13 狂喜
その時起きた事実をただ客観的に表すならば、「倒れていく少年が、急に復調した」というのが正確だろう。渾身の一撃を吐血と共に空振りし、全身から精根が抜け落ちた屍の様に崩れていく少年。それが、倒れこむ寸前で息を吹き返し、両足を大きく広げて地面に横たわる事を拒絶したのだ。
暗殺者達は動揺した。
彼らは、並の人間とは比べ物にならない程に「死」を知る存在である。生死の境を見極める力には確かな自信があった。そんな彼らが確信したのだ――この少年は死ぬ、と。毒か、持病か、古傷か、衰弱か。理由は定かでなくとも、生の領域から死の領域へと落ちた事は確かだった。
ならば、目の前の少年は何か。培われてきた自信と経験が眼前の光景を否定する材料を血眼で探し、幾つもの死線を乗り越えて来た本能が頻りに警鐘を鳴らしている。
一方、エリスも困惑の中にいた。
自分は死ぬ――筈だった。少なくとも、こうして足を広げ、床を踏み締める事など不可能だった。それが、今はどうか。手も腕も、肩も胴も、無論足も。どれも十全に動く、動かせる。末端から中枢に至るまで、全ての感覚が健常その物である。
例えるなら、抜け落ちたばかりの歯の喪失感に馴染めず、舌を伸ばして確認しようとしてみれば、そこには別の歯が気付かぬ内に生えていたような。ある筈の無いものがあるが故の奇妙な感覚。それが全身に広がったような心地だった。
しかし、そう言った困惑を他所に、エリスの肉体は歓喜に震えていた。この魔術学会が始まって以来――否、自動反応の制御方法を知って以来、長らく忘れていた感覚。痛み、傷付き、削れ、摩耗する毎日。それらが遠い過去に感じる羽毛が如き五体の軽さに、驚きと喜びが入り混じる。そして、それ以上の狂喜が全てを塗り潰す。
自身の肉体が逸っているのが分かる。
何故かは知らないが、死の運命が消え去った。理由は分からない。原因は知らない。でも、それで良かった。これで戦える。まだ、戦える。死ぬまで、死に絶えるまで、戦い続けられる。戦って、戦って、敵を殺して、悪を殺して、誰かを殺して、「エリス」であり続けられる。
悪に属する身の上でありながら、しかして常人の枠組みに居る暗殺者達。
善に属する身の上でありながら、しかして狂人の領域に居るエリス。
どちらが先に立ち直るかなど、火を見るよりも明らかだった。
「――っ!」
全身を弾ませる様に飛び込んだエリスの振り下ろしの一撃を、半ば反射行動で暗殺者は受ける。手に伝わる衝撃が、金属同士の衝突音が、暗殺者達の意識をこの場に呼び戻した。だが、遅過ぎた。エリスは――エリスの肉体はぶつけた愛剣の衝撃を後方へと流し、加えて手足を大きく振る事で勢いを生じさせる。
擦れ合う金属。刃が毀れた先から、愛剣はエリスの魔力を吸って修復されていく。ぎりぎりと音を立てて、暗殺者とエリスの剣は中程から剣先に至るまでを滑り合い、互いの刃先は地面へと弾かれた。違うのは、剣の持ち主の体勢だ。暗殺者は咄嗟に翳した剣が流され、剣の持ち手を起点に体が崩されている。対してエリスは、流した力を反力として空中での回転に成功していた。前方へと飛び込む様に暗殺者の肩を超え、背後へと落ちていく。緩慢な重力に従い、エリスの肉体が床へと近付き――それを待たず、エリスは暗殺者のうなじへと愛剣を突き刺した。
縦に捻った身体は、確かに自由を大きく失っている。だが、横の回転は残っているのだ。肩を後ろへと引けば、もう片方の肩は前に出る。
肉体は繋がっている。骨も、関節も、筋肉も、神経も。すべてが連動し、協力し、肉体は動く。ならば、自由は無くとも、不自由も無い。肉体が不自由となる瞬間とは、指の一本すら動かなくなる死の直前のみだ――そんな考えが、特に違和感も無く当たり前とばかりに、そしてやけに実感の籠った形でエリスの脳裏に浮かぶ。
エリスの放った刺突は、呆気なく暗殺者の頸椎を断った。剣越しに伝わる死の感触。自動反応が肉体を動かしているとは言え、それを決定し、制御しているのはエリスだ。故に、少年の胸には罪悪感と嫌悪感が渦巻いて――いない。あったのは敵を葬った細やかな達成感と、残るもう一人の暗殺者に対する警戒心であった。
かつてあった筈の葛藤が消えている事に、エリスは気付かない。
フレドリックがエリスの居る二階に辿り着いたのは、エリスが窓から突入してから五分後の事であった。
決して遅くは無い。寧ろ、一階に居た使用人を含む十人弱の人間の安全を確保し、その最中にて三人の敵を無力化した事を考えれば破格の時間と言えよう。だが、五分は決して短くない時間である。一つの戦闘が優に終わる時間だ。同胞の死への不安が、背中に一筋の冷たい汗を流す。
「臆してる場合じゃない、か」
恐れを振り払って、フレドリックは一歩踏み出した。警戒は厳に、然れど歩みは止めず。 廊下を進みながら気配を探る。――気配は二つ、右へと折れる曲がり角で固まっていた。エリス一人なら、気配は一つの筈だ。嫌な予感が更に強まる。フレドリックは忍び歩きで気配に近付く。じりじりと距離を詰め、右への曲がり角の手前に辿り着いた。
気配は動かない。
油断しているのか、こちらに気付いているのか。警戒か、罠か。一秒にも満たない時間で、フレドリックは先手を取る事に決めた。時間は敵の味方だ。何があるか分からないからこそ、何かを用意する時間を与えるべきではないと決断を下す。
忍び歩きは床を蹴り上げる力強い歩法に変化する。一息に曲がり角に到達すると、敵を目視する前にフレドリックは左へと跳んだ。曲がり角から遠ざかる形での跳躍。待ち伏せ等の敵の奇襲を外し、逆にこちらがそれに合わせる奇襲に対する奇襲。先手を取りつつ、相手の奇策を無効化する一手。左足に全体重が掛かり、それが強い反発力の源となる。さぁ、飛び込むぞと爪先が床を掴んで――
「エリス?」
危うく斬りかかりかけた、仲間の姿を視界に捉えた。