結晶の囚人~殭屍~
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真っ暗、暗い空間。何も見えない。どこを見回しても一面闇だ。此処は何処だ、何処だったか――元姫は一人あてもなく歩く。何か、忘れている気がする。何か、大切な、何かを。忘れてはいけない何かだった。胸にぽっかりと空いた穴は寂しさを醸し出している。元姫は足を止めて胸に触れる。
「……何だったのかしら」
「元姫」
聞き慣れた声。振り返れば正室の顔。夫だ。しかし顔は見えない。何やら黒い靄がかかり瞳に映す事は出来なかった。
「子上、何故……」
元姫は夫の字を呼ぶ。司馬昭、元姫が十一か十二辺りの頃、婿入りした夫だ。長年の付き合いで信頼を置いている彼。何故こんなところに。
「何故って、何故だろう。元姫が心配だったからだな」
顔は見えない。だが照れ臭そうに、柔和に優しく笑っている事くらいはわかる。元姫は小さく笑みを漏らし「馬鹿ね」と告げた。
だが司馬昭が此処に居る事はおかしい。彼は魏に居るはずで、そもそも今元姫は司馬家から追われている。核の力がバレてしまったからだ。
「子上、私……――」
「やる事があるはずだろ、元姫。お前の仲間は戦っている。お前のために戦っている」
「……戦っている?」
「お前の役目はこんな所に閉じ込められる事じゃない。お前は、何のために蜀漢に居るんだ? 姜維のためか? それとも自分のためか?」
蜀漢、姜維。頭に痛みが走り、元姫は左のこめかみ付近を押さえた。痛い、痛い――目を閉じて頭の痛みに耐えた。瞼の裏に見えた光景。誰かに抱き締められて、誰かが鮮血を散らしながら戦っている。
「核を倒すんだろ、お前はそれを姜維達に求めた。血を流しながら戦う事を強要した。なら、こんなところで、休んでいていいはずがないだろ!」
響く痛み、司馬昭の声は脳を満たす。忘れている、そう、忘れている。思い出せ、そう、だって、私は――。
元姫は強く瞳を閉じ、軽く呼吸を乱す。脳内に流れ込む情報、何億年という情報は脳を破壊しそうになる。それでも思い出さなくてはならない。凄惨な記憶も、逃げ出したい思いも全て。戒めの鎖から、逃げ出さなくては。
脳内で何かが割れる、破壊される。
ああ、そうだ、私は。
私は王元姫――神の代行者。神に代わり天罰を下す者。そしてこの世界を守る神器。
「――ッ、子上、ごめん。私行かなきゃ」
痛みは消えた。戒めも消え去る。元姫の瞳には迷いなどもうなかった。あるのは覚悟だけ。必ずやり遂げるという覚悟だ。
「ああ、わかってる。俺はお前を押すために来たんだからな」
元姫は司馬昭に抱き締められ、その広い背に手を回す。
「魏で待ってるから。だから役目をこなして来い」
「ええ、私の役目……しっかりと果たすわ」
司馬昭から離れ、元姫は目を閉じる。あの惨劇の場所へ戻るために。
――だが、お前が戻る事で、絶望が広がる事もあるんだぜ。
そんな声が聞こえた気がした。
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静寂に包まれる空間。黒曜石の瞳を開いた元姫が最初に見たものは氷の天井だった。何が起こったのか――ああ、そうだ、哀姫を転送して、そのままいきなり意識が途切れたのだ。あれはジエジンに意識を異空間へ飛ばされた。帰って来られたのは司馬昭のお陰かと身体を起こした。
だが、その惨劇に、絶望の瞳を開く。
血塗れを作り地に倒れ伏した劉備、そして――。
「さらばだ、姜維」
胸をジエジンの腕によって貫かれている姜維だった。彼の口からは多量の血液が滴り流れ、彼もまた、氷の地面に沈む。元姫はその光景から目を離せなかった。
「……よう、元姫。今頃ご帰還か。貴様の刃は折れた。残ったのは貴様だけだ。姜維は死に、劉備は肺を潰した。直に劉備も死ぬだろう」
ジエジンは手にこびりついた姜維の血液を青白い舌で舐め、元姫へ近付いてくる。だが元姫の瞳から覚悟は消えなかった。
悲観してはいけない。まだ、方法がある。彼らを失わせたりしない。元姫は胸の前で拱手の姿勢を取る。拱手とは手が反対だが。そして両腕を左右に伸ばした。
「今更、足掻きは無駄だ。貴様も二人と同じ場所へ行くんだからな」
「そうね、私が人間だったらそうだったでしょうね。でもね、私は神器。今だけは神器である事に感謝するわ。――私は司馬家の女。司馬昭の妻。そして、魏の人間で、姜維殿の護衛で、蜀の客人――……あなたに負ける要素など、何一つないのよ」
そう、決まっている。勝利は決まっているのだ。負ける事などない。
「やせ我慢か。それもいつまで続くやら」
「あなたこそ、忘れないで欲しいわね。――私には仲間が居る事を」
「シージエは壊された。此処に介入出来るほどの力などないだろう。新たな道を作るのにも時間がかかるはずだ」
「ええ、そうでしょう。だけど、道なら――の話。此処はシージエじゃない、道を作る事に時間がかかるのなら、道なんて作らなければいい」
「何?」
瞬間、青白い炎の柱が右から壁を撃ち抜き、ジエジンを燃やし尽くす。元姫は手を下ろし立ち上がると、靴の音を鳴らし、告げた。
「壁をぶち破ればいい、それだけの話よ」
「こ、の、ッ脳筋が……ッ」
シージエの時は壁をぶち破るなんて出来なかった。理由はバレてしまうから。画策し、介入すればすぐに気付きシージエを何重にも守られる可能性があったからだ。もし、そうなってしまえば、姜維達は死んでしまっていただろうし元姫もこの場所で潰えていた。
だが今は違う。
この場所はジエジンが作り出した異空間。いわば別世界。シージエよりも簡単に作る事が出来る彼の世界だ。壊すのは容易く、また介入するのも容易い。ジエジンは彼らを殺すために防御を捨てたのだろう。それが元姫に、外部の仲間に決定的な隙を与えた。
劉備が此処に居て、哀姫だけが帰って来ている。法正が、月英が、趙雲が、何も考えつかない訳がない。外部から何かをしようと画策しているだろう。そう予想し元姫は即座に法正と意識を繋いだ。そのお陰で法正達が力を発揮し、ジエジンに一撃を与える事が出来た訳である。
「脳筋で結構。私は色々考える事も出来るけれど、真っ向からぶちのめすのが好きなのよ」
「は、ッでも、それだけだ。貴様、一人じゃ我を倒す事など出来るものか」
身体を焦がしながらジエジンは立ち上がる。次々と襲い来る炎の柱をジエジンは回避する。外部からじゃ的確に当てられない、法正もそれは理解しているだろう。
「ええ、そうね。私じゃあなたには勝てない」
元姫は再び、胸の前で左拳を右手で包み込む。己の命を削ってでも、彼らを生かし、ジエジンを倒すと誓おう。この命を持って。
「――だけど、彼らならどうかしら」
「は、死体同然に何が出来る」
嘲り、罵るジエジン。本当に、甘い。砂糖菓子のように甘い。元姫は同じように嘲り返した。その笑みに気付いたらしい。ジエジンは振り返る。そこにあったはずの死体と、死体になる予定だったはずの身体はなかった。
「殭屍も、貴様の隙を突くくらいは出来るぞ、ジエジンッ!」
濃霧立ちこめる左右死角からの襲撃。姜維の槍が、劉備の剣が斜めにジエジンの首を後ろから斬り裂き、彼の首は宙を舞う。ジエジンの胴体は地面へゆっくりと倒れ伏す。二人は元姫の前に立ち、振り返った。
「二人とも遅れてごめんなさい。だけど、此処からは任せて」
必ず討ち取ってみせよう。これがジエジンとの最後の戦いだ。
元姫は手に力を込め、こちらから仕掛ける。炎柱が泳ぎ周囲の氷を溶かす空間で己の命を力に回し、炎を纏う刃を作り出し胴体と首に別れたジエジンを狙っていく。




