。


祈りに似ている、とセイリスは思った。


祈りは言葉ではない。

形でもない。


それでも確かに“届くもの”だったはずだ。


だが今は違う。


(私は、何に祈っていたんだろう)


その問いが、消えない。


昔なら、考えなかった。


祈る理由など必要なかった。


祈りは祈りで、それ以上でも以下でもなかった。


けれど今は、その“意味”を探してしまう。


探してしまった時点で、もう同じではない。


指先が無意識に胸元へ向かう。


祈りの癖。


それは昔から変わらない。


だが途中で止まる。


言葉が出てこない。


祈れないわけではない。

信じていないわけでもない。


それなのに、形が結べない。


「……どうして」


小さく漏れた声は、自分でも意図していないものだった。


その瞬間。


カウンターの奥からレイの声が飛ぶ。


「考えすぎよ」


セイリスは顔を上げる。


レイは帳簿から目を離さないまま続けた。


「答えなんて、最初からないことの方が多いわ」


「……ない、のですか?」


「あると思ってる方が楽なだけ」


その言葉は、優しくもなく、突き放すものでもない。


ただ事実のように置かれただけだった。


セイリスは少しだけ視線を落とす。


(答えが、ない)


その考えは、少し怖い。


だが同時に、どこかで納得してしまう自分もいた。


そのとき。


扉が開く音がする。


風が店に入り込み、空気を一瞬だけ揺らした。


誰かが入ってくる。


だがセイリスは、その人物を見た瞬間――


わずかに違和感を覚える。


(……今の)


何かが遅れた。


足音ではない。

気配でもない。


“認識そのもの”が、ほんの少しだけズレたような感覚。


セイリスはまばたきをする。


次の瞬間には、もう普通だった。


いつも通りの店。

いつも通りの人。


誰も変わっていない。


なのに。


胸の奥だけが、静かにざわついている。


祈りをしようとした指先が、また止まる。


(これは……祈っていいものなの?)


その問いに、答えは返ってこない。


窓の外で風が吹いた。


その風は、どこか“少しだけ遅れて”店の中に届いた気がした。


セイリスは目を閉じる。


祈りは、まだ結べないまま。


ただひとつだけ確かなことがあった。


――何かが、ずれている。


そしてその“意味”だけが、まだ誰にも与えられていなかった。

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