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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第1章 婚約破棄と清算

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5、一人の夜

エーヴェル家の馬車は、夜の王都を静かに滑っていった。


石畳を踏む振動は確かにあるのに、今夜はそれすら遠い。窓の外には、まだ夜会帰りの灯りが点々と揺れている。どの屋敷でも今ごろ、似たような噂が囁かれ始めているのだろう。


王太子殿下主催の春の夜会で、ユリウス・グランツが婚約者との婚約を解消した。

しかも、その場で確認が始まり、立会人の前で整理が進められた。


明日の朝には、言い回しを変えた無数の話になって広まっているはずだ。


リディアは膝の上で手を重ねたまま、じっと座っていた。


痛みが消えたわけではない。

胸の奥に何か冷たいものが残っていて、ときおり遅れて軋む。


それでも、泣きたいとは思わなかった。

あるいは、泣くための場所にまだたどり着いていないだけかもしれない。


「お嬢様」


向かいに座る老執事が、慎重に声をかけた。


「屋敷へ戻りましたら、書記をすぐ起こしましょうか」


リディアは顔を上げた。

少しだけ驚く。自分がそう言い出す前に、すでに察していたらしい。


「……ええ、お願い」


声は思ったより普通だった。


「文面の叩き台を今夜のうちに作ります。持参金と贈与品の目録も出しておいてください。明朝、父へ確認を取りたいので」


「かしこまりました」


執事はそれ以上、何も言わなかった。


お気の毒にとも、今夜はお休みくださいとも言わない。

ただ、必要なことだけを受け取って、必要なように動いてくれる。


その静けさが、今のリディアにはありがたかった。


ほどなくして馬車は屋敷へ着いた。


夜更けのエーヴェル邸は静かで、どこもかしこも見慣れているはずなのに、今夜は少しだけ広く感じられる。玄関ホールの灯り、磨かれた床、壁にかかった肖像画。日々と変わらないものばかりなのに、自分だけが同じ場所へ戻れていないような気がした。


出迎えた使用人たちは皆、何かを察した顔をしていたが、誰も余計なことは言わない。執事が短く指示を出し、必要な者だけが動き始める。


それで十分だった。


部屋へ戻り、扉が閉まる。


そこでようやく、世界が一つ静かになった。


リディアはしばらくその場に立ち尽くしていた。


背を扉へ預けるでもなく、椅子へ崩れ落ちるでもなく、ただ部屋の中央で呼吸だけを整えようとする。だが思った以上に浅い。胸元を締めるドレスが苦しいのか、それとも別の何かなのか、自分でもわからなかった。


鏡台の上に視線が落ちる。


真珠の首飾り。

手袋。

扇。


どれも今夜のために整えたものだ。婚約者の隣へ立つ夜を想定して選んだもの。


指先がゆっくりと耳飾りに触れる。

外して鏡台へ置くと、小さな音がした。


首元の真珠。

手袋。

髪を留めていた細い飾り。


一つずつ外していくたび、夜会で張り詰めていた何かが少しずつほどけていく。

ほどけていくのに、楽にはならない。


鏡の中の自分は、驚くほどいつも通りだった。


頬は青ざめてもいない。

目も腫れていない。

髪も乱れていない。


まるで何事もなかったような顔をしている。


「……ひどい顔」


思わずそう呟いて、けれど鏡の中の女は少しもひどく見えなかった。

それが少しだけ腹立たしかった。


あの場で婚約を解消され、社交界の価値観ごと突きつけられ、それでも何一つ壊れて見えない自分。

壊れていないのではない。壊れ方が外に出ないだけだ。


鏡から目を逸らし、机へ向かう。


そこには、いつものように筆記具と便箋が整えられていた。整っていることが、今夜ばかりは少しだけ残酷だ。自分の部屋まで、まるで何もなかったように整っている。


椅子へ腰を下ろし、白紙を見つめる。


泣くより先に、考えてしまう。

考えるより先に、整理してしまう。


それが自分の悪い癖なのだと知っている。

けれど今さら、別のやり方を選べるほど器用でもない。


リディアは筆を取った。


一行目に書いたのは、ひどく乾いた言葉だった。


婚約解消に伴う確認事項


その文字を見た瞬間、唇の端がほんのわずかに歪む。


笑ったつもりはない。だが、あまりにも自分らしくて、少しだけ可笑しかった。


婚約者に捨てられた夜に、最初に書くのが確認事項。

可愛げがない、と言われるはずだ。


そう思ったところで、不意に視界が滲んだ。


墨の輪郭がにじみ、文字の黒がぼやける。

遅れて、それが自分の目に涙が浮かんだからだと気づく。


ぽたり、と一滴が紙へ落ちた。

たったそれだけのことなのに、染みは妙に大きく見えた。


「……本当に」


声に出したところで、続きは出てこなかった。


本当に、何なのだろう。

悲しいのか。悔しいのか。腹立たしいのか。

全部なのかもしれないし、そのどれでも足りないのかもしれない。


彼に捨てられたこと。

あの場で“愛されなかった女”として処理されたこと。

ユリウスだけは違うかもしれないと、どこかで信じていた自分の愚かさ。


胸の奥へ押し込めていたものが、ようやく形を持ちはじめる。


最初の頃のユリウスを思い出した。


君だけは話が早い。

君は本当に聡い。

君がいてくれて助かる。


そんな言葉を、彼は確かに口にしていた。


全部が嘘だったと思いたくはない。けれど今ならわかる。


彼は自分を見ていたのではない。

自分と一緒にいることで整う世界のほうを、心地よく感じていたのだ。


そう考えた瞬間、喉の奥が熱くなった。

リディアは目元を押さえ、静かに息を吐く。


大泣きにはならない。嗚咽も出ない。

ただ、ようやく痛みが感情として追いついた、それだけだ。


そのとき、控えめなノックがした。


「お嬢様、失礼いたします」


年若い侍女が、湯気の立つ茶器を盆に載せて入ってくる。彼女はリディアの目元を見て、ほんの少しだけ息を止めた。だが、すぐにいつもの落ち着きを取り戻す。


「お茶をお持ちしました。夜更けまでお仕事をなさるようでしたら、温かいうちに」


「ありがとう」


それだけ言うと、侍女は深く頭を下げた。


「何かございましたら、すぐに」


それ以上は何も言わずに下がっていく。

その控えめさに、今夜だけで何度目かわからないほど助けられる。


リディアは新しい紙を引き寄せた。


婚約解消に伴う確認事項。

持参金目録。

贈与品照合。

通達文面草案。

証人確認。

両家への送達順。


項目を書き出すごとに、痛みが消えるわけではない。

けれど、曖昧だったものに輪郭が生まれていく。


曖昧なままの痛みは、人を無力にする。

曖昧なままの約束は、もっと多くの人を傷つける。


だから整える。


たとえ、今夜ばかりはその整った行為が、自分自身の逃げ方であるとしても。


茶器へ手を伸ばすと、指先にようやく温度が戻った気がした。


温かい。


その単純な事実が、少しだけ現実へ引き戻してくれる。


机の上の紙には、すでにいくつもの項目が並んでいた。


これを明朝までに叩き台へする。

目録も確認する。

父への報告も必要だ。

グランツ家がどう出るかも見なければならない。


やるべきことは多い。

それは不幸中の幸いだった。


やるべきことがあるかぎり、自分は前を向いていられる。


窓の外では、夜が少しずつ深くなっていた。


王都のどこかではまだ今夜の噂が続いているだろう。けれどこの部屋の中では、もうそれは遠い。


リディアはもう一度筆を取る。


涙を流すより先に、整理しなければならないことがある。

そしてたぶん、自分はこれからも、そういうふうにしか立っていられない。


筆先が、さらさらと次の文字を生んでいく。

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