8.私が選んだ場所
翌朝、目が覚めた私は、自分の部屋をぐるりと見渡した。
ここは、私の部屋。
ベッドは柔らかく、机上には私の魔紋証。クローゼットには制服と『支給品』。
「ブリューム局長の優しさに頼る生活は、不安ではありませんか?」
ヴァルドの声が頭の中で響いて離れない。
確かに、アネルは親切だ。戦略局も居心地はいいし、楽しい。
でも、本当にここにいるのは……私の意志なのか?
砦から連れ出されて、部屋と仕事を与えられ、言われたまま暮らしているなら——労働奴隷と何が違うのだろう。
そう考えた瞬間、胸が痛んだ。アネルがあの男たちと違うことは、分かっている。
それでも、私自身が選んだのかと問われれば、すぐには答えられなかった。
戦略局のざわめきも、今日はどこか遠くに聞こえる。
局長室へ行くと、アネルが書類を用意している。
「ティルア。ちょうど話がある。君の——仮採用期間が終わる」
私の身体が強張る。やっぱり、私は、中央にいては——。
そう思った私の前に、『雇用契約書』が差し出される。
正式な魔導解析官として雇用されるというのだ。
給金も、住居もある。
休暇だってある。
危険な任務を拒否する権利、能力の開示を強制されない。
——そして。
契約解除を本人の意思で申し出られる。
「……アネル、書類には辞めてもよい、と書いてあります」
アネルは静かに言う。
「雇用契約だからな」
「逃げた場合の罰は?」
「逃げる必要はない。辞職届を出せばいい」
「辞職……」
「働く場所を変えたくなったら、変えていい」
いや、辞めるなんてとんでもない。そして、奴隷の時とは違う。
こんなこと、私は考えたこともなかった。
目の前の紙は——全く違う世界を連れてきた。
「私が、この契約を断ったら、どうなりますか?」
アネルの目が一瞬丸くなった。だが、その声に迷いはなかった。
「断るのも、君の自由だ。ティルア」
彼は続ける。
「住居は、次の場所が見つかるまで使用していい。これまでの給金も支払う。望むなら別の職場も紹介する」
「私が、時詠みだと分かっていても?」
「それは君の力だ。私が所有するものではない」
私は、アネルの顔をじっと見る。
「では、……あの時、砦でなぜ、私を助けたのですか?」
アネルはふっと微笑む。
「助けを求める権利さえ奪われていた者を、見捨てる理由がなかった。君が生きることに、私の許可は必要ない。だが、生きる道を塞ぐ者がいるなら、私はそれを断つ」
私の胸の奥で何かが鳴った気がした。
「今日は休暇だ。街を見てくるといい」
「はぁ……」
「ここにいるか、辞めるか。答えは急がなくていい」
その声を背に、私は街へ降りた。
浮行板は相変わらず空を飛んでいる。
そして、改めて店を見て回ることにした。
屋台でパンを買う。袋から熱が伝わり、口にするとふわりとして美味しい。
魔導具店には、通信水晶や清掃魔導具、調理魔導具までなんでも揃っている。
そして、街を走り回る子どもたち。
人々のざわめき。
空を見上げると、高く、魔導都の外までどこまでも青く広がっていた。
そして、どこからかルメルのような懐かしい香りにつられ、菓子店に向かった。
そのルメルに似た果物のパイを買うことにした。
「ひとつでいいのかい?」
店主の男性が尋ねると、私は首を振り、答える。
「いえ、ふたつ。ください」
私の分と——アネルの分。
思わず私の頬が緩んだ。
「ソルデヴィア解析官!」
私を呼ぶ声の方を向くと、この前の整備官が手を振っていた。
無事、濡れ衣も晴れ、仕事に戻れているようだ。
「あなたのおかげで、仕事にも戻ることができました!」
頭を下げる彼に、私は微笑む。
——時詠みは、搾取されるためでも、災いを呼ぶ力でもない。この力が、解析官として誰かの役に立った。
彼を見て、私は思う。時詠みは誰かが奪われるはずだった明日を、こうして守ることもできるのだ。
私は、これからも戦略局にいたい。魔導解析官として。
アネルがいるからじゃない。
私は、ここにいたいのだ。
日が傾くころ、戦略局へ戻った。
アネルは私の机に契約書を置いたまま、机上の通信水晶を前に仕事をしていた。
私は、書類を手に取った。
「アネル」
彼が顔を上げる。
「……決まったか?」
私は、強く頷く。
「私は、ここにいたい。ここで、働きたいです」
アネルが問う。
「……私が、いるからではなく?」
私は、微笑む。
「はい。私が、ここにいたいからです。——誰かに置かれた場所ではなく。私が選んだ場所として」
アネルの表情がふっと緩む。
「……ならば、改めて歓迎する。ティルア・ソルデヴィア解析官」
私は頷き、ペンを書類の上へ走らせる。
『ティルア・ソルデヴィア』
誰かに刻まれた名ではない。
私が、私の意志で記す名前だった。
「そして、これをあなたに、アネル」
「……私に?」
「支給品、ではありません」
アネルが、少し困った顔をする。
それを見て、私は菓子店で買った菓子の袋を差し出す。
「私が、自分で選んで買ったものです。アネルの分」
アネルは戸惑ったような手つきで受け取る。
「——では、大切にいただこう」
そこに、からからと笑いながら声がする。
「局長、頬が緩んでますよ」
振り向くと、ドアのところでユスティンさんがにやりとしていた。
「……ユスティン、仕事に戻れ……っ!」
「はぁい」
ひらひらと手を振り、ユスティンさんが立ち去る。
私は、自分の机へ向かった。
与えられたからではない。
逃げられないからでもない。
ここは、私が選んだ場所だった。
なぜか耳まで赤くなったアネルと、このあたたかな戦略局も含めて。




