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「あの、亘さん、もしかして、まだ怒ってます?」
「別に」
卒業式から三日後。私は亘さんの部屋を訪れていた。二度目でもやっぱり緊張する。前回と同じようにクッションに座っているのだけれど、前回と違って亘さんが私を背後から包み込むように、ぴったりとくっつくように座っているのだからなおさらだ。心臓によろしくない。
亘さんは私の肩口に顎を乗せたまま動こうとしない。せっかく紅茶を用意してくれたのに、動揺でひっくり返してしまいそうで手が出せないまま、テーブルの上で冷めていく一方だ。
実は、卒業式の後から亘さんの様子はこんな調子だった。さすがに私の両親や祖父の前ではにこやかだったけれど、私と二人きりだといつもより口数が減ってしまって、ぴったりと私にくっついている。
というのも、私の卒業式に顔を出してくれた亘さんだが、私の友達に兄と勘違いされてしまったのだ。
私としてはこれまで亘さんとの関係をどう説明していいのか分からず、誰にも亘さんのことを話したことがなかった。だから友達がそう勘違いするのもおかしくない。
そして私は、未だに亘さんと両想いだったことが受け止めきれず、つい、「そんなところ」と返してしまった。実際、亘さんは兄のように優しいし、好きな人ではあるけれど年上の男性として慕っているのも事実だった。
それから亘さんは、私に不機嫌な気持ちを隠そうとしない。
「ひかり」
「は、はいっ」
「いっとくけど、俺はひかりが思ってるほど大人じゃないから」
「そうなんですか?」
「今度兄とか言ったら許さないからな」
今度は肩に額が押しつけられる。
なんだか可愛い。
また、亘さんの新しい一面を知った。
元々亘さんは年上の人とつきあっていたのだから、本当はこうやって恋人に甘える人なのかもしれない。
(こいびと・・・)
自分で考えたことに頬が熱くなるのを感じた。
私にとっては降って湧いたような幸福だ。未だに現実味がない。こうして背中に亘さんの体温を感じる時が来るなんて、思ってもみなかった。
あれから、私と亘さんは正式に婚約が決まったらしい。らしいというのは、これまでと何も変化がないし、私本人が蚊帳の外になっているからだ。
社会人になって生活が落ち着いてから細かい話をしようと知らぬ間に決定されていて、私は祖父と亘さんから間接的に知らされただけだった。
やはり子供扱いされているような気がする。
どんなに背伸びをしようと年の差は埋まらない。
それがまだもどかしいけれど、そのうち気にならなくなる時が来るのだろうか。
そんな未来を思い描いてもいいのだろうか。
私は未だ、疑心暗鬼になっている。
だって、一生片想いだと思っていたんだもの。
「何考えてる?」
私がぼんやりとしていることに気付いたのか、亘さんが私の顔をのぞき込んでくる。触れあいそうな近さにドキリとする。
やっぱり、私だけが一方的に振り回されているような気がする。
「亘さんはやっぱり大人だなって」
亘さんは大人じゃないって言うけれど、私に比べたらやっぱりはるかに大人の男性だ。
好きだと言ってくれたけれど、素直に受け止めきれない自分が我ながらめんどくさい。こんな我が儘で子供な自分はあっさり捨てられてしまうのではないだろうか。両想いになったはずなのに、不安は尽きない。
そんな私の心を知ってか知らずか亘さんが私の髪をなでる。
「お前だって大人だろ。もう二十二で、大学だって卒業した」
「そう、ですけど」
「だから、いい加減我慢しない」
「え?」
亘さんの指が私の顎にかかり、無理矢理横に向かされる。抗議の声を上げる前に唇がふさがってしまった。
私、亘さんとキスしてる。
「・・・キスくらいで涙目になられても困るんだけど」
いつの間にか、私の背中は床についている。私に覆い被さる亘さんのなんと手慣れていることか。経験の差に心がもやつく。
「だって、初めて、だから」
また、唇が重なる。
二回目。
頬を包む亘さんの手は変わらず優しい。
亘さんが私を見つめている。その瞳に、あの時のような切なく焦がれた光はない。けれど、日だまりのようなじんわりとした熱を感じた。
ああ、私は亘さんの目が好きなんだ。
改めて、自覚する。
「四月から、頑張れよ」
「はい」
「嫌になったら辞めて俺のところに来ればいい。もちろん続けたかったら共働きでもいいけど」
結婚のことをいわれてさらに頬が熱くなる。
夢物語ではない、現実的な話。
だって、自分たちは許嫁だから。
ああ、私、こんなに幸せでいいんだろうか。
「なんで泣くんだよ」
「わかんないです」
勝手に出てくるんだから仕方がない。
「今までごめんな」
「亘さんは悪くない、です」
「これからちゃんとつきあおうな」
私は無言でコクコクとうなずいた。
私と亘さんの二人の未来が、動き出した。