3、冷たい女
確認が済んだあとも、夜会は終わらなかった。
楽団は演奏を続け、給仕たちは銀盆を運び、燭台の灯りは先ほどと変わらず大広間を明るく照らしている。けれど、誰も本気で音楽を聴いてはいなかったし、誰も本気で今夜を楽しんでもいなかった。
人々はすでに、新しい物語を受け取っていたのだ。
ユリウス・グランツは婚約を解消した。
その婚約者は涙も見せず、持参金と文面の確認を始めた。
それだけの事実に、それぞれが都合のいい意味を付け足していく。
リディアは、それを肌で感じていた。
先ほどまで何が起きるのかを固唾を呑んで見守っていた視線が、今はどう受け取るべきかを決めたがっている。
哀れみたい者。
見下したい者。
自分の価値観の正しさを証明したい者。
社交界はいつだって、出来事そのものより語りやすい形を愛する。
少し離れた場所で、夫人たちが扇を寄せ合っていた。
「お気の毒ですけれど……」
「でも、あそこまできっぱりしていては、殿方も息が詰まってしまうのではなくて?」
「ええ。頼もしい方ではあるのでしょうけれど、妻に望むものとは少し違いますもの」
「相談役としては完璧でも、伴侶となるとまた別ですわね」
「正しい方ですけれど、正しいだけでは……」
囁きはどれも上品だった。
露骨な悪意はない。
だからこそ、余計に残酷だった。
悪口ではない。
もっともらしい一般論として、自分を“そういう女”に分類していく声音だ。
リディアは表情を変えなかった。
だが、聞こえていないわけでもない。
相談役。
頼もしい。
正しい。
けれど伴侶には向かない。
ああ、そう見られていたのか、と今さら知るようなことでもなかった。
以前から薄々わかっていた。わかっていながら、ユリウスだけは違うのではないかと思いたかっただけだ。
「殿方というものは」
ローデン侯爵夫人の声が、ちょうどよく周囲に届く強さで落ちる。
「正しさに裁かれるより、少しばかり愚かでも自分を許してくれる温かさを好むものですわ。いくら優秀でも、いつも間違いを見抜かれていては心が休まりませんものね」
数人の夫人が、いかにもそれらしく微笑み合う。
ひどく完成された言い分だった。
誰かが無責任であることを責めず、
その無責任さを指摘する側だけを息苦しいと呼ぶ。
許すことと見逃すことは違う。
そう言い返すのは簡単だ。けれど今ここでそれを口にすれば、きっとまた「だから可愛げがない」と言われるだけだろう。
リディアは、扇を持つ指先にだけわずかに力を込めた。
そのとき、ユリウスが近づいてきた。
人目を避けているつもりなのか、少しだけ声を落としている。
だがこの距離では、誰かの耳に届かない保証などない。むしろ、その半端さこそが彼らしいとリディアは思った。
「リディア」
呼ばれて、彼女は視線だけを向ける。
「これ以上、場を固くするのはやめないか」
その第一声に、胸の奥がひどく静かに冷えた。
心配しているような口調。
角の立たない言い回し。
誰が聞いても“彼女のためを思って言っている”ように響く声。
けれど中身は違う。
「場を?」
「そうだ」
ユリウスは、いまだに自分が優しい側に立っているつもりらしかった。
「今夜はもう十分だろう。あまり固い話を続ければ、君だって余計につらくなる」
「私が?」
「そうだ。皆の前でそこまで張りつめる必要はない。あとのことは家同士で――もっと穏便に」
穏便に。
その言葉が、今夜だけで何度目かのように聞こえた。
リディアは彼を見た。
整った顔立ち。柔らかい声音。誰の前でも“感じよく”振る舞える男。最初の頃、自分はその穏やかさを誠実さだと思っていた。
でも違ったのだ。
この人の穏便とは、誰も傷つかないことではない。
自分が、傷つけた側に見えないことだ。
「穏便とは」
リディアは静かに言った。
「準備のある方が使う言葉です」
ユリウスの眉が動く。
「……どういう意味だ」
「文面もなく、返還条件もなく、両家への通達順も決めず、公の場で婚約を解消しておいて“穏便に”はございません」
声は荒げない。
けれど言葉の一つ一つが逃げ道を塞いでいく。
「今夜ここで曖昧にしたものを、明日になってから誰がどのように整えるおつもりなのですか」
「そこまで言う必要はないだろう」
「必要です」
ユリウスはわずかに顔を強張らせた。
彼はおそらく、本気でそう思っているのだろう。ここまで人前で、そこまで細かく言わなくてもいいだろう、と。気持ちの問題で済むことを、なぜわざわざ冷たい現実へ引き戻すのだ、と。
その思考そのものが、リディアにはようやく見えていた。
この人は何も見ていないのではない。
見なくていい立場に自分を置くことに慣れすぎているのだ。
「君は、いつもそうだ」
ユリウスの声には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
「必要だ、正しい、そう言って何でも並べる。だが、人には気持ちがある。全部をその場で整理できるわけじゃない」
「気持ちはあります」
リディアは答えた。
「ですが、気持ちで済まないから確認しているのです」
言い切ると、ユリウスは何も返せなくなった。
返そうとすればするほど、自分の気持ちだけで終わらせようとしていることが露わになるからだ。
少し離れた場所で、また囁きが生まれる。
「ほら、ああいうところよ」
「正しいことしかおっしゃらないのね」
「悪い方ではないのだけれど……」
「だからこそ、殿方には重いのだわ」
重い。
その評価が、妙に可笑しかった。
軽い約束はたくさんある。
軽い好意も、軽い賛辞も、軽い同情も。
でも、重くなければ守れないものがあることを、彼女は知っている。
婚約もそうだ。
離縁もそうだ。
人が人の人生に関わる以上、軽さだけで済むはずがない。
「曖昧さを美徳にできるのは」
低い声が、またしても空気を断ち切った。
セオドアだった。
彼は今夜ずっと、前へ出すぎない位置にいる。
けれど必要な瞬間だけ、正確に言葉を落としてくる。
「責任を持たない立場だけです」
その一言で、夫人たちの囁きが止まる。
ローデン侯爵夫人がゆっくりと彼へ向き直った。
「まあ。ずいぶん味気ないこと」
「味の問題ではありません」
セオドアは少しも感情を交えない。
「必要事項の確認を“可愛げがない”で片づければ楽でしょう。ですが、その楽さは後で必ず誰かの負担になります」
可愛げがない。
あえてその言葉を拾ったことに、リディアは気づいた。
彼はわかっているのだ。
この場で自分がどう見られ、どういう言葉で切り分けられようとしているのかを。
「肩を持ちすぎではなくて?」
侯爵夫人が扇の陰で微笑む。
「持ってはおりません」
セオドアは即答した。
「必要なことを必要だと申し上げているだけです」
それきり、彼は黙った。
庇い立てもしない。優しくもない。
ただ、自分のしていることが“正しいかどうか”の話に戻してくれただけだ。
それが、今のリディアにはひどくありがたかった。
感情を雑に宥められるより、ずっと。
広間の上段から、微かな衣擦れがする。
視線を上げると、ヘレナ王女がまだそこにいた。
白いドレスの裾を揺らしながら、騒ぎを面白がることもなく、ただ静かにこちらを見ている。その表情には同情もない。けれど冷たさとも違う、もっと切実なものが宿っているように見えた。
昨夜からの違和感が、少しだけ輪郭を持つ。
この王女は、今ここで交わされている言葉の意味をわかっている。
少なくとも、そう感じた。
けれど今は、その意味を考える余裕はない。
リディアは視線を戻し、改めて告げた。
「今夜の確認事項は以上です。詳細は明日以降、文書として整えます」
周囲の空気が、また少し変わる。
面白がる空気ではなくなっていた。
見物人のままでいるには、この話があまりに現実へ近づきすぎたのだろう。
何人かの貴族たちが、先ほどまでとは違う目でユリウスを見ている。
綺麗に終えられると思っていたのか。
そこまで甘く見ていたのか。
そんな無言の問いが、そのまま視線になっていた。
ユリウスは、それに耐えきれなくなったように目を逸らした。
その様子を見ても、リディアの胸に快さはなかった。
ただ少し、遠い。
好きだった相手を見ているはずなのに、もう昨日までの近さでは見られない。
ああ、この場は最初から。
自分を愛されなかった女として片づけるつもりだったのだ。
正しいが冷たい。
頼れるが重い。
だから選ばれなかったのだと、そういう物語に押し込みたかった。
でも、その物語で誰かが納得したところで、壊れた約束は勝手には片づかない。
現実のほうは、名誉も、金も、責任も、何一つ軽くならないのだ。
「失礼いたします」
リディアは最低限の礼をとり、身を引いた。
その瞬間、背後で誰かの小さな呟きが落ちる。
「あれほど何もかも見えている方だったのか」
誰の声かはわからなかった。
けれどそれで十分だった。
見えているからこそ、傷つく。
見えているからこそ、曖昧にできない。
そしてたぶん、自分はこれからもそういう役回りを簡単には降りられない。
リディアは歩き出した。
大広間の灯りはまだ明るい。
けれど、その光はもう昨夜までと同じものには見えなかった。
ほどなくして、立会人を交えた確認のため、リディアたちは大広間に隣接する応接室へ移ることになった。




