ep.40 "知恵の欠片"
僕らはエイワの町の宿へ転がり込んだ
狭い部屋に濡れた布の服を脱ぎ捨て冷えた体を拭く
部屋は暖かく、湿った匂いは少しずつ薄れていった
ようやく床に腰を下ろした瞬間
張り詰めていた肩の力が解ける。
町に入ってすぐ研究所の人間と遭遇した
あの一瞬でも分かった
ここは旅人のための町じゃない
生活の隅々にまで、研究所の影が染みている。
滞在時間が長いほど危険が増える
ほんの少し休んでさっさと次へ
そう決めていた。
「雨…ちょっと弱くなってきたなァ」
窓際で外を見ていたアスノが呟く
雨はまだ窓を叩いていたが
さっきの土砂降りほどの勢いはない
カーテンの隙間から見える通りは
人影がまばらで少なかった。
そのとき、腹がきゅっと縮む
我慢していた空腹がここぞとばかりに主張しはじめた
体が温まり
緊張が少しだけほどけたせいかもしれない。
…ぐぅ
僕の腹が鳴った
思わず息を止めた瞬間、別の腹が鳴る
呼応するように、またひとつ
今度はより大きく間抜けな音。
まるで合図みたいに
全員の腹が順番に抗議の声を上げた。
沈黙の中でそれだけが妙に響く
僕は咄嗟に口元を押さえた
意味はないのに音が漏れた気がして恥ずかしい。
…でも、恥ずかしさより先に可笑しさが来た。
こんな状況でも
生きるための欲だけは等しくついてくる
追われていようが、指名手配だろうが
腹は勝手に減る…その当たり前が
逆に心を落ち着かせた。
ロジェロも少し顔を赤くし息を吐く。
「…もう少ししたら、ご飯だけ食べに行こうか」
僕がそう言うと反対する者はいなかった
むしろ全員がそれを待っていたみたいに頷く。
この町は研究所の従業員が多い
目も耳も早い
旅人を装うにしても
腹が鳴って顔が引きつった状態では
それこそ不自然だ。
腹が減っては戦ができぬ
…村で読んだ本にもそう書いてあった
別に今から戦うわけじゃない
けれど飢えたままじゃ判断が鈍る
そういう隙が一番危ない。
無事にこの町を去るために、まず腹を満たす。
窓の外ではまだ雨が降っていた
けれど確かに弱まっている
しばらくして、雨音がすっと静かになった
雨が止んだ。
アスノはやけに真剣な顔で
宿の飾り棚に置いてあった乾いた木片を噛んでいた
お腹が空きすぎて限界を迎えていた
そして壊れたみたいに言い始めた。
「飯…飯行こう、飯だ飯、飯飯飯」
こいつはもう駄目だ
急いで僕らは外へ出る支度をした。
外に出ると、日差しが強い
さっきまでの雨が嘘みたいに空は澄んでいて眩しい
けれど地面は正直だった
泥が靴裏にまとわりつき
水たまりがそこらに残っている
雨が通った記憶だけが町の足元に張り付いていた。
濡れてしまった布類は
宿の人が火の魔法で乾かしてくれている
借りた服を着込み、布で口元を覆う
これでまた旅人に戻れる。
まだ飯どきじゃない、店も空いているだろう
その方がいい
この町では町人と顔見知りになるほど危険が増える
時間をずらして、さっと済ませる
それが最善だ。
そう思って歩いていると
匂いが僕らを引っ張った。
温かくて、腹の奥が反応する匂い
煮込んだ何かの甘い香り
どこか素朴で、他の町の飯屋の匂いとは違う
嗅いだことがないのに
懐かしいみたいに胸の奥へ染みてくる。
道端にぽつんと建つ木造の建物
看板は傾き、色は抜け、窓枠も歪んでいる
店というより長年放置された小屋に見えなくもない。
なのにその香りだけは生きていた。
腹の声は限界だった
理屈より先に足が向く
軋むドアを押し開けると
木が擦れる音が店内に響いた。
空席ばかりで、店内はがらんとしている
中にいたのは二人だけだった
年老いた店主の男がカウンター奥で手を止める。
そして客席の一角で
ひとりの女性が黙々と飯を食っていた
皿がいくつも積み上がっている
一人の食事量じゃない…山みたいに並んでいた。
僕らが入った瞬間
二人の視線が揃ってこちらに向いた。
(…しまった。飯どきの方が逆に紛れたかもしれない)
よそ者は目立つ
不思議そうに見られるだけで背中が冷える。
「…いらっしゃい」
店主がようやく口を開いた
僕らは促されるままカウンターへ並び腰を下ろす
椅子が軋み、それだけの音が妙に大きく響いた。
落ち着け…
普通の旅人だ、普通の旅人のふりをする。
そのときだった。
先に食事をしていた女性が箸を止める
口の中にまだ食べ物が残っているのが分かる
それでも平然と立ち上がりこちらへ歩いてくる。
そして何のためらいもなく
僕の隣の席にどかっと腰を下ろした。
一瞬で空気が固まる。
女性は凛としていた
短い髪、鋭い顔立ち、高身長で目が強い
鎧でも着ていれば騎士と言われても納得する迫力…
なのに。
口いっぱいに食べ物を詰め込んでもぐもぐ噛む
上品さの欠片もなかった。
「アンタたち…見ねぇ顔だな」
絡まれないようにしてるのに
こういう時ほど絡まれる
その噛み合わなさに、頭が痛む。
「りょ、旅行です
たまたまこの町に寄っただけで…」
僕はまた必死に笑顔を作る
楽しむために旅してる人間を演じる
声が震えないように、ゆっくり息を吐いた。
女は僕の顔をじっと見つめる
視線が皮膚の下を撫でてくるみたいで恐ろしい
そして何事もなかったみたいに
またもぐもぐ食べ始めた。
「一人で食ってんの、飽きたんだよ
話に付き合ってくれ」
言い方は乱暴だ
そして思い出したみたいに身を乗り出す。
「この店…希少な鳥の肉出してんの、知ってるか?」
鳥…空を飛ぶ生き物
この世界じゃ数が少なくて
狩りは基本禁じられている
そんな話だけは僕も聞いたことがある。
「…聞いたことあります」
「だろ?これが焼くとマジでうまいんだよ」
女は僕に近づく
距離が近い
僕の反応を面白がるみたいに
目だけが妙にきらきらしている。
「ここは国の施設の近くだろ
だから王都と、ここだけ…
許可があるとこでしか出せねぇ珍味だ
食ってみろよ、損はさせねぇ」
ぐいぐい来る
断る理由はいくらでもあるはずなのに
押しつけじゃなく、うまいものを食わせたいって
善意が混じっていて断りづらい。
鳥の心臓、肝臓、そして尻尾の付け根
勧められたものを半ば無理やり口に押し込まれる
噛んだ瞬間、思わず目を見開いた。
美味い
舌の上に広がる脂と濃い旨味
少しの苦みさえ香りみたいに心地いい
衝撃というより感動に近い
こんな世界に、こんな味があるのかと。
つい無警戒で食べてしまったが…
仮に毒だったとしても僕なら大丈夫だ
死ねない身体はこういう時だけは便利だ
腹を裂く痛みだって、焼けるような苦しみだって
時間が経てば何事もなく生きれる。
「私はヴィアラ、ここの町の人間だ」
名乗った後
アスノが軽い声で割り込んだ。
「なァ、この町に旅人は珍しいのか?」
ヴィアラは箸を止め答える。
「珍しいな
ここは近くの研究所の従業員の町みたいなもんだ
外からふらっと来る奴は多くねぇ」
「…とはいえ
国の施設が近いから安全そうって思う奴もいる
たまに客は来る。完全な僻地ってわけでもない」
そう言いながら彼女は皿を引き寄せる
箸を休めない
距離感が近い
その近さが優しさにも圧にも見えて少し近寄り難い。
「で、旅の話、聞かせてくれよ」
矢継ぎ早に外の話を振ってくる
ちょうどそのタイミングで料理が運ばれてきた
僕は口に飯を運びながら、旅で見た景色を話す
事実は混ぜる…ただし少しだけ嘘も混ぜる。
辿ってきた道筋を丁寧に話せば
逆に正体へ近道を与えるかもしれない
念には念を…僕は"楽しい旅"の話を演じた。
「色んな町を見てきたけど…
遺物館は見たこと無かったな
ここにあるなら、それも楽しみかも」
その言葉にヴィアラの箸が止まった
武勇伝でも、噂話でもない
彼女が反応したのはそこだった。
「…遺物…あんたも好きなんだ?」
一瞬、胸の奥が熱くなる
ヴィアラは急に饒舌になった。
「私も好きだよ…ガラスの欠片ひとつでもいい
黒ずんだ鞄でも変な金具でも…」
「誰が、何のために、どんなふうに使ってたか
勝手に頭の中が走り出す」
彼女は皿の端に残った肉を拾いながら続ける。
「この町の遺物館さ
最近ちょっと面白いのが出たらしい
防水だか撥水だか…水を弾く布とか
今の布と違って、触ると変な感触なんだと」
ヴィアラは
店の湯気の向こうを見ながら言う。
「誰かが言ってたんだよな
世界が始まって、何もないとこから…
たった四百年くらいで
ここまで発展するのは不可能だって」
四百年
長いのか短いのか分からない
けれど、それだけで道ができて、町ができて
法が整って、兵がいて、研究所まである。
「全部、遺物のおかげだってさ
神が人間に与えた地上に散らばった"知恵の欠片"」
「魔法がそれを形にする…だから発展が加速した」
声に軽さがない
遺物は道具じゃなく、信仰に近い崇める対象
僕が思っている以上に
彼女の中では神格化されている。
価値観が近いのにどこか違う
その違いが面白い
久しぶりに僕の目の奥が明るくなるのを自覚した
…楽しんでる場合じゃないのに。
そう思った瞬間だった。
隣で静かに食べていたロジェロが箸を置き
音も立てずに立ち上がる。
「…ごちそうさま」
ヴィアラが驚いた顔で見上げる
「…もう行くのか?」
会話がようやく咲いたところで切られる
ロジェロは表情を崩さないまま、短く言った
「食べすぎて眠い。行くぞ」
それだけで、僕らは従うしかなかった
ロジェロの声はどこか硬い。
代金を支払い、僕らは軋む扉を押し開ける
ヴィアラに軽く手を上げると
向こうも返してきた
その目は少しだけ寂しそうに見えた。
店を出て少し歩いたところで
ロジェロが口を開いた。
「シル…貴様は少し喋りすぎだ」
胸がきゅっと縮む。
「ご、ごめん」
「嘘を混ぜたのはいい…だが、熱が入りすぎた」
前を向いたまま刺す
痛いほど正しい
遺物の話になった瞬間
僕は危機感の糸を一本切ってしまった。
少しの沈黙のあと、ロジェロが続ける
「私はアスノと武器屋を少し見に行く
シルは…遺物館に行くか?」
「え…いいの?」
「馬鹿にしているわけではないが…」
言い方だけ丁寧に整えつつ、容赦なく刺す。
「武器屋へ行っても貴様はやることがないだろう
遺物館なら…人目はあっても、殺気は少ない
まだ安全だ」
反論できない
僕は頷き、条件を付けた
何かあったらすぐ逃げる
合流場所も決める
短い合図を交わし、僕らは二手に分かれた。
久しぶりの遺物鑑賞に心がわずかに踊っていた。




