第二十八話「日常の誤差」
レイの店は、いつも通りだった。
木の床は軽く軋み、窓から光が差し込む。
客は少ないが、途切れることもない。
静かで、忙しすぎず、退屈でもない。
「いつも通りね」
レイは帳簿をめくりながら呟く。
「そう見えるか?」
カウンターに座っていた客が言う。
レイは顔も上げずに答える。
「見えるわよ」
それだけだった。
誰もそれ以上は話さない。
それで十分だった。
店の空気は、いつも通り流れていく。
皿が置かれ、食事が運ばれ、誰かが出ていく。
変わらない一日。
レイはそう思っていた。
――最初は。
帳簿の数字を書き直す。
「……あれ?」
指が止まる。
合わない。
いや、合っているはずなのに、わずかに違う。
売上も仕入れも計算上は正しい。
なのに残高だけが、ずれている。
「気のせいね」
すぐにそう片付ける。
よくあることだ。
計算ミスは珍しくない。
レイはもう一度確認する。
合っている。
問題ない。
「そうよね」
そう言って帳簿を閉じる。
その瞬間だった。
奥の棚に並べていた皿が、一枚だけ“増えている”気がした。
視線を向ける。
数は合っている。
最初からそうだったと言われれば、それで終わる。
でも違う。
“今さっきまで無かった気がする”。
レイは小さく息を吐く。
「疲れてるわね」
そう言って片付けようとする。
だが次の瞬間。
カウンターのコップが、わずかに位置を変えていた。
誰も触れていない。
風も入っていない。
それなのに、ほんの数センチだけ動いている。
レイはそれを見つめる。
「……は?」
短い声。
珍しく、感情が漏れた。
店の音は変わらない。
誰も気づいていない。
客は普通に食事をしている。
何も起きていないように見える。
でも、違う。
レイはコップに手を伸ばす。
触れる。
確かにそこにある。
だが。
(さっきの位置じゃない)
ほんの小さな違和感。
説明できないほど小さいのに、無視できない違和感。
レイは帳簿をもう一度開く。
数字は合っている。
店も回っている。
問題はない。
なのに。
「気持ち悪いわね」
ぽつりと呟く。
その瞬間、店の扉が開く。
風が入る。
それと同時に、音が一瞬だけ“遅れて”届いた気がした。
足音が、あとから追いかけてくる。
レイはそちらを見る。
誰かが入ってきた。
だが、その人物が誰か認識する前に――
ほんの一瞬だけ、視界が揺れる。
「……今の、何?」
誰にも届かない声。
店は変わらない。
何も壊れていない。
ただ、
確実に何かだけが、少しずつズレ始めていた。
レイは帳簿を閉じる。
「……今日は長くなりそうね」
誰に向けたでもない言葉。
窓の外で風が吹いた。




