第36話 戦線の崩壊
エンシェントドラゴンがぐるりと視線をやり兵士や冒険者たちを眺めていく。その間、皆が金縛りにでもかかってしまったかのように動く事さえできなかった。生物としての本能がその格の違いを強烈なまでに感じ取ってしまっており、意識的に動く事を拒否してしまっていたのだ。
「ふむ。なかなかに筋の良い者もいるようだが、この中にはいないようだ。すまないが、君たち、道を空けてくれないかね」
その言葉に操られるようにして、冒険者や兵士たちが入り口から離れていく。しかし助かったと安堵するような者はどこにもいなかった。むしろ自分の意思ではないはずなのに、勝手に体が動いてしまった事に恐怖し、体を震わせる者さえいた。
そんな中、エンシェントドラゴンの言葉に反して、その場から動かない者がいた。エリック、ケネス、そしてイセリアの3人だ。
恐怖心を抱きながらも、懸命にこちらへと視線を向け戦おうという意志を示す3人の姿に、エンシェントドラゴンがその相好を崩す。
「ふふっ、良きかな、良きかな。届かぬ相手と知りながらも立ち向かう事こそ真の強者の証というもの。んっ? そこの娘、お主から強き者のマナを感じるのだが心当たりがあるな」
「っ!!」
突然呼ばれたイセリアの体がビクンと震え、その表情が焦りの色に染まる。エンシェントドラゴンが何の意図を持ってそんなことを聞いてきたのかイセリアにはわからなかったが、強き者というのがおじい様かネラのことであろうことは容易に想像がついた。
どちらもイセリアにとっては大恩のある人物である。2人に迷惑などかけられない、そう思う気持ちはあれど、じっと見つめ続けるエンシェントドラゴンのプレッシャーにイセリアは動揺を隠し切る事が出来なかった。
「よく見ればそなたも勇者の卵のようだ。ふむ、良かろう。そなたを助けにその者が来ればよし。来なくても多少の暇つぶしにはなろう」
エンシェントドラゴンはそう言うと長い首をもたげて顔を寄せ、そして大きな口をイセリアの前で開けた。
「あっ」
そんな小さな声を残してイセリアの姿がその口の中に消える。その瞬間、わずかにだがエリックとケネスの体がそれを防ごうと動いたのだが、エンシェントドラゴンの巨大な瞳に間近で見つめられ再びその動きを止められた。
2人の目の内に怒りの感情を察したエンシェントドラゴンが、嬉しそうに目を細める。
「理不尽に怒りを抱く勇ある者たちよ。強き者に伝えよ。時間はそう長くないとな」
そう2人に伝えたエンシェントドラゴンはふわりと浮き上がり、そして2階層の方向へと向かって羽ばたいていった。
「「待て!」」
浮き上がった瞬間に金縛りが解けたかのように動けるようになったエリックたちがそれをなんとか阻止しようとしたが、エンシェントドラゴンに触れることさえ出来ずに終わる。
エンシェントドラゴンの姿が完全に見えなくなり、エリックとケネスが膝をつく。その表情は真っ青であり、精神的な限界値を既に超えてしまっているのは誰の目から見ても明らかだった。
「救けにいくのは絶望的だね。強き者とやらにお願いするしかない訳だけれど、僕たちを超える強き者なんてライラックにはいないと思うけど」
はぁ、はぁと息を整えながらそう話しかけてきたケネスに、エリックはうなずき返しかけてそれを止める。
この場にいる者がライラックの最高戦力である事は間違いない。現在ライラックにはオリハルコン級の冒険者はいないし、依頼などで街を少しの間離れていてここにいない他のミスリル級冒険者にしてもケネスより明確に上という者などいないからだ。
しかし、それでもなおエリックがその動きを止めたのは、ライラックでも屈指の実力者である自分を簡単に撒いた正体不明の者の事が頭をよぎったからだ。
「ネラか」
「ネラ? あの噂の?」
「ああ、他には該当しそうなものがいない。しかし伝えろといっても……」
その手段がない、と続けようとしたエリックだったが、その言葉は背後で仲間の1人があげた警戒の声に阻まれた。
「ドラゴンパピーの姿を確認。第7波かもしれません!」
その言葉にエリックとケネスが苦々しい顔をしながら立ち上がる。
「伝えろというのなら、休ませてほしいんだけどね」
「あのドラゴンにとっては、この程度は些細な事なんだろうな。態勢を立て直す。腑抜けてると死ぬぞ。気合を入れなおせ!」
2人は愚痴を言い合い、そしてエリックが仲間たちに指示を飛ばし始める。ケネスも仲間の冒険者たちに声をかけて状況を確認していったが、エンシェントドラゴンに出会った衝撃のせいでその内の数人はほとんど使いものにならないだろう事がわかってしまった。
限界だな、そんな考えがケネスの頭をよぎる。前回でさえギリギリだったのに、イセリアという有能な魔法使いが抜け、さらには他のメンバーもボロボロ。
これでは第7波を乗り切ることなど出来るはずがない。そう冷静に判断を下した。
ケネスがエリックを見つめる。2人は友人というほど親しくはないが、知人よりも濃い繋がりを持っていた。お互いにお互いを認め合う、そんな関係だった。
エリックの性格を知るケネスには、どんなに絶望的な戦いであったとしてもその背後にライラックの街という守るべきものがある限りエリックは戦い続けるだろうという確信があった。
自分が、それがどんなに愚かな事だと諭そうとも。
「エリック。勇敢で愚かな僕の友達。君の死に様はちゃんと見届けて、しっかりと僕が伝えよう。強き者に助けを求めるという撤退する理由も出来た事だしね」
そう祈るように呟いたケネスがエリックから視線を外す。
そして自らのパーティメンバーへと集合をかけた。事前に、撤退を前提とした戦い方をするようにと伝えるために。
ほどなく第7波がやってきた。出現するモンスターに変わりはなかったが、その戦いは一変していた。
開始して間もなく、連携のミスから2名がブレスに飲まれ、そこからは1人、また1人と戦える者が減っていく絶望的な状況だった。
死んだからではなく、その多くが負傷による退場だったが、その傷はすぐに戦線復帰など出来ないほど重体である事に変わりはない。
負傷者を運ぶ兵士の数が不足するほど加速度的に状況は悪化していった。
「右前方、ブレスだ!」
既に全体を観察し、警告を発する役目の兵士すらいなくなった戦場で、エリックが声を張り上げ続ける。その警告にもかかわらず、炎のブレスを避けきれずに片手を焼かれた兵士が地面にのたうちまわりながらあげる悲鳴を背中越しに聞き、エリックが舌打ちをする。
それはその兵士に対してのものではない。この絶望的な状況に対して、そしてそれを打開する事の出来ない自らの不甲斐なさに対してのものだった。
ブレスを吐いたドラゴンパピーの脳天へと剣を突き刺して倒し、すぐに仲間を助けるためにエリックが駆ける。
まともに戦えている者など兵士の中にはほとんどいない。冒険者はまだマシだが、半壊している。パーティ単位で機能しているのは『焔』ぐらいなものだ。
しかし敵の勢いが弱まる様子はなく、完全崩壊の足音はすぐそばまでやってきているのをエリックは感じとっていた。
(俺が死ねば撤退できるとでも思ったのかもしれんが、すまんなケネス。俺の背中には大事な者がたくさんいるんだ。最後まで付き合って1体でも多くのドラゴンを屠ってくれ)
この状況でも余力を残すようにして戦うケネスへとちらりと視線をやりながら、エリックが小さく笑う。しかし思考が逸れたのはその一瞬の事で、エリックはすぐに戦いへと没頭していった。
人数が減り、1人で対応するモンスターの数が増えていく。
返り血を避けることさえ出来ず赤黒く全身を染めながら戦い続けるエリックの壮絶な姿は、普通の者が見れば恐怖を抱くようなものだった。
既にエリックにまともな意識などなく、訓練によって刻み込まれてきた無意識がその体を無理矢理に動かしているような状態だった。
既に何体屠ったのかわからないドラゴンパピーの炎のブレスを軽く腕の表面を焼かれながらも避け、そしてブレス中で身動きの取れないドラゴンパピーへとエリックが剣を突き刺す。そしてそれと同時に音が聞こえた。
パキッ
金属の折れる、終わりを告げる音が。
「エリック!」
自らの手の折れた剣を見つめ、背中越しにケネスのそんな叫び声を聞きながらエリックは久しぶりに意識を取り戻していた。
殺しきれなかったドラゴンパピーがそのブレスを自分へと向けようとするのを、エリックは引き延ばされたかのようなゆっくりとした時間の中で眺める。
(すまない、ジュリア。帰るという約束は守れそうにない。そして兄貴、ごめん。最後まで恩返し出来なかったよ)
エリックが自らの折れた剣を見つめて微笑む。後悔しかないのに、穏やかな気持ちになっていることが、不思議で、そしてなぜかおかしかった。
そしてついに炎のブレスの熱がエリックの肌を焼き始めたその時だった。一陣の風がその戦場に吹いたのは。それは……
「俺の大切な弟になに手を出してくれてやがんだ。このクソドラゴンが」
そんな事を言いながらドラゴンパピーをステッキで地面に押しつぶすクラウンの男、ネラがエリックの目の前に突然現れたことによるものだった。




