転生は突然に
10年近く保育士として働いてきた。学生時代から幼児教育の仕事に関わりたいと思い、念願叶って就職したが理想と現実は大きく違っていた。ママグループの板挟みや子供の個性を伸ばす試みがクレームになるなど、子供の悩みより保護者への対応の方が大変だった。それでも続けてこられたのは、子供の無邪気な笑顔があったからだ。私は子供の幸せそうな表情が好きだ。だから、テレビや新聞で悲しいニュースを見るたび苦しくなり、自分にも何か出来ないだろうかと自問自答した。仕事の専門性を高める為の資格から子育てする親のケアに関する事まで、同僚からは無駄な民間資格と言われても積極的に勉強した。この10年は仕事と勉強に追われ、給料は学費に消えていた。
30代に入り、任用資格を取得をきっかけに児童福祉の仕事に転職する事を決めた。今日は新しい職場への初出勤日。期待と不安が入り交じっている。きっと、また思い通りにいかない日もあるだろう。それでも、この10年で身につけた知識とキャリアが私の足を軽くさせた。そう、あの瞬間までは…。
「きゃー誰かー!」
叫び声の方向を見るとベビーカーが急な坂道を勢いよく下っていた。このままだと交通量の多い車道に入ってしまう。通勤時間という事もあり、車が途切れない。物理は得意ではないが、ベビーカーの速度で走行中の車と接触すれば大惨事という事だけは分かる。私は全力で走り、ベビーカーを自分の方へ引き寄せた。次の瞬間、自分の体が後方へ飛んでいた。ゴォーンと頭の中で寺の鐘のような重く響く音と共に熱さにも似た痛みが後頭部から広がっていく。薄れゆく意識の中で、最後に見えたのはベビーカーの中で無邪気な赤ちゃんの笑顔だった。
目を覚ますと町の喧騒は消え、緑広がる景色と澄んだ空気の匂いがした。湖に反射した光がキラキラと眩しい。まるで風景画のような美しい光景。ここは天国かもしれない。そんな事が思いながらボーッとしていた。
「…リカ嬢!エリカ嬢、目を覚ましたか?」
私の顔を覗き込むイケメン天使。天使ってラッパを持った子供のイメージだったけど、実際は宗教画に近い美しい姿。むしろ、天使というより王子様。この整った顔立ちどこかで見たことがある。誰かに似ている。私の知り合いにこんな美形いたかな。でも、見覚えが…あっ!
「ルーカス王子。」
思わず口に出してしまった。シュミレーション乙女ゲーム『人の恋は蜜の味』通称【恋蜜】の攻略対象のルーカス王子がそこにいた。
私の唯一の趣味は乙女ゲームだった。その中でも【恋蜜】は普通の乙女ゲームと違い、無垢なヒロインが好感度を上げて告白したらハッピーエンドではない。主人公は悪役令嬢。攻略対象を唆し、道を踏み外すよう誘惑して、婚約者や家族から攻略対象を奪っていく。そして、どのエンディングにも因縁果報な結末が待っている。プレイヤーは主人公も攻略対象も誰も幸せにならない未来を知る事になる。ネットのまとめサイトを読んだ後のような身近に感じないリアルさが【恋蜜】にはあった。どこかにみんなが幸せになれるハッピーエンドがあるのではないかと私自身、かなりやりこんだゲームだった。攻略本や製作会社のインタビュー記事も読んだが、シナリオライターの「みんなが幸せになれる未来があるなら、物語が始まる前からすでに幸せ」という一文を読んで、はじめから幸せになれる結末がなかった事を悟った。
【恋蜜】の攻略対象であるルーカスは、フォレスト国の王太子。ゲームチュートリアルで出会う攻略対象であり、一度上がった好感度は下がりにくく、とにかく簡単に落としやすい。ユーザーからは「チョローカス」と不名誉なあだ名をつけられていた。実際、目の前にした生ルーカスの破壊力は凄まじい。透き通るようなブロンドの髪に宝石のように美しい碧眼。黄金比の顔パーツに化粧品広告に負けない美しい肌。眼福に耐えられず、感動のあまり目が潤んだ。
「エリカ嬢?」
キャラクターボイスもそのままで、感動のあまり見惚れてしまう。あぁ、やっぱり…
「ルーカス王子だ。」
そう呼ぶ私に対して顔色が変わるのが分かった。
「その名前は先代のフォレスト国王であった私の祖父だ。本当に大丈夫か?」
フォレスト国って【恋蜜】の舞台になった国の名前だ。私、【恋蜜】の世界にいるの?でも、目の前のルーカス似の人はルーカスを祖父だと言った。ここは二世代後の世界って事?状況が全く掴めず混乱する。とにかく情報収集して早く元の世界に帰らないと。
「つかぬことをお伺いしますが、私はなぜここにいるのでしょうか?お名前をお聞かせいただけますでしょうか?」
「エリカ嬢、やはり頭を打ったのか。」
ルーカス似のイケメンは護衛の騎士達に医師を呼ぶよう指示を出す。大事になりそうだったので止めようと起き上がろうした瞬間。
「動かない方がいい。」
ルーカス似のイケメンが私に覆い被さるような姿勢になる。イケメンの至近距離に思わず息を止め顔を反らす。
「君、エリカ・ルフェラン侯爵令嬢は、私、アイゼン・フォレストと会う為に王家所有の湖のあるこの場に来ている。」
「アイゼン・フォレスト…って、国王様?という事は、お父様って事?」
【恋蜜】に王城に行くシーンがあり、そこでアイゼン国王が出てくる。アイゼン国王はもっと骨格もしっかりとした大人な感じで落ち着いた雰囲気があり、目の前にいる青年とは全く違う印象だった。
「私は国王ではなく、現国王の息子だ。」
アイゼン国王がまだ王太子…つまり、時間軸ではゲーム開始前。
「本当に大丈夫か?」
私を心配そうに覗き混む美しい碧眼に湖の光が反射して、瞳の中に見覚えのある顔が映し出される。
「え?アンソニー…」
「アンソニーとは先々代のアンソニー・フォレスト国王の事か?」
瞳に映っていたのは【恋蜜】の攻略対象でもあるアンソニー王子だった。ルーカス王子とアンソニー王子は二卵性双生児で兄のルーカス王子は国王似のイケメンで、弟のアンソニー王子は王妃似の美青年という設定だった。
私は、湖を覗き込み、顔をペタペタと触る。そこに映し出されていたのはアンソニー王子の顔をした私だった。私、もしかして王妃に転生している?転生したらゲーム開始前だった件って、まさかのラノベのような展開にますます混乱する。ゲームのエンディングを知ってる以上、この国の未来は真っ暗なのは知っている。でも、二人の父親であるアイゼンお父様が名前を聞いても息子だと思わないという事は私はまだ二人を産んでいないのよね?私は自分の腹部を触り膨らみがないか確認する。それでも一応確認しておかないと。
「アイゼンお父様、私達、もうヤっていますか?」
「君の父親はルフェラン卿で、私は君のお父様ではない。それにヤっているとはなんだ?」
「せ…。閨事です。」
その言葉を聞いた瞬間、アイゼンお父様は私を支えていた手を離し、慌てて距離を取る。
「な…何を言って!!君と二人で話をするのも今日が初めてじゃないか。」
私はそれを聞いて安心した。【恋蜜】の兄のルーカス王子ルートでは、ヒロインと駆け落ちした後、ルーカス王子の婚約者であるエアリスの父親が怒りから貴族派をまとめて王家に反逆、フォレスト王国は内戦に陥る。弟のアンソニー王子ルートでは、ヒロインの為にアンソニーは王位継承を狙い、兄であるルーカス王子を暗殺。そのまま王位継承するがアンソニーの婚約者であるフローラの実家から王家は多額の借入金があり、返済を求められ王家は税収加算を行い国も困窮する。
プレイヤーの立場なら乙女ゲームの世界で済まされるが、転生してこの世界で生きていくとなると話は別だ。自分の子供に起こる未来を知っている以上どうにかしないといけない。例えヒロインが他の攻略対象に進んだとしても、このゲームには、必ず最悪な結末がついてくる事を私は知っている。好きな子との幸せを祈れないダメなママを許して。妄想で産んだルーカスとアンソニーに思いを馳せると泣けてくる。
「エリカ嬢…やっぱり打ち所が…」
どうやら、本当に涙が出ていたらしく、アイゼンお父様が私の肩に手を乗せた。
「ちょ…アイゼンお父様!私を妊娠させる気ですか!」
「触ったくらいで妊娠するかっ!」
痴漢扱いされたアイゼンお父様の口調が崩れる。
私が、息子達と国の未来を憂いている時に、この双子種付け国王!
「アイゼンお父様は、すぐ妊娠させるような男だという事、知っています!」
「だから、私は君のお父様ではない!それに、私をどんな男だと、思っているのだ!」
私は知っている。ゲーム開始時、王宮に招かれたヒロイン視点のアイゼンお父様は、十五歳の息子いるとは思えない、色気のある若いパパだった。その作画にプレイヤー達の間では、アイゼン国王ルートがアップデートで来るのでは?と囁かれていた。転生したと分かった今、この国の未来は、私の貞操が握っていると言っても過言ではない。
駆けつけた医者の診断では頭部外傷による記憶喪失とされた。今日はアイゼン王太子の婚約者選定の交流で、一緒にボートに乗りたいとルフェラン侯爵家令嬢エリカ(私)がボートに乗り移る際にボートが動き、そのまま桟橋に頭を打って倒れこんだそうだ。その頭を打った衝撃で、どうやら私は前世を思い出したらしい。前世の記憶を取り戻したと同時に現生の記憶が抜け落ちていた。侍女に聞いた話では、私は流行りの悪役令嬢でもなければ、高飛車な貴族令嬢でもなく、普通の年頃の令嬢。アイゼンお父様に対しても、淡い恋心や王太子の妻になりたいという野望もなかったそうだ。しかし、今日の顔合わせの場所をこの湖を希望したのは私らしい。この湖は王家の所有する王族の避暑地であり、一般人はこの土地に踏み入れることさえ許されない場所。なぜ、私はアイゼンお父様とボートに乗りたがったのだろう?これだけ美しい湖だ、きっと単純に普段行けない土地でボートに乗りたかったのだろう。うん、そういう事にしておこう。
今は、未来の為に、今後はアイゼンお父様に近づかないようにすることに集中しよう。




