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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
番外編

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ご意向をお聞かせください、王女殿下(ヘレナ)

案内状は二通、草案は一通だった。


朝の光が差す机の上に、淡い青の封蝋を外した書面が揃えて置かれている。ヘレナは上から順に目を通した。王都南区の慈善院が開く茶会への招待。もう一通は、その催しに王女名義の後援を願う申し入れ。


どちらも、文面だけ見れば穏やかだった。


問題は、その下に添えられた返信草案にある。


「まだ先方へはお送りしておりません」


控えていた宮務官が言った。


「殿下のご意向を伺ってから整えるよう、申しつかっております」


ヘレナはすぐには返事をせず、草案を手に取った。


出席への謝意。慈善院の働きへの賛意。茶会への出席予定。そこまではよい。その先へ進んだところで、視線が止まる。


茶会後、関係者との短い歓談を賜れれば幸いに存じます。

また、今後も変わらぬご厚意を賜れますよう――


丁寧な文だった。だからこそ、半歩だけ先に進められているのがわかる。


「歓談とは、どなたとのものでしょう」


「慈善院の院長と、後援に関わる夫人方にございます。あわせて、寄進を申し出ている商会の代表も」


「商会の方も」


「はい。今後ともご縁を賜れれば、とのことで」


ご縁。


柔らかな言い方だった。草案の末尾にある、継続後援を匂わせる一文と同じ重さで耳に残る。


ヘレナは紙を置かずに、もうひとつ確かめた。


「後援については、まだ何も約してはいないのですね」


「そのように記録しております」


「この草案も、下案のまま」


「はい」


返答は簡潔で、曖昧ではなかった。誰の意向で、何を、どこまで進めてよいのか。そうした確認が、以前より王宮の中で増えていることを、ヘレナも感じていた。


それでも、何を望むかと問われることには、まだ少し間がいる。


ここで断れば角が立つのではないか。含みを持たせておけば、場はなめらかに収まるのではないか。そう考える癖は、簡単にはなくならない。


だが、曖昧なまま受け取れば、あとで困るのは誰なのか。そのことも、今はよくわかっていた。


「例年も、このような形でしたか」


宮務官は慎重に答えた。


「茶会へのご出席は同様でございます。ただ、歓談と継続後援の文言は、先方のご希望がやや強く」


「強く」


「もちろん、決定ではございません。差し支えなければ、という程度にございます」


差し支えなければ。


そう言われるものほど、気づけば断りにくい形になっている。


ヘレナは草案を机へ戻した。


「茶会には出席します」


宮務官が頷き、傍らの侍女が控えに筆を走らせる。


「ですが、そのあとの歓談は受けません」


筆先が一度だけ止まった。


「後援の件は、書面を拝見したのちに返答いたします。その場でお約束はいたしません」


自分の声が、思っていたより静かだった。


「退出時刻も、先に定めておいてください。茶会のみの出席であると、先方へ伝わるように」


宮務官は確認するように復唱する。


「では、茶会へはご出席。歓談はご辞退。後援の件は書面確認後、後日ご返答。そのように整えましょうか」


「ええ。その形で」


「承知いたしました」


草案が宮務官の手元へ戻る。歓談の一文に細い斜線が入り、継続後援を匂わせる文言が、書面確認後の返答へ改められていく。侍女長は別紙へ退出時刻を書きつけ、当日の随行人数と動線を確かめ始めた。


紙の上で、予定が変わる。


その様子を、ヘレナは黙って見ていた。口にしたことが空気の中へ消えず、そのまま文面になる。ただそれだけのことが、思いのほか確かなものに見えた。


やがて宮務官が顔を上げる。


「では、茶会のみご出席。歓談はご辞退。後援の件は書面確認後、後日ご返答として整えます」


「お願いいたします」


そのひと言で、部屋の空気が次へ進んだ。控えの写しが用意され、退出時刻が近習へ伝えられる。追加の申し入れがあれば口頭ではなく書面で受けること、贈答品は宮務課を通すこと。細かな決まりが淡々と置かれていく。


以前なら、こうしたことはその場の判断に委ねられていたのかもしれない。だが、その場に委ねられたものほど、あとで静かに重くなる。


茶会の日は、よく晴れていた。


慈善院の中庭には花がいくつも置かれ、白い卓布の上には磨かれた茶器と焼き菓子が並んでいる。集まった夫人たちは慎ましく笑みを交わし、王女の来訪へ過不足のない歓待を示した。


穏やかな場だった。少なくとも、そう見えるようには整っている。


ヘレナは定めた時間だけ席に着き、慈善院の現況を聞き、必要な挨拶を返した。院長の説明は簡潔で、冬のあいだに修繕した窓枠のこと、台所の補修に使われた寄進の内訳まできちんと記されている。先に必要なものが示されていれば、返答も選びやすい。そんな当たり前のことを、今のヘレナは当たり前として受け取れる。


「来年もぜひ、殿下のお力添えを賜れましたら」


年長の夫人のひとりが、満足そうに言った。


「書面を拝見してから判断いたします」


ヘレナがそう返すと、夫人は一瞬だけ目を瞬かせ、それから笑みを崩さずに頷いた。


「ええ、もちろん。そのためのご相談でございますものね」


場はそれで乱れなかった。


曖昧にしないことは、冷たさではない。そう思うころには、侍女が静かに近づいていた。


「殿下、お戻りのお時間です」


その一言に、ごく薄い間が生まれる。もう少し話を続けたい、という気配は確かにあった。だが今日は、その気配の中から自分で出口を探す必要がない。


「ええ」


ヘレナは席を立った。


すると、寄進の話に熱心だった夫人が柔らかく声をかけた。


「ほんの少しだけでも、このあと奥でお話を伺えましたら。後援のことも、その場でひと言いただければ、こちらとしても心強いのですけれど」


いかにも無理強いではない声だった。善意の顔をしているぶん、踏み込まれていることに気づくのが遅れやすい。


けれど今日は、遅れない。


「本日は、ここまでと先に申し上げております」


ヘレナは微笑みを崩さずに答えた。


「後援については、書面を拝見してから返答いたします」


夫人は言葉を継ぎかけ、隣の院長と目を合わせたのち、形を整えるように頷いた。


「まあ、もちろんでございますわ」


侍女が静かに一礼する。


「続きのお話がございましたら、宮務課へ書面にてお届けくださいませ」


それで終わった。


誰も声を荒げない。誰も不快を露わにはしない。ただ、決めたとおりに場が閉じる。それだけで十分だった。


王宮へ戻ると、侍女長が控えの写しを差し出した。


「本日の件、先方へもそのように整えてございます」


受け取った紙には、朝に定めたとおりの文言が並んでいた。茶会への出席、歓談の辞退、後援については書面確認後の返答。自分の言葉が、そのまま残っている。


ヘレナはそれに目を落とし、そっと閉じた。


窓の外では、夕方の光が中庭の石畳へ細く差している。風は弱く、庭木の枝先がわずかに揺れただけだった。


戻ってきた時刻まで、あらかじめ定めたとおりだった。


ヘレナは紙を机の上へ置き、しばらく静かな部屋の気配を聞いていた。

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