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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第1章 婚約破棄と清算

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1、婚約破棄の夜会

今夜の王都は、磨き上げられた鏡のようだった。


幾重にも吊るされた燭台が白金の光を撒き、磨かれた床は踊る人々の影をやわらかく映している。笑い声、衣擦れ、グラスの触れ合う澄んだ音。そのどれもがよく整い、よく訓練された夜会の音だった。


リディア・エーヴェルは、その中心から半歩だけ退いた場所に立っていた。


深緑のドレスは流行の先端ではない。けれど仕立ては隙がなく、余計な装飾を持たないぶん、彼女自身の輪郭をかえって際立たせていた。灰みを帯びた濃茶の髪は丁寧に結い上げられ、首筋には細い真珠が一連だけ。華やかではない。だが、目にした者はなぜかもう一度見てしまう。そういう種類の美しさだった。

何人かの令嬢が扇の陰で彼女を見た。羨望か、値踏みか、その両方か。リディアは気づいても、気づかないふりをした。


今夜は、王太子殿下主催の春の夜会。婚約者であるユリウス・グランツの隣に立つべき場でありながら、彼はまだ彼女のもとへ来ていない。


遅い。


ただそれだけのことに、胸の奥がわずかにざわついた。

ユリウスは人を待たせる男ではない。少なくとも、公の場では。


そのとき、ふいに周囲の空気が揺れた。


大広間の向こうで小さく歓声が上がる。人の輪が自然にひらき、その中心に立つ金髪の青年が視界に入った。明るい燭りを受けて、彼の髪は春の麦穂のようにやわらかく光っている。整った横顔、親しみやすい笑み、誰に向けても角の立たない声音。ユリウス・グランツは、今夜もまた、誰の目にも好ましい青年だった。


――その腕に、見知らぬ令嬢を伴っていなければ。


淡い桃色のドレスをまとった娘は、花びらのように愛らしかった。ユリウスが歩幅を合わせるたび、嬉しげに頬を染めて見上げる。その仕草は作り物めいていないぶん、余計に残酷だった。


予定にない。


リディアの頭の中で、夜会の流れが静かに組み替えられる。紹介の順序。立つ位置。周囲の視線。ここであの娘を伴うなら、それは単なる挨拶では済まない。


嫌な予感は、たいてい当たる。


それを知るには、彼女は少しばかり多くの婚約と破談を見てきた。


ユリウスがこちらへ向かってくる。人々の視線も、ざわめきも、一緒に流れてくる。彼は数歩手前で立ち止まり、いつもの柔らかな声でリディアの名を呼んだ。


「リディア」


その声音があまりにも穏やかで、かえって逃げ場がなくなった。


彼は一度、周囲を見渡した。衆目が集まっているのを確かめるように。


それから、ひどく聞こえのいい声で言った。


「君はいつも正しい。けれど私は、正しさだけの婚約を続けたいとは思えなくなった」


誰かが息を呑む。


リディアはまばたきを一つした。


扇を持つ指先にだけ、ほんのわずかに力がこもる。


ユリウスは隣の令嬢の手を取り、ためらいなく続けた。


「今夜、この場で君との婚約を解消したい」


その言葉は、投げつけられたというより、綺麗に磨かれた刃のように差し込んできた。


大広間のざわめきが、ひと呼吸ぶんだけ遅れて広がる。楽団の音さえ、どこか遠くへ退いたようだった。誰かが扇を落とし、乾いた音が床に跳ねる。


リディアは、まず自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。


驚いていないわけではない。


むしろ、予感していたよりずっと正確な形で突きつけられたせいで、胸の内側が冷たく軋んでいる。けれど、ここで顔色を変えるわけにはいかなかった。


ユリウスは待っている。

周囲も待っている。

婚約者の裏切りに呆然と立ち尽くす令嬢か、取り乱して醜態を晒す女か、あるいは涙ながらに許しを乞う愚かな婚約者か――そのどれかを。


だからリディアは、扇を閉じた。


ぱちり、と小さな音がする。


「……理由を伺っても?」


声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


ユリウスは、責められなかったことにわずかに安堵したようだった。彼はもともと、感情のぶつけ合いを好まない。いや、正確には、自分が悪者に見える形を好まない。


「先ほど申し上げた通りだよ。君はいつも正しい。誰よりも理性的で、隙がない。だが私は……そういう関係に、少し疲れてしまったんだ」


隣の令嬢が、控えめに睫毛を伏せる。

庇われるべき可憐さを、よく知っている仕草だった。


ユリウスはその手を取ったまま続ける。


「婚約とは、条件や釣り合いだけで結ばれるものではないだろう。私はもっと、心の通う相手を選びたい」

周囲から、わずかな同意の気配が漏れた。


言い方が上手い。

あまりにも上手い。

これではまるで、リディアが契約書しか見ない冷たい女で、ユリウスのほうが勇気を持って真実を告げた誠実な男のようではないか。


胸の奥で何かがひび割れる。

それでも彼女は、ゆっくりと目を伏せた。


心が通う相手。


その言葉を、彼は軽々しく使う。

誰の不利益も整理せず、誰の名誉も守らず、ただその場の響きの良さだけで。


「……そうですか」


それだけ言ってから、リディアは顔を上げた。

ユリウスは、少し拍子抜けしたように眉を上げた。もっと問い詰められると思っていたのかもしれない。あるいは、泣かれるとでも。

だが、まだ終わっていない。

婚約破棄というのは、言葉にした瞬間に成立する感情ではなく、そこから始まる手続きの総称だ。まして、互いの家が関わる正式な婚約ならなおさらである。

その程度のことも考えず、よくこの場を選べたものだと、いっそ感心したくなる。


リディアが口を開く前に、どこか面白がるような女の声が割って入った。


「まあ……なんてお気の毒。けれど、殿方にもお心がありますものね」


ローデン侯爵夫人だった。豪奢な紫のドレスに大粒の宝石を揺らし、気遣うふりをした微笑みを浮かべている。


「契約に長けた令嬢は便利でしょうけれど、妻に望まれるものは別ということですわ。あまり殿方を追い詰めてはいけませんわよ、リディア様」


周囲に、くすりと小さな笑いが走る。


痛みは、意外なほど鮮明だった。

ユリウスに切られたことより、その言葉に周囲が納得していることのほうが。


なるほど、とリディアは思う。

今この場で自分に求められているのは、恥をかいた女らしく黙って引くことなのだ。そうすれば「気の毒だった」で済む。美しく敗者になれば、社交界は優しい。

だが、その優しさはいつも、後の面倒を引き受けてくれない。


持参金の返還は。

贈与品の扱いは。

婚約解消の理由をどう記録するのか。

どこまでを互いの家の責任とし、どこからを口外禁止とするのか。


今ここで曖昧にすれば、後で傷つくのは立場の弱い側だ。

その程度のことは、何件もの破談を見てきた彼女にはよくわかっていた。


リディアは侯爵夫人のほうを見た。笑みは返さない。


「ご忠告、ありがとうございます」


丁寧に言ってから、視線をユリウスへ戻す。


「ですが、私は冷たいのではありません」


大広間が、すっと静まる。


ユリウスが初めて、その言葉の続きを警戒するように目を細めた。


リディアは声を荒げなかった。

淡々と、ただ事実を告げるように続ける。


「あなたが、後のことを何ひとつ考えていないだけです」


一瞬、誰も息をしなかったように思えた。


ユリウスの顔から笑みが薄れる。

隣の令嬢が意味を測りかねたように彼を見上げる。

ローデン侯爵夫人だけが、扇の陰で目を細めた。


けれどリディアはもう、彼らの反応を追わなかった。


傷ついていないわけではない。

胸の奥では、まだ言葉にならないものが滲んでいる。

それでも、ここでやるべきことは決まっていた。


彼女は背筋を伸ばし、夜会のただ中とは思えぬほど静かな声で告げた。


「承知いたしました。では、婚約解消に伴う確認をさせていただきます」


場が、凍った。

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