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十分ほど車を走らせてたどり着いた先は、亘さんの住むマンションだった。場所すら知らなかったその領域に、このタイミングで足を踏み入れることになろうとは。
三階の角部屋。
もう来ることなんて一生ないだろうに、部屋番号を見て覚えようとしてしまう自分の、なんと滑稽なことか。
室内は、すごく片づいているとも散らかっているともいえない、生活感あふれる男性の部屋だった。床にゴミは落ちていないけれど、片隅には仕事の資料らしい束が重なっていて、さらには干したままの洗濯物に下着が無造作に混ざっていてどこに視線を向けていいのか困った。
「そこらへんに座って」
もはや笑顔を作る気にもなれなくなったらしい亘さんはぶっきらぼうに部屋の中央に置かれたローテーブルの前を示す。一つだけブラウンのクッションが置いてあったので、少し躊躇した後その上に座った。
亘さんはテーブルの反対側の地べたであぐらをかいて、無言で煙草に火をつける。これが亘さんの素の姿なのだろうか。婚約中だったら絶対に一言断ってくれた。むしろ吸わなかっただろう。これまでいかに気を遣われていたかを目の当たりにするようでいたたまれない。
ふぅ、と亘さんが横を向いて煙を吐く。煙が私に直接いかないように配慮してくれているようだ。
「それで、どういうことだ?」
テーブルの上の灰皿に煙草の灰を落とした後、短く訊ねられる。
もちろん婚約破棄のことだろう。
亘さんの視線が痛い。
私は目をそらして、意味もなく部屋の隅の書類の束を見つめた。
「・・・祖父から、聞きましたか? やっぱり、私ももう社会人ですし、自分の結婚相手くらい自分で見つけたいなと思って。ただ、それだけです。直接言わなかったのはごめんなさい。その、卒論とかで、忙しくて」
なんて苦しい言い訳だ。
この期に及んで自分から「婚約はなかったことにしてください」と言葉にできない私は汚い。
でも、どうしてもその決定的な言葉は口にできなかった。声に出すだけで泣いてしまいそうだ。
余計なことを言わないように口を噤む。
特に、好きとか、そういう私の想いは絶対に言ってはならない。
きっと亘さんは優しいから、私の気持ちに応えてくれようとしてくれるかもしれないし、同情から許嫁のままでいてくれて、結婚もしてくれるかもしれない。
でも、私は、亘さんの想い人には勝てない。
越えることのできない壁に立ち向かい続けるなんてごめんだ。
私は亘さんを好きになりすぎてしまった。
そばにいられればそれでいいと、ずっと思っていられたならよかったのに。想いが強くなりすぎて、一番になりたいと願うようになってしまった。
こんなの、ただ辛いだけなのに。
無音の空間の中で、ハア、という亘さんのため息が聞こえた。
亘さんの顔は、まだ見れない。
「俺はそんな戯れ言を本気にするほどガキじゃないし、はいそうですかで受け入れてやれるほど大人じゃない」
今まで聞いたことのない、不機嫌な声。
どうしてそんなに機嫌が悪いのか。
亘さんが分からない。
「・・・別にいいじゃないですか。どうせ、遊びだったんです」
ああ、なんてかわいくない。
でもこれで幻滅して欲しい。私のことなんて放っておいて欲しい。
「遊び、ねえ。ひかりは遊びのつもりだったんだ?」
「だって、ご飯食べてただけじゃないですか。キスとか、そういうの一度だってしたことないし」
「すればいいのか?」
「え?」
気配を感じて顔を上げると、いつの間にか亘さんがすぐそばにいた。私が思わず避けようとするその寸前、亘さんが私の肩を強く押す。無抵抗だった体はあっけなく後ろに傾き、床に背中を打つ覚悟をしてぎゅっと目を瞑ったけれど、ぶつかる前に亘さんの手が私の後頭部に回っていた。
背中が床に着く。冷たさを感じるだけで、たいした痛みはなかった。
おそるおそる目を開けると、亘さんの顔がすぐ近くにまでせまっていた。亘さんの真剣な瞳に、間抜けな顔をした私が映っている。
距離が近い。
「え、ちょ、待ってください」
「キスしろって言ったのはそっちだろ?」
「言ってないです!」
亘さんの胸元を押すけれどびくともしない。手が、体が震える。亘さんが亘さんじゃないみたいだ。
「婚約破棄なんて、そんな簡単にできるもんじゃないんだよ」
耳元で囁かれてゾクゾクする。
心臓がおかしくなりそうだ。
訳も分からず瞳が潤んできた。
別人のような亘さん。
心臓の音すら聞こえてしまいそうな至近距離。
何もできない私。
亘さんが何を考えているのか分からない。
いろんなことがごちゃ混ぜになってとっくに私のキャパシティーを超えている。
どうしてこうなったのだろう。
全部全部、私が逃げたからだ。
ちゃんと告白してフられてしまえばそれで終わりだったのに、亘さんは優しいからなんて言い訳をして、失恋を怖がっていた私のせいだ。
別れの言葉さえ口にしない女、幻滅されて当然だ。
「・・・おねがいします、別れて、ください」
声が震えた。
最後の意地で涙だけは我慢する。
でも、別れてなんておかしな話だ。別につきあっていたわけじゃない。祖父に決められた許嫁だっただけ。私たちは恋人じゃなかった。
「嫌だ」
私の決死の言葉は短く拒絶されてしまう。
どうしてなのだろう。
亘さんが断る理由が分からない。
何か、私の知らない好条件でもあるのだろうか。
好きな人につきあいを継続させて欲しいといわれているのだ。
本当ならば嬉しいはずだ。
でも、私はもう、素直に喜べない。
私は、押し返していた手を握りしめる。亘さんのシャツに皺が入ってしまうが知ったことではない。
「もう、ダメなんです。私は、亘さんと結婚できない」
「どうして」
「亘さんが、好きだから」
好きなんて言葉じゃ足りない。
この気持ちをなんて呼べばいいのだろう。
亘さんの一番になりたい。
私だけを見て欲しい。
亘さんの全てが欲しい。
なんでもかんでも欲しがって、手に入らないと分かると癇癪を起こして放り出して。なんて幼い子供なんだろう。
それでも私はこうするしかできない。
「ごめんなさい」
私の我が儘に振り回してしまって。
亘さんは眉を顰めていた。
「俺が好きなら問題ないだろ?」
「あります」
「なんでダメなんだよ」
亘さんの目に力が入る。
あの、女性を見ていた優しい目とは正反対の、鋭い眼光。
私はあんな風に見てもらえない。
私はあの人にはなれない。
私は愛してもらえない。
亘さんの目を見たくなくて、ぎゅっと目を瞑った。
「亘さんは、『マユミさん』が好きなくせに!」
「・・・・・・は?」
虚を突かれたらしい亘さんがとっさに距離をとる。その隙に私は転がって横向きになって両手で顔を覆う。後頭部にあった亘さんの手がなくなって、フローリングの床が少し痛いけれど、こんなの、胸の痛みに比べたら些細なものだ。
「亘さんは『マユミさん』のところにでも行ってください! 私のことは放っておいて!」
ひどいことをいっている。
亘さんだって、あの人を選ぶことはできないのに。
「なんで、あいつのこと・・・?」
呆然としたような亘さんの声。『あいつ』なんて、気安く呼ぶ関係なんだ。今更胸の痛みが増した。
一目惚れで雷に打たれたようにその場を動けなくなった私は、あの人の名前を呼ぶ亘さんの声を聞いていた。私に対してと同じように「マユミ」と呼び捨てだったけれど、その響きは雲泥の差だったことを覚えている。
どうしたって勝てないんだ。
「・・・安心してください。私しか知りません。おじいちゃんも、他に好きな人がいるような人との縁談なんか考えません。その、二股とか疑っているわけじゃないし、『マユミ』さんが結婚しているのも知ってますし、亘さんは悪くないです」
「いつから知ってたんだ?」
「最初からです」
「じゃあ、なんで婚約なんてしたんだよ」
「・・・亘さんのそばにいたかった。もっと亘さんを知りたかった」
何せ一目惚れだったのだ。しかも初恋。
名前と年齢しか知らない相手をもっと知りたいと思うのは罪だろうか。
こんなに好きにならなければ問題なかったはずだったのだ。
亘さんの反応が怖い。
いつの間にか体の自由が利くようになっていて、私は横向きのまま体を丸める。外部から自分を守るように。それなのに五感は妙に研ぎ澄まされていて、亘さんの短い息遣いすら聞こえてきた。目を閉じているから視界は真っ黒だけど、自分から距離をとった亘さんの気配だけは感じていた。
「あーーー、くっそ」
長い長い沈黙の後、亘さんが唸る。反射的に私の体がビクリと震えた。
「とりあえず、体冷えるだろ?」
腕を引かれて、私は体を起こすことになる。ようやく見た亘さんは視線を逸らして気まずそうに頭を掻いていた。
「ちゃんと話しておけばよかったな」
苦笑して、亘さんは私の乱れた髪を直してくれる。きっと私は今ひどい状態なんだろう。髪がぼさぼさなのはもちろん、不用意に手で顔を覆ってしまったから化粧も崩れているだろうし、泣きそうで目元も赤いかもしれない。
亘さんの手が離れていく。
「・・・真由美は、元カノだったんだよ」
あぐらをかいて亘さんは天井を見上げる。
「家族に反対されて、一時は駆け落ちも本気で考えてた。でも、真由美に祝福されない結婚は嫌だってフられてあっさりおしまい」
軽い口調だけれど、たぶんそれはわざとだ。わざとおどけた調子で重い話にならないようにしているのだろう。でもそれが逆に亘さんの真剣度を示しているような気がした。
分かっていても、やはりショックはショックだ。
「女々しいよな。ずっと引きずってて。あっちはもう新しい男を見つけて幸せになってるっていうのに。家族は真由美は妾にすればいいから早く結婚相手探せなんてふざけたこといいやがるし。それで挙げ句の果てに未成年と婚約しろときた」
ぐ、と拳を握りしめた。
つくづく自分の身勝手さを思い知らされる。亘さんの気持ちなんて、あの当時全く考えていなかった。
「そんな顔するなよ」
亘さんが私の頬をなでる。指先が優しくて、くすぐったくて、ふるりと肩が震えた。
「そりゃ、最初は何いってんだって思ったよ。ひかりのじいさんは俺の会社の取引先の会長で、いい人だとは思ってたけど、あの時は身勝手なじいさんだと思った。でも、このままあいつのことを引きずってても、なんにもならないんだよな、って考えて、受けることにした。俺が、お前を利用したんだよ」
「ちがっ、私がおじいちゃんに頼み込んで、」
「まあ聞けって」
亘さんが自分を攻める必要はないのに、優しくいわれてしまったら黙るしかない。
「あのなひかり、断ろうと思えば簡単に断れたんだよ。取引先ったって別に俺はただの社員だし、そりゃ、優遇はしてもらえるだろうけど、正直コネとかそういうのは家のでコリゴリだし、受ける理由なんてなかった。婚約を決めたのは俺自身の意思だ」
どうして許嫁になったのか、お互い深く聞くことはなかった。
どちらもそれを疑問に思わず四年も過ごせたのは、互いに触れられたくなかったからだった。
「で、いざ会ってみたら、ひかりは思った以上に箱入りのお嬢様で、まあ、言っちまえばガキだった。でも週に何回かのメールと月一の食事くらいで満足してくれるなら楽でいいかと思って、つきあいは続けてた。・・・いつからだろうな。それだけじゃ物足りなくなったのは」
「え?」
「ひかり、好きだよ」
なんだろう、何か、すごいことをいわれたような気がする。
夢でだって見たことのない、何か、私に都合のいい言葉を聞いたような。
瞬きすらできずに呆然とする私に、亘さんがふっと微笑む。
その優しい眼差しにドキリとした。
「俺が今結婚したい相手は、ひかり、お前だよ」
「うそ・・・」
「こんなこと、嘘でいわないから」
亘さんが私の腕を引く。体が揺れたと思ったら、圧迫感と、全身に温もりを感じた。
亘さんの、煙草の匂い。
「お前があんまり俺のことまっすぐに見てくるもんだから、いつの間にか好きになってた。ったく、お前が大学卒業したらちゃんと告白して正式に婚約しようと思ってたのにいきなり連絡は取れないわお前のじいさんから婚約破棄いわれるわで焦ったわ。冗談じゃない。俺がどれだけ待ったと思ってんだ」
背中が痛い。ようやく、亘さんに抱きしめられているんだと理解できた。
我慢していた涙があふれてくる。
「わたるさ、好きです」
「知ってる」
優しく髪をなでられて、私は亘さんの背中に腕を回して思い切り抱きついた。わんわんと子供のように泣きじゃくる。
亘さんは子供をあやすようにぽんぽんと背中を叩いてくれて、決して、私を離そうとはしなかった。




