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婚約の解消はすんなりとできた。
もともと許嫁なんて口約束で、書面を交わしたわけでも特別な何かをしたわけでもない。本当に、形だけのものだった。
だから私はおじいちゃんに、社会人になるんだし信用して、私が連れてきた人を調べ上げてもいいからと頼み込めばそれでよかった。おじいちゃんは私に甘いし弱い。
亘さんは何も悪くないと念を押すように伝えたから、亘さんの立場も問題ないだろう。
あとは亘さんの連絡先は着信拒否にすればもう繋がりは何もない。
本当は私の連絡先を変えたかったけど、就職前で勤務先と連絡が取れなくなってしまうので断念した。でも、ここまですれば亘さんにも私の意志は伝わるだろう。
私の家の場所も知らないのだから、会いに来る方法もなし。おじいちゃんにも口止めは頼んだ。
直接別れを告げるべきだったのは分かっている。でも、本人を前にして冷静でいられる自信はなかったし、亘さんの気持ちを知っていたことは一生内緒にするつもりで、うっかり口走ってしまいそうで怖かった。それに、亘さんは優しいから、なんだかんだ許嫁のままでいいといってくれそうな気がした。彼にそういわれてしまったら、私は拒否できない。
だから、何も言わずに去るしかなかった。子供の最後の我が儘ということにしてもらおう。もう二十二の立派な成人なのだけれど。
最初で最後のデートから三週間。
卒業式を来週に控えた今日、私は久しぶりに大学に来ていた。卒論も無事提出できてもう来る必要はなかったのだけれど、図書館に本を借りたままなのを思い出したのだ。ついでに教授に挨拶をして、最後だからと学食で昼食をとって、あちこちぶらぶらとしていたらつい遅くなってしまった。
大学の門を出て、一つ伸びをする。
大学生活も残り少し。四月からは新社会人だ。いまいちピンと来ないが、目まぐるしい生活が待っているのだろう。
どうせならば、うんと忙しければいい。
亘さんのことを忘れられるくらいに。
これからどうしようか、少し早いけれど夕飯の買い物をして家でくつろいでいようか。
そんなことをのんきに考えていた私の足が、ピタリと止まる。
「うそ・・・」
つい声が漏れてしまったのは仕方がないと思う。
幻覚かと思って目をこすっても、見つけてしまったものは消えてくれない。
私の数メートル先には、スーツ姿の大人の男性が、腕まくりをして時計を見ている。
見間違えるわけがない。亘さんだ。
どうして、ここに?
平日だから亘さんは仕事のはずで。スーツ着てるし。亘さんの仕事内容はよく知らないけど、うちの大学とは関係ないはずで。どうしてここにいるのか分からない。
訳が分からなくて頭がグルグルしているけれど、とにかく、今は亘さんに会いたくない。
もっと、そう、十年くらい経てば若い頃の苦い思い出くらいに昇華できているかもしれないけれど、今会うのはまずい。
もう一度大学に戻ろう。
私は踵を返して亘さんに背を向ける。
「ひかり」
「・・・っ」
恋というのは本当に厄介だ。
何をするべきか、どう行動するべきか分かっているはずなのに、たった一声、名前を呼ばれただけで、私の動きは止まる。
聴覚が鋭くなっているのか、亘さんの革靴がコツコツと音を鳴らして近づいてくるのが分かった。
「出てきたばっかりなのに、どこ行くんだ?」
肩にぽんと手を置かれる。おそるおそる振り返ると、にっこりと笑う亘さんと目があった。
でも、纏う空気が穏やかじゃない。
聞かなくても分かる。
亘さんは怒っている。
「とりあえず、話があるから移動しようか」
「え、あ、でも、」
頭が真っ白になってしまって、言葉どころか声も満足に出てこない。体もガチガチに固まってしまっている。そんな私の手首を掴む亘さん。
「いいよな?」
満面の、不穏な笑みを浮かべる亘さんに逆らう術はない。手首もギシギシと痛む。そのまま、亘さんが歩き出す。歩幅が大きくて、私は小走りになるしかない。今まで私に合わせて歩いてくれていたんだなんて、こんな時に気付く私は、やっぱり子供なんだろう。
亘さんは私の方をちっとも見てくれない。歩きながら携帯電話を操作して、耳に当て始めた。
「あ、もしもし? 午前の打ち合わせは終わったから、悪いけど午後は早退させてくれ。ん、ああ、それは明日早出でなんとかする。それと、」
亘さんの話が専門的なものになってきて、私には分からない言葉が並んでいく。この隙に逃げられたらいいのだけれど、相変わらず手首が拘束されていて痛いので、私はただついて行く。近くのパーキングに停めていた車に乗り、車は静かに動き出す。もう亘さんの電話は終わっていたけれど、亘さんは無言で、私も何かを話す気分にはなれなくて、二人の間には怖いくらいの静寂が流れていた。こんなにも気まずい時間は初めてだ。ラジオの軽快な音声が逆に虚しく響いている。
どうして亘さんがここにいるんだろう。
亘さんにとって私との婚約破棄はプラスでもマイナスでもないわけで、どちらかというとお子さまから解放されてせいせいしているだろうに。
さすがに不義理がすぎたのだろうか。せめて最後にメールの一つでも送ってから着信拒否にすべきだった。
今更後悔しても遅い。
ラジオの音は全く耳に入ってこない。
うつむくと、太股の上で小さく震える自分の手が目に映る。亘さんに握られていた手首がわずかに赤くなっていた。
なんだか泣きそうになって、私は目をつぶる。
車はまだ止まりそうになかった。