4-2 マズい。大変にマズい(後編)
『俺だって忙しいんだよ。お前がいないから授業の準備はできてねえし、飛行機のチケット手配も忘れるし。原稿の締め切りも間に合わねえ』
「いつものことでは?」
『この前なんて授業開始五分前でマイクがないことに気づいてよ。お前がいたら即座に走って持ってくるのに。目で合図しても誰も持ってこねえから、九十分、大声でがなりどおしだったぜ』
それは。朋子はふるふると首を横に振る。ほかの講義室の教員はさぞ迷惑だったであろう。
『とにかくお前がいないと不便なんだよっ』
「先生がわたしを道大へ推薦したんでしょっ」
『くっそお、だから後悔してんじゃんっ』
「後悔してるのっ」
がしがしと髪をかきむしる音がして、『んでよ』と岩ポンが続けた。
『そろそろ届いただろ? まだ届かねえのか?』
「届く? このうえ何が?」
『オーストラリアの試料だ。前に話しただろうが』
おおお、と口を大きく開ける。そういえばそんなことをいっていた。青ざめる。これまた大量に届くとかどうとか。待って待って。作業量が倍以上増えるってこと? 道大の倉庫もわたしも完璧にキャパオーバーでしょ。どうすれば。
だがしかし。非難の声をあげようとした直前である。
『ほんじゃあ頼んだ。よろしくな』
岩ポンは見事なタイミングで通話を切った。同時にパソコンへメール着信である。学会発表のタイトルであった。十件分あった。
「多いでしょ。どういうこと? カウントミス? それとも自分で発表できるやつまでわたしにやらせるつもり?」
確認しようにも、どのタイトルがどのプログラムに対応するのか記述はない。もっとも、どのプログラムに何を申し込んだのか岩ポンが覚えているわけがないので、当然といえば当然なのだが。
「適当にこのタイトルを振りわけろってこと? 残りを岩ポンに押しつければいいのかな。ああもう。ヘタに確認したら、やらなくていい発表までやるはめだよね」
それが狙いなのだろうか。その前に、と横目でコンテナを見る。データどころか、たっぷりの岩石のまま試料である。まったくの手つかずである。
「まだこの段階だもんねっ」
合いの手を打つようにポポンと新着メールがある。岩ポンからであった。薄片試料作製の委託をやっている研究機関リストであった。すべて新規の機関である。くそお。こういう作業だけは相変わらずやたらと早いな。新規となればまずは一枚作ってもらって出来具合の確認が必要なわけで。
はあ、と息をはく。
「面倒くさいな。自分でやったほうが早いかな。どうしようかな。……やろうかな」
「死にます」
木橋が朋子の肩を背後からつかんだ。
「朋子センセがめちゃくちゃ早く薄片を作れるのは知っています。けど一カ月で千枚は無理です」
「一カ月か。そんなに時間をとれるかなあ。測定もしなくちゃなあ」
せめて、と木橋の指に視線を落とす。
「木橋くんが薄片作るのうまかったらな」
「すみません。不器用でした。スライスする加減がわからず」
残念なことに木橋は薄片作りが大変苦手であった。危うくコンテナひとつをムダにするところであった。そこまでやりつくして「自分には薄片作りの基本的な才能がない」とようやく認めた木橋も相当のプライドの高さである。できればもっと早くあきらめてほしかったな、とカケラになった岩石を見て朋子はしみじみと思ったものであった。岩ポンにはこわくてまだ報告をしていない。
でも、と木橋は顔をあげる。
「化石のクリーニングはお役に立てそうです。SEM観察も由加さんから装置の初回講習を受けましたし。試料を渡していただけたらお力になれます」
うんそうだね、と朋子も顔をあげた。
木橋くんに頼むためにはわたしがいろいろ下準備をしなくちゃで。その時間がいまはないんだけどというのはこの際である。飲み込もう。少なくとも木橋くんはわたしの足を引っぱりはしない。岩ポンのように仕事を増やすこともない。頼んだことも文句をいわずに進めてくれる。
薄片作りが苦手なくらいなんだ。
そういう相手がいるだけでどれだけ心強いことか。
わたしはなんて恵まれているんだ。
うおお、と胸のうちで雄たけびをあげていると「これまた散らかしましたねえ」と呆れたような声がした。
元気であった。
朋子のデスクエリアへひょいと顔をのぞかせていた。ゆったりとデスクまわりを見わたして口元を歪めている。
「おれの出番がなさそうだな」
「なんのこと?」
「いえ別に。それより昼飯にいきませんか? 十勝産粒あんたっぷり大福も学食に並んでいるって聞きまして」
わあ、いくいく、と朋子と木橋の声が重なる。元気の言葉は気にかかったし、作業の遅れはもっと気がかりだ。けれど腹が減ってはである。それに何より大福である。
札幌で暮らしはじめて驚いたのは大福屋の多さであった。札幌で和菓子といえば上生菓子ではなく大福であった。しかも何やら全体にサイズが大きい。小ぶりであっさりとした品のいい大福など腹の足しにはならないしょ、と大吉ねえさんも話していた。
「学食の大福ってまだ食べたことがない。どんな感じかなあ」
「黒豆がたっぷりと生地に練り込んであり、粒あんはほんのりしょっぱいんです。それがぎっしり入っているんです」
木橋が熱っぽく語る。生まれながらの道産子の木橋がいうのである。それはいったいいかほどの。朋子は踊るように学食へ向かった。




