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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第2章 婚約破棄と清算

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3、選ぶということ

午後に入るころには、机の端へ寄せたはずの書状の束が、また元の厚みへ戻っていた。


王女殿下の婚姻条件に関する補足案。

カルヴァン伯爵家への返答。

宝飾商からの確認。

婚礼衣装の納品停止に関する相談。


それらを片づけるたび、新しい紙が増えていく。


紙は音を立てない。

だからこそ、気づいたときには積もっている。


リディアは一通目の封を切り、二行ほど読んだところで静かに閉じた。差出人は遠縁の叔母だった。息子夫婦が離縁寸前で、先方の実家とどう話をつけるべきか、今夜のうちに助言がほしいとある。文面の端々には焦りがにじんでいたが、それ以上に、自分で整えようとした形跡の薄さが目についた。


次の封を開く。


今度は子爵夫人からで、娘の持参金の見せ方について、以前と同じように一言もらえれば安心です、と書かれている。


その一文が、妙に目に残った。


いつものように、自分が見れば整うと思われているのだ。


腹立たしいというより、重かった。


どの手紙も切迫した顔で届く。けれど、その切迫が生まれる前に自分で整えようとした気配は薄い。見えている者が拾ってくれると、どこかで信じているのだ。


見える者が、いつまでもそこにいるとは限らないのに。


「お嬢様」


執事が新しい盆を持って入ってきた。茶ではない。未開封の手紙が三通、新しく増えている。


「まだございましたか」


「はい。急ぎと断り書きのあるもののみ先に」


執事は机の空いた場所へ三通を置いた。空いた場所を選べる程度には、まだ整っている。だが、その整いが机の持ち主の気力まで支えてくれるわけではない。


リディアは三通を見下ろしたまま言った。


「全部に返すべきだと思いますか」


執事は意外そうにはしなかった。むしろ、ようやくその問いが来たかという顔だった。


「以前のお嬢様なら、返されたのでしょう」


「ええ」


「ですが、以前のお嬢様は、昨日婚約を失ってはおられませんでした」


静かな声だった。

それなのに、妙に胸へ入ってきた。


リディアは紙の端へ指先を置いたまま、答えなかった。


「旦那様も、すべてをお引き受けになる必要はないとお考えです」


執事は続けた。


「見えてしまうことと、背負うべきことは、必ずしも同じではありません」


それは、父ならもう少し不器用に言っただろう言葉だった。

だが意味は同じだ。


見えるから拾う。

拾うから、さらに見える。

そうしているうちに、いつしか「見えるなら拾うのが当然」へ変わっていく。


それは仕事というより、習慣に近い。

そして習慣は、ときに人を都合のよい存在へ変える。


「全部を断れば」


リディアはゆっくり言った。


「困る方もいます」


「はい」


執事はためらいなく頷く。


「ですから、全部を引き受けるか、全部を断るかではなく、どこまでをお嬢様が負うべきかをお決めになるべきです」


その言葉は、意外なほどすんなり胸へ落ちた。


全部をやる。

何もしない。


その二つの間に、選ぶという方法がある。


当たり前のことなのに、今までその当たり前を、ろくに使ってこなかったのかもしれない。


「……そうですね」


リディアは小さく息を吐いた。


「私に見えるからといって、すべてを私が整えなければならないわけではない」


「はい」


「ですが、放っておけば片方だけが傷む案件は別です」


そこまで言うと、執事の目元がほんの少しだけ柔らいだ。


「その線引きができれば、十分かと」


リディアは頷き、手紙を一通ずつ分け始めた。


返答を急がないもの。

各家で相談し直すべきもの。

最初からこちらへ投げすぎているもの。

そして、放っておけば立場の弱い側から傷むもの。


作業に入ると、思考は自然に冷えていく。

どれも同じ相談には見えなくなった。


叔母の離縁相談は、まず親族の中で交渉役を立てるべきだ。こちらが口を出す段階ではない。


子爵夫人の持参金の見せ方も急ぎではない。形式の工夫より前に、夫側との認識合わせが足りていない。


婚礼衣装の停止は、宝飾商と仕立屋の確認が先だ。これは短い返答で済む。


カルヴァン伯爵家の顔合わせの席順は、今日中に返したほうがいい。前妻の子の立ち位置を曖昧にすると、後で娘のほうが嫌われ役を押しつけられる。


並べ替えていくうちに、紙束はようやく輪郭を持ち始めた。


全部が同じ重みではない。

全部が同じ緊急性でもない。

全部を拾わなくてもいい。


そこまでわかったところで、机の隅に置いたままの一通が目に入った。


薄い灰色の封筒。

筆跡は若い。だが無理に丁寧さを装っているぶん、かえって切迫が伝わってくる。


リディアはそれを開いた。


差出人は、ハルヴェン男爵家令嬢エミリア。


覚えのある名だった。春先の茶会で一度だけ挨拶を交わしたことがある。落ち着いた目をした娘で、婚約が整いかけていると耳にした記憶があった。


便箋は一枚。けれど文面は切迫していた。


婚約に関し、父が先方へ大きく譲歩するようです。

相手方は、婚約後の居住地、持参金返還、婚約解消時の条件について文書化は不要だと申しております。

私はそれが恐ろしく思えます。

ですが、愛し合っているなら条件など要らぬと家中から言われ、私のほうが疑い深いと責められています。

もし可能であれば、一度だけ、どう見るべきか教えていただけないでしょうか。


最後の一行だけ、筆圧が少し乱れていた。


リディアは読み終えた手紙を机へ置き、しばらく動かなかった。


愛し合っているなら条件など要らない。


昨夜聞いたばかりの言葉の形を、少し変えたものだった。

そして、それを受けているのが若い令嬢であるぶんだけ、なお悪い。


条件を求めることは不信だ。

細かな取り決めは愛を冷やす。

最初から破綻を考えるのは無粋だ。


そうやって紙を置かない婚約ほど、壊れたときに片方だけが沈む。


そのことを、リディアは知りすぎるほど知っている。


「お嬢様?」


執事の声に、彼女はゆっくり顔を上げた。


「……この方の婚約相手は」


手紙を指先で示す。


「たしか、商会に強い侯爵家の次男でしたね」


「はい。表向きは良縁と聞いております」


表向きは。


便利な言葉だと、リディアは思う。


「そして先方は、条件を文書化する必要はないと」


「そのようで」


執事は短く答えた。


「若いお嬢様の不安にすぎぬ、と見なされているのでしょう」


リディアは手紙をもう一度読んだ。


恐ろしく思える。

その一言だけで十分だった。


この令嬢はまだ、何がどう危険なのかを言葉にできていない。だが危険であることそのものは感じ取っている。そして周囲は、その感覚を「愛を知らない臆病」として処理しようとしている。


見覚えのある構図だった。


違うのは、今回はまだ婚約の前だということだ。

壊れたあとではなく、壊れる前に止められる余地がある。


リディアは手紙を横へ置き、他の紙束から少し離した。


「これは先に返します」


「承知しました」


執事はそれだけ答えた。

理由を問わないところがありがたい。


リディアは新しい紙を引き寄せた。


すぐに詳しい助言を書くには、情報が足りない。


先方の家格。父親がどこまで譲るつもりか。婚約後の居住地。持参金の扱い。どの条件が文書化を拒まれているのか。


だが、少なくとも一つだけはすぐに伝えられる。


彼女は筆を取った。


愛があることと、条件が要らないことは同じではありません。

条件を整えるのは、疑うためではなく、片方だけが無防備にならぬようにするためです。

もし差し支えなければ、相手家の提示内容をもう少し詳しくお知らせください。


そこまで書いて、筆先を止める。


全部には応じない。

便利だからと差し出される紙は、もうすべて拾わない。


けれどこれは、放っておけば確実に若い令嬢のほうから傷む案件だ。


選ぶということは、捨てることではない。

何を拾うべきかを、自分で決めることだ。


リディアは便箋を折りながら、ようやく少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


全部を抱えなくていい。

だが、見えてしまったものの中には、見過ごしてはいけないものがある。


机の中央には、王女殿下の婚姻条件案。

その横には、若い令嬢の婚約相談。


規模も身分も違う。

それなのに根は同じだった。


守る条件のない婚約は、いつだって弱い側から壊れる。


リディアは返信を封じ、執事へ渡した。


「この方には、今日中に届くように」


「かしこまりました」


執事が一礼して退く。


ひとつ選んだ。


その事実は、思っていたより重くも、軽くもなかった。


リディアは再び王女案件の紙へ目を戻した。


全部を拾わないと決めても、結局、拾うべきものは残る。

そしてそれはたいてい、条件のない約束のほうからやってくる。


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