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崩れゆく井の蛙

宿屋の外観は、不安になるほど古びていた。

けれど中は、宿として使える程度には保たれている。

壁際の家具も年季こそ入っていたが、壊れてはいなかった。


フェルはレイヴンの勝手な振る舞いへの苛立ちを呑み込み、ため息を吐いて台所の方へ消えた。

僕は扉のそばに立ったまま、落ち着きどころを探して室内を見渡した。

暖炉の薪がパキパキと弾け、部屋の冷えた空気を暖めていく。

レイヴンはソファへ腰を沈め、火に手をかざしながら言った。


「静かな村だね……争いの匂いがまるでしない。空気が澄んでいる」

「"禍異マヴァロ"への警戒すら薄れる。平和すぎて、どうにも落ち着かないくらいだ」


"禍異マヴァロ"

この世界で人を脅かす魔物たちの呼び名だ。

禍異マヴァロは尽きない。

どれほど倒しても、またどこかで生まれ、人を襲う。

文明が始まった頃に生まれたのか

それとも、それより前からこの世界に潜んでいたのか。

その始まりを知る者はいない。


禍異マヴァロの脅威も、この村にいるとどこか遠く感じられた。

小さな村でも見張りは立っているし、近くにはこの土地を守る組織もある。

だからここには、静かな暮らしが守られていた。


「まあ、座りなよ……君、名前は?」

「シルです……シル・リヴンスティール」

「うん、いい響きだ」


レイヴンは頷き、うっすらと笑みを浮かべた。


「私の名前はレイヴン・プリムローズ。よろしく」

「レイヴンさん、ひとつ聞いてもいいですか?」

「この村へ来たのって、何か理由があるんですか?

さっきレイヴンさんも言っていた通り、ここに来る人は珍しいので……少し気になって」


聞かずにはいられなかった。

小さな棘が、ずっと頭の片隅に残っていた。

そのとき、乱暴に置かれた湯呑みの音が部屋に響いた。


「……大した理由はない、ただの休憩だ」


横からフェルが会話を断ち切るように口を挟んだ。


(こ、怖い……触れちゃいけない話だったのか……!?)


その空気に耐えきれず

意識が逃げる先を探すように、さっきの二人の距離の近さが頭に浮かんだ。


(休憩……)

「僕の村で何をしようとしてるんですか……」

「おい、貴様……くだらん妄想をするな」


レイヴンはその会話を聞いて笑っていた。


「そう、休憩……各地を歩いている途中で、ここに立ち寄っただけさ」

「あちこち見てきたが、ここまで平穏な場所は滅多にない」

「そうなんですね……僕、この村から出たことがなくて、外の世界のことはほとんど知らないんです」


その言葉にフェルが反応した。


「村から出たことがないのか」

「なら驚くだろうな.....外には空を飛ぶ船があり、鉄の塊が地を駆ける」

「ここにいては想像もつかないものばかりだ」

「そんなものが……本当に存在するんですか?」


聞いただけでは実感が湧かなかった。

けれど、知らない世界への興味が確かに灯っていた。

レイヴンは僕を見つめ、口を開いた。


「あるさ、"魔法ルエラ"によって動く、技術の産物だ」

「……ルエラ?」


聞き慣れない単語だった。


「貴様......魔法ルエラを知らないのか?」

「え……そんなに当たり前のものなんですか?」


僕の反応を見て、フェルが眉を寄せる。


「万物を成り立たせる根本の現象へ干渉する力だ」

「火、水、風といった基本属性を起点に、そこから数多の属性が枝分かれしていく」

「田舎とはいえ、魔法ルエラを応用した

魔道具の類まで存在しないわけではないだろう」


朝食の支度で火を起こしたときの器具を思い出した。

あれもその力によるものだったのか

毎日のように目にしていたせいで、僕にとってはただの生活の道具でしかなかった。


「レイヴンさんたちの魔法ルエラ、僕にも見せてください」


レイヴンは首を振った。


「残念だが、それはできない……

魔法ルエラは誰にでも扱える力じゃない。私もフェルも使えないんだ」

「……貴様と話していると、疲れるな」


フェルは頭を抱えた。

レイヴンは気に留めることなく話を続けた。


「本来ならば、人類が誕生してからたった四百年で

ここまでの技術へ辿り着くことは不可能だと言われている」

「その力が、帝国の技術発展を加速させたんだ」


この世界の技術と発展には、魔法ルエラが深く関わっている。

それを知らなかった僕は、思っていた以上に狭い場所で生きてきたのだと痛感した。


「僕の知らない場所に、そんな世界があったんですね……」

「……ああ」


レイヴンはわずかに表情を曇らせた。


「けれど、その華やかな発展が誰にでも恩恵を与えるわけじゃない」

「その裏で、食い潰されていくものがある」

「食い潰される……?」


「弱い人間さ」


僕は息を呑んだ。


「帝国は発展と力を誇示するために、逆らえない者から労働力も金も搾り取る」

「生きるための最低限しか残らないほどに」

「君も無関係ではないはずだ」

「……そう、ですね」


思わず唇を噛みしめた。


「……この国は残酷だよね」

「人は何が正しいのかも分からないまま、従うしかないように飼い慣らされていく」

「それでも国を信じる。報われる日が来ると願ったまま、奪われ続ける」


その声には拭いきれない哀しさが混じっていた。


「自分の望みを叶える余裕も、願いを抱く暇もないまま

死に際の走馬灯ですら働いているような一生を過ごす」


さっきまで、帝国の発展はただ眩しく見えていた。

けれど今、その輝きが僕のような人間の苦しさの上に積み上げられてきたのだと知った。

フェルはレイヴンを見つめた。

そこで話を断ち切るように、冷たく言葉を被せた。


「度を越えた扇動は処罰の対象だぞ、レイヴン」

「……どれだけ言葉を尽くしても変わりはしない、それがこの世界だ」


レイヴンは空気を変えるように話を打ち切った。


「失礼、少し語りすぎてしまったようだ……それで、何の話だったかな」

「この村には何もない───それはもう十分分かっただろう。帰してやれ」


早く帰らせようとするフェルと、ふいに目が合った。


「あっ……そ、そうですよね……!すみません、お楽しみの邪魔をしてしまって」

「おい、貴様……くだらん妄想はやめろと言ったはずだ……」


フェルの瞼がピクリと引きつる。


「時間を取らせてしまってすまなかったね

君のような人間は珍しくて、つい興味を惹かれてしまったよ」

「私たちはしばらくこの村で休むつもりだ、世話になるよ」

「はい……また、外の世界のことを聞かせてください」


そう言って、僕らは別れた。

宿屋の外へ出ると、冷たい空気が頬を刺した。

さっきまで暖炉の熱に包まれていた肌が、一瞬で外の現実を思い出した。

僕は自宅への道を歩き始める。


ひとりになると、レイヴンの言葉が頭の中で何度もよみがえった。


レイヴンの話は、他人事として聞き流せなかった。

僕が抱えてきた息苦しさは、僕ひとりのものじゃない

この帝国では珍しくもない、どこにでもある、逃げ場のない苦しさだった。

このまま働き続けた先に待っているのは

報いでも安らぎでもなく、奪われ続けた果てにある、救いのない結末。

弱い者が踏みにじられ、悲しみが積み重なっていく現実を、許せないと思う自分がいた。


けれど、それでも僕は動けない。

相手は帝国で、僕には抗うための力が何ひとつない。

何かが崩れる瞬間を思うと、怖くなる。

どれほど空っぽな一日でも、明日も同じように平和に過ぎてくれるならそれで良いと

自分に言い聞かせながら生きてきた。

結局、どれだけ考えても、何ひとつ変えられず明日を迎えるのだろう。


自分に力があれば、とまた考える。

けれど今、その願いは前とは少し違っていた。

自分の息苦しさを壊すためだけではなく

この帝国で削られながら生きている人たちへも届く力がほしいと、そう思い始めていた。

言い訳は、いつしか笑ってしまうような妄想に変わっていた。


考えごとが頭の中を巡るまま、僕は村道を進んだ。

そんなとき、前方から見慣れない二人組が歩いてきた。


長いローブを深くまとい、姿を隠している。

見慣れた村の景色の中では、その姿はあまりにも異質だった。

二人はそのまま僕の横を通り過ぎていく。

何事もなく終わるかと思った瞬間、背後から声がかかった。


「君......」


顔は見えなかった。

けれど、その声にはまだ年若い響きがあった。


「レイヴン・プリムローズという女が、この村に来なかったか?」


そいつが口にしたのは、紛れもなく、さっきまで一緒にいた女の名前だった。

何なんだ、今日は。

この村で、何が起きている?

何も変わらないはずだった日常が、崩れ始めている気がした。

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― 新着の感想 ―
シルの井戸が壊れてゆく様がリアルですね。ブクマしました。
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