第五話 【遙か彼方】
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第三章 :第五話
――――場面緘黙症とは、人とのコミュニケーション能力が特定の場面では著しく低下してしまう精神障害のこと。
幼い頃の経験で発症するケースや産まれつきもある。成長過程へのトラウマがケースとして多い。例えば、小学校や幼稚園での転園、転校やいじめ、家族の喧嘩を目撃してしまうなどの精神的負担。
また自分が喋る事によって人を不快にさせてしまうのではないのか?そういう強迫観念からもある。
幸い大人や周りの人への援助で心身的な緊張が緩和されて日常生活に困らなくなる水準まで会話が可能。
現代病の一種。
藤川菜乃花は表情にバリエーションが少ない。単に喋ることをしないからかもしれない。だけど唯一には暗い表情をしているように映っていた。
綾瀬が窓を少しだけ開けた。横に凪ぐ微風がバニラ色のカーテンにサラサラと砂浜を模す。篭った空気は背中に熱を停留させ、気持ち悪さばかりが目立った。俺に気を遣ったのか、自分が快適に過ごすためなのかは不明。息つく暇もないくらいに熱中し、捲るページの速さを遅くさせるのに有効だった。
「――――おい、唯一。もうそろそろ帰ろうぜ」
綾瀬の声かけを合図に伸びていた集中力の糸が切れた。パタンと本を閉じる。意識して深く息を吐いて唯一は酸素を取り込んだ。活字から目線をずらすと視界が広がり、万華鏡のようにぼやけた。
目頭を指で抑えてうーんとうめいて、「ごめん」と謝る。綾瀬の顔を伺うと俺よりも疲れた顔をしていた。
「どうしたんだよ」
窓辺の枠組みからは夕日が沈みかけていた。
そっか、俺はこんなに読んでいたんだな。唯一が発揮させた集中力は時間感覚を麻痺させている。そんな自分に驚いた時、しわ寄せで流れ込む疲労感からは得られたモノの大きさが充分に感じ取れた。
「ずいぶんと難しそうな本を読んでるんだな」
「まあな、でも大切なことが分かった気がするよ」
続けて、背伸びをしたまま俺は言う。
「こんなに本を読んだのは久しぶりだわ、そろそろ完全下校の時間だもんな・・・・・・・帰らないと」
まだここに居たいと思う反面、諦めて本を閉じる唯一は名残しそうな表情を浮かべた。
「あぁ、もうそろ。でもまだ少し時間があるし最後まで読みきっちまえばいいじゃん?」
この短い時間で3分の2までを読破した。深く理解できるにはまだ遠く及ばないにしろ、彼女の抱える苦痛の本の1部でも分かち合えた気がした。
こんな病気が世界で抱える人が存在する。人と違う気持ち悪さを抱えている極少数の人達を集めて、解決策を講じ、1人じゃないと発信した。
作者の経歴を知りたくなった。この本の最後のページを開く。見開きには偉そうに踏ん反り返る著者が掲載されている。その下には知らない名前の賞が並べてられていた。
とても偉いというのが分かる。そして貸し出しの欄の一番下に綾瀬の名前と1年前に借りた記録が保存されているのに気が付いた。
たった一瞬だったが見間違っていない。
「あーいや、また今度でいいよ。放課後は図書委員がいないから本は借りられないし、キリもいいから」
慌てて、帰る支度を俺は始める。問いただしたって何にもならない。たまたまそこに綾瀬も興味を惹かれただけだ。
陽は沈みかけている。図書室に差し込む光は弱まってきていた。
持ってきた本を2人は棚に戻す。カバンを手に持つと俺は綾瀬に言う。
「綾瀬、帰ろうぜ」
もう俺達二人を除いては誰もいなかった。野球部の練習も吹奏楽部のトロンボーンの音も終わっている。廊下から響く重たい足音。
綾瀬は俺の問いかけに反応がない。何かを考えているようでこちらの声に聞く耳を持っていない。
「・・・綾瀬・・・・・・帰るんじゃないの?」
黙っている綾瀬に促す。すると正気に戻った彼は俺と目を合わせてきた。
「もうちょっとだけ座らないか?」
「え〜お腹空いてきたんだけど」
「俺がこの町に引っ越してきた年の学年を覚えているか?」
綾瀬は立とうとせず、俺にお構いなく言葉を続ける。向かいに立つ俺はまた座った。どうして訊いてきたのか、その意図が掴めないまま俺も応える。
「まあそりゃ、覚えてるよ。小学校5,6年の時だったよな」
昔のもうほとんど透明になってしまっている曖昧な記憶の蓋を開けた。
「そう、確か、それくらいだったな」
「それがどうしたんだよ」
結論を先延ばしにする歯切れの悪い言い方に苛つきを覚えた。
綾瀬は深刻そうな顔色を浮かべている。今から言い出すのを無視すれば友達としての関係が崩れるだろうと直感が告げていた。
「話したいことがあるんだ」
表情とは反対に声色はより一層優しさを強調させて呟く。
現在、17時に差し掛かる頃。俺は喉が渇き始めている。綾瀬が次に言う言葉を取りこぼさないよう耳に意識を集中させる。
「昔さ、ここに引っ越して来る前ね。俺、藤川さんの事イジメてたんだよね」
ケラッとした軽い物言いで綾瀬が言葉を吐いた。