最終話
ぶはっ、と岩ポンが笑い出す。朋子の頭から手を離して、目尻に浮かんだ涙をぬぐっている。
「お前には本当にかなわねえよな。こんなふうにやり取りできるやつは世界中捜してもお前しかいねえよ。教員とか学生とか、そういう枠を考えるのが馬鹿馬鹿しくなる」
はあ、と岩ポンは息をはく。穏やかな眼差しを朋子に向ける。
「一緒にいるとアイデアがわいて、研究ライフもスムーズになる。そういう相手がほかにいないかとあれこれ捜してみたけどよ。いねえんだな、これが。妄想じゃないかと六年ほど様子を見たけど、お前を越える存在は現れなかった」
言葉を切って岩ポンが朋子を見つめる。
「お前だってそうだろ。うぬぼれじゃなくて、現実問題の話だ。お前をよりよい研究へ引きあげてやれるのは俺しかいねえ。違うか」
唇が震えた。そりゃそうだけど。そうなんだけど。
まったくもう。はあ、ってため息をつきたいのはわたしだし。もう。もうもうもう。だったら、もう。わたしの今までの悩みはどうなるのよ。どうしてくれるのよ。
はああ、と朋子は盛大にため息をはく。
それに、と岩ポンは声色を変える。
「やっぱブエノスアイレスの件が尾を引いている」
え、と上目遣いで岩ポンを見る。
「お前が学部四年のときだ。振り向いたらお前がいなかった。宿に戻ってるかと思ったがブエノスアイレスだ。そんなわきゃねえって汗だくで捜し回った」
朋子の顔がこわばる。
「お前はもう忘れたかもしれねえけど、あのとき俺がどれだけ寿命が縮む思いをしたか知ってるか? お前に何かあったらどうするかって。やっと見つけたお前を思わず抱きしめるとこだった」
忘れてない。ずっと覚えている。ペンギンたちになぐさめてもらっていたけど、大丈夫だってずっと胸で繰り返さないと駄目なくらい心細くて。岩ポンの背後から元彼が顔を出さなかったら岩ポンの胸にすがって泣くところだった。それができなかったから。そうだ。できなかったからこそ、わたしはずっと岩ポンを意識していたんだ。
「もうよ。そんな思いをするのは嫌なんだよ。お前はひとりで平気だっつう顔をして無茶ばっかりしやがる。どんだけ頑丈な胃があってももたねえよ」
「わたしだって野外調査で連絡もなくて何日も山から戻らない先生をどれだけ心配してきたか」
「心配してくれていたのか?」
「するでしょっ」
思わず睨みあって、やがて岩ポンが笑みをうかべた。悪かったな、と続ける。
「つまり、アレだろ。お前の悩みは俺に惚れたら不倫になるかもってやつだろ。その懸念について早く払拭してやれなかったことは謝る」
「論文紹介みたいに話さないで」
だから、と岩ポンはがしがしと髪をかく。苦笑を朋子に向ける。
「俺をかいかぶるな。俺がいまどれだけ焦っているのかわかってんのか?」
「え」
「なんどもいうが、お前は顔かたちだけはいいもんな。仕事も早いしよ。その辺の男がすぐによりつく。近くにいりゃはらってやれるが、こう離れているとそれもできねえ。だから」
いいつつ岩ポンは胸ポケットから紙を取り出す。くしゃくしゃになった紙であった。
「これにサインしてくれ。そうすりゃ俺は安心して研究に専念できる。お前だってずっと俺と研究したいんだろ? 一石二鳥じゃん」
なんだ? 念書を書けと? いぶかりながら紙を開く。
婚姻届けであった。
「えええ」
落ち着け、と岩ポンは両手を突き出す。
「順番をぶっ飛ばした行動をしているのはわかってる。だけどな。俺だってお守りが欲しいんだよ。法的手段は最たるものだ。俺の妻に手を出すなってガキどもにいってやりたいじゃん」
それに、と岩ポンは続ける。
「悔しいけどこの地震だな。地震に背中を押された。そりゃ俺だって五十五だ。もっとゆっくりやるべきだってわかっている。だがな。この先何があるかわからんだろうが。あのときもそうだった。ゆっくりやって取り返しのつかないことなんて。もう二度と嫌だからよ」
それに、とさらに続けようとする岩ポンを朋子はさえぎる。
「どうしてこんなにくしゃくしゃに?」
「そこかよ。そりゃ、アレだ。その、ずっと持っていたからだ。お守りがわりだな」
「いつから」
「三、いや四年くらい前から」
「わたし彼氏いたし」
「だからじゃん。アイツがお前の足を引っぱらないかと、どんだけヒヤヒヤしたことか」
それって、といいかける朋子をまたもや岩ポンは手で制する。
「俺をみくびるなよ。だからってお前らが別れるようにしむけたことは一度もない。むしろアイツがお前をちゃんと支えてくれるならって思ってた」
支えきれなかったみたいだけどな、と低く続けられて朋子は視線を落とす。
わかってる。元彼が別れを切り出したのは岩ポンのせいじゃない。元彼は自分からおりたんだ。わたしと足並みをそろえるのに疲れ果てて。だってわたしは元彼のペースに合わせられなかった。わたしのペースの先には。視線をあげて岩ポンを見る。
岩ポンはあごひげをかく。気持ちをおさえるように早口で続ける。
「サインが嫌ならちゃんといえよ。ペンギンを卒業して、拒絶することを学んで、ちゃんといえるようになったんだろ? そのために俺はずっと待っていたんだしよ」
嫌じゃない、嫌じゃないけど、だけど。手を伸ばす。なおも言葉を重ねる岩ポンの唇を指先でふさぐ。
「いま欲しいのは言葉じゃない」
岩ポンが面食らった顔をして。やがて大きく息をはいた。真顔になる。岩ポンの大きな手のひらが朋子の小さい顔をつつんだ。岩ポンの顔が近づいてそっと目を閉じる。ふわりと優しく、次第に強く、岩ポンの唇が唇に触れた。あたたかさも舌の強さも、何もかも、ああこれだ、と思う。
そうか、わたし、ずっとこれが欲しかったんだ。ずっとずっと待っていたんだ。
唇を離して顎を引く。先生、と小さい声が出る。
「先生とずっと一緒に研究がしたい。ずっとそばにいたい。人間としてじゃなくて男性として。好きです。大好き」
岩ポンが大きく眉をあげる。自信たっぷりに笑みを浮かべる。
「知ってる」
まったくもう。この人は。泣き笑いの顔になって。朋子は岩ポンの指に指先を絡めた。
(了)
おつきあいいただき、ありがとうございました!
ふたりのラストは本当にどうしようか悩んで、夢の中でも「お前らどうしたいんだよ」と問いかけて。「そりゃ俺は」と岩ポンはみもふたもないことを望んで「それムーン枠だから」と拒んで。
岩ポンが朋子に翻弄される6年間を、あたたかーく切ない目で見守り続けた学会連中のドラマもあります。例の出来事で死んだようになっていた岩ポンは朋子が研究室に入ったからこそ復活したとか。そういう意味でも実は朋子は業界の救世主だったとか。
別の機会にご紹介したいな。
お疲れ様でした!!
天川さく




