堕天使たち
フェルキールは山中の崖の上から、羽織ったクロークを風になびかせて、眼下に建つオルナト監獄を見下ろしている。
隙間から覗く金属の鎧には、戦いで刻まれた傷がいくつも残っていて、家族たちはその背中に、これまでにないほどの頼もしさを感じていた。
「血生臭さに、鉄錆び、カビ、下水……鼻が曲がりそう……こんな場所に放り込まれるようなこと……するもんじゃないね……」
「いまから、するんだぞ」
リオフィルは鼻をひくつかせ、耳を囲うように両手を添えながら、監獄から漂ってくる臭いと音を探り、苦悶の表情を浮かべていた。
彼女は人並み外れて五感が冴えている。嗅覚と聴覚を研ぎ澄ませれば、漂ってくる匂い、足音や呼吸、その反響から空間を探ることができ、今も内部から届く無数の情報を一つずつ脳内で組み上げ、オルナト監獄の構造を少しずつ明らかにしている。
「じゃあ、昨日決めた通り、私たちは外で待機しているわ」
魔法が広く浸透したこの世界では、脱獄はもちろん、その幇助すら容易になり得るため、囚人の手錠から監獄そのものに至るまで、魔法の発動を妨げる処理が施されるなど、徹底されているのは当然のことだった。
キルリラは戦力にはなれないので、外に残って帰還先を保つ役目を担うというフェルキールの指示を素直に受け入れていた。
「……シル助は任せとけ。そっちはしくじんなよォ、フェルちゃん」
もう一人、待機を命じられたのは、ティナートだった。
キルリラとは対照的に、彼は当初この決定を快く受け入れなかった。ディーミンへ到着した際、何も知らされずフェルキールに置いていかれたことを嘆いていたので、今度こそ力になれると思っていただけに、出鼻をくじかれたからだ。
だが、「シルのことを頼む」と言われてしまえばティナートも強くは拒めず、その役目を引き受けた。反逆者らしく派手にやっちまおうなどと言っておきながら、いざ蓋を開けてみれば自分は待機なのだから、少なからず気恥ずかしさもあった。
「見つけた……ヴィンストール兄の匂い……地下四層……」
リオフィルが、砂塵に埋もれた宝物を見つけ出したかのような嬉々とした表情でそう告げると、
「さすがだな。アシェイン家のかくれんぼを壊滅させた実力は、今も健在か」
フェルキールはその頭をぐしゃりと撫でた。
「エノアイド、途中で怖気づくんじゃないよ?」
「そんな生半可な気構えで参加するくらいなら、最初からここにはいないよ」
アルケルフのからかいを受けても、エノアイドは軽いストレッチをやめなかった。
「……そろそろ予定の時刻だな」
フェルキールは年季の入った懐中時計を片手に時刻を確かめると、リオフィルを抱えて崖際へ歩み、アルケルフとエノアイドも後に続いた。
腕の中でリオフィルは目を閉じると、次は監獄ではなく、周囲の気配を探り始めた。
「来る、よ……」
リオフィルのカウントダウンが始まり、零に達した瞬間──
フェルキールは崖下へ身を投じ、アルケルフとエノアイドも迷わず後に続いた。
「──ッ!」
四人を見送るティナートとキルリラが、予定された行動だと承知していても、その光景に冷や汗をかいたのは仕方のないことだ。
ギャィィァ……!
人ならざる叫び声が響いた。
ほどなくして、一体の飛行型禍異が巨大な翼状の器官を激しく羽ばたかせながら、空高く舞い上がった。その身体には、フェルキールたち四人が激しく揺さぶられながら、振り落とされまいと懸命にしがみついていた。
「すっげェ……」
「ディーミンの空に昔から生息してる禍異……奴らには、毎日ほぼ同じ時刻に、縄張りを巡る飛行経路があるの。そのひとつが、オルナト監獄の上空」
正面から仕掛ければ、ヴィンストールのもとへ辿り着く頃には監獄全体が警戒態勢に入り、守りを固められてしまう……そう判断したフェルキールは、禍異を利用して外の警備を越え、一気に内部へ踏み込める空からの突破を選んだのだった。
フェルキールは黒い皮膚の突起に指を喰い込ませ、吹きつける風圧と激しい揺れに耐えながら、かろうじて眼下を見やった。
「リオフィル!三度力を貸してくれ!」
「了、解……!」
迫る監獄を確認するとフェルキールは風に負けじと叫び、ノイズが入り混じる空の上で、リオフィルは意識を集中させる。
先ほど得た空間情報に、現在の監獄との距離、高度、流れる景色の速さ、身体に受ける風……刻々と変化する状況を照合していく。
「エノアイド……!」
リオフィルの合図を受け、エノアイドが禍異へ腕を伸ばし、背へ掌を押し当てた。
すると羽ばたきの勢いは衰え、全身の動きが鈍くなり、揚力を保てなくなった巨体は高度を落とし始めた。
数式による算出ではなく、研ぎ澄まされた五感の果てに生まれるリオフィルの勘が導き出したのは、監獄へ侵入するために禍異を墜とすべき瞬間だった。
「ウウゥッ!」
落下感に、四人の身体が強張った。
バリ、バリィッ──!
禍異の巨体が、オルナト監獄の天井に設けられた採光用の強化硝子へ激突し、破砕音とともにフェルキールたちは監獄内部へとなだれ込んだ。
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ドグァッ!
「──ッ!?」
看守たちの目に映ったのは、墜落して倒れた禍異の巨体と、素性の知れない四人の人間だった。
天井から差し込む光を背負った仮面の女は、抜き放った剣を構えて敵意を露わにしており、眼前の事態は事故ではなく、明確な意図を伴った侵入であることを物語っていた。
「警鐘を……鳴らせ……!」
「は、はいッ」
一人の看守が剣を握る手に力を込め、フェルキールへ飛び掛かろうとして、斬られた。
血飛沫が舞うと、それが火をつけたかのように、看守たちが声を上げた。
「獄長に報告ッ!誰か、中央にも知らせろ!仮面の女一名、全身を覆った三名が侵入ッ!」
「ウオオッ!」
ガッ、キィン!
フェルキールは襲い掛かる剣をいなし、体勢を崩した看守へ斬撃を返す。
「地下への道は!」
「こっち……!」
リオフィルが示した進路へ、フェルキールたちは走り出した。
「行かせはせんぞッ!」
看守が放った回避を許さぬ一撃を、フェルキールは身体の柔軟さを活かして、身を捻って受け流した。
「だと困る!」
ザグッ!
斬ることに一切のためらいを見せない所作に、アルケルフたちは頼もしさを通り越して、恐ろしさすら覚えた。
「いたぞ、侵入者だ!」
「増援……早いな!」
騒ぎを聞きつけた看守たちが、別室や廊下の奥から次々と湧いて出てくる。そして──
ガン、ガン、ガン!
全層に届く警鐘が打ち鳴らされ、フェルキールは舌打ちをした。
フェルキールを阻止しようと振られる剣によって、厳しい規律のもと静けさを保っていた空間には、いまや刃のぶつかる甲高い音と怒号が絶え間なく響いていた。
「怯えてばかりでは、いられないぞ……!」
看守は、そう言って恐怖を断ち切るように剣を振り下ろすと、フェルキールはその一撃を受け止め、押し込む圧に抗って両脚へ力を込めた。
「くッ」
「先輩!今ですッ!」
「オウヨ!」
生まれた隙へ、勝利を確信したもう一人の看守の一撃が迫るが──
ガッシ!
「な……?!」
刃がフェルキールへ届く寸前、背後から伸びた手が看守の腕を掴み、動きを止めた。
「クソッ、侵入者の仲間か!もう少しで討ち取れたものを!」
手の主は、屈強な看守たちすら見劣りするほどの大柄な人物だった。
リオフィルとは違う。アルケルフよりも大きく、ましてやエノアイドの華奢な身体とは似ても似つかないが、フードの隙間からちらりと覗いた青い髪には見覚えがあった。
「僕が巻き込んだんだ……フェルお姉ちゃんを……!絶対に死なせない!」
「エノアイド!」
巨躯の正体は、エノアイドだった。
声は低く男らしいものへと変わり、華奢だった腕には隆々とした筋肉が盛り上がり、以前とは正反対と言っていいほど、身体は逞しく変貌していた。
"装束解除"
エノアイドの魔法は、相手から生命力を奪い、それを自身の肉体へと変換することで、一時的に筋力を増強するものだった。
禍異が彼に触れられてから急速に衰弱していったのも、生命力を吸収されていたためである。
一度肉体へと変換された生命力は、魔法として存在しているものではないため、魔法を封じるこの監獄内に入っても、得た筋力まで失われることはなかった。
「グゥ……!」
カラン、カラン!
看守は腕を締め上げる力に耐えきれず、握っていた剣を落とした。
「おらああああ!」
エノアイドは看守の身体を持ち上げて、フェルキールと交戦していた看守めがけて投げ飛ばした。
「口だけでは、なかったようだね」
アルケルフは感心しながら、数人の看守を難なく制圧していた。
気づけば、周囲から抵抗する者はいなくなり、フェルキールたちはようやく一息ついた。
「殺したの……?」
倒れた看守たちを見渡しながらリオフィルが尋ねると、フェルキールは首を横に振った。
「一時的に戦力を削ぐための浅い傷だ。さらなる増援が来る前に進むぞ」
複数の足音が騒がしく響いてきたので、フェルキールたちは地下へ続く道を急いだ。




