第一話 名前のない少年
朝露をまとった草原を、一人の少年が駆けていた。
風が金色の麦を揺らす。
遠くで羊飼いの笛が鳴り、小川では子どもたちの笑い声が響いていた。
この世界のどこにでもある、穏やかな朝。
少年――カイは、薪を背負いながら坂道を登る。
「遅いぞ、カイ!」
村の入口で待っていた親方が大声を上げた。
「ごめん! 森で倒木を見つけて、少し切ってたんだ」
「真面目なのはいいが、今日は戴印の日だ。怪我なんかして母さんを泣かせるなよ」
「はい」
親方は笑いながらカイの頭を乱暴に撫でる。
「今日でお前も十五か」
「そうだね」
「いよいよアルカを授かる日だな」
その言葉に、村の空気が少しだけ変わった。
十五歳。
それは子どもが大人になる日ではない。
世界に、自分の役割を告げられる日だった。
生まれたばかりの赤子に役割はない。
しかし十五歳になると、誰もが神殿でアルカを授かる。
農夫になる者。
鍛冶師になる者。
医師になる者。
商人になる者。
そして、ごく稀に――世界を導く者。
誰も、自分にどんなアルカが現れるのかは分からない。
だから今日という日は、誰にとっても人生で一度きりの特別な日だった。
「カイ兄ちゃん!」
小さな声が響く。
振り返ると、七歳くらいの少女が勢いよく飛びついてきた。
「ミーナ」
「お守り!」
少女は首から下げていた木彫りのペンダントを外し、カイの手に押し付けた。
「えっ、これミーナの宝物じゃないか」
「今日は必要だから!」
「でも……」
「いいの! 絶対、返してね!」
カイは苦笑しながら受け取った。
粗削りな木片だった。
形は歪で、不格好で。
それでも、世界に一つしかない贈り物だった。
「ありがとう」
少女は満足そうに笑う。
「カイ兄ちゃん、勇者になったら私を王都へ連れてってね!」
「勇者かぁ」
カイは空を見上げた。
勇者。
世界に七人しかいない主人公の一人。
子どもの頃から絵本で読んできた憧れだった。
けれど。
「僕は勇者じゃなくてもいいかな」
「えー?」
「毎日ご飯が食べられて、みんなが笑っていて」
風が麦畑を揺らす。
「そんな毎日が続けば、それで十分だから」
ミーナは口を尖らせた。
「夢がない!」
「そうかな」
「勇者になったらかっこいいじゃん!」
「じゃあミーナが勇者になればいい」
「女の子だもん!」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑い声を聞きながら、一人の老人が静かに目を細めていた。
村はずれ。
古い大樹の下。
灰色の外套をまとった老人は、本を閉じる。
「……今年か」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
老人はカイを見つめる。
その瞳には、どこか懐かしさと悲しみが宿っていた。
「ようやく、始まる」
そう呟くと、老人の姿は風景に溶けるように消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
◇
昼を過ぎる頃。
村中の人々が神殿へ集まっていた。
祭壇には白い布が敷かれ、中央には一冊の古い本が置かれている。
誰も、その本の名前を知らない。
何百年も前から存在し、戴印の儀でしか開かれない。
それだけが伝えられていた。
神官が静かに口を開く。
「名を」
「カイ」
「前へ」
カイは一歩踏み出す。
心臓が大きく鳴った。
周囲の視線が集まる。
母は祈るように両手を組み、親方は腕を組んだまま頷いていた。
神官が本へ手を置く。
ページが、ひとりでにめくれ始める。
風は吹いていない。
それでも紙は音を立て、まるで誰かが読んでいるように動き続ける。
パラ……
パラ……
そして、一枚のページで止まった。
神殿の空気が変わる。
神官の表情から血の気が引いた。
「……そんな」
カイは首を傾げる。
「どうしました?」
返事はない。
神官は震える指で、本を見つめていた。
そこには、これまで誰も見たことのない文字が記されていた。
それは七人の主人公にも、王にも、賢者にも刻まれていない、未知のアルカ。
次の瞬間。
神殿の窓ガラスが、音もなく砕け散った。
村中の鐘が、一斉に鳴り響く。
ゴォォォン――
ゴォォォン――
ゴォォォン――
誰も鐘を撞いていない。
それなのに、警鐘だけが世界へ響き渡る。
神官は青ざめたまま、掠れた声で呟いた。
「ありえない……」
「八人目……いや……」
その視線は、カイではなく、本へ向けられていた。
「――アルカが、書き換わっている」
その瞬間。
空の青に、一本の黒い亀裂が走った。
作品を作るのは初めてで素人ですので、温かい目で読んで頂けると嬉しいです。
そして
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