第3話 強さのかたち、その先へ 〜 Beyond the Shape of Strength
魔王城、最上階。
重厚な扉の前に、パニラは立っていた。
静かな夜だった。
風の音すら遠い。
ほんのわずかに、息を整える。
――逃げる気はない。
そう決めて、扉を押し開けた。
室内は暗い。
窓から差し込む月光だけが、玉座の奥を照らしている。
その中央、魔王は、そこにいた。
「……パパ、少しお話いい?」
いつもと変わらない娘の声。
「パニラか。どうした」
魔王もまた、いつも通りに答える。
その瞬間――
(……違う)
確信が、胸の奥で形になる。
一歩、踏み出す。
「ねえ、パパ」
笑う。
だが、その目は笑っていない。
「最近、優しいよね」
一拍。
「気持ち悪いくらいに」
次の瞬間、床が弾けた。
パニラの身体が、一直線に加速し、短剣が、喉元を狙う。
「貴様――何者だ!!」
短剣が石床をかすめ、甲高い音が弾けた。
刃は、空を切る。
魔王は、わずかに身体をずらしただけだった。
「……やっぱり」
パニラが、低く呟き、距離を取る。
「今の、避けた」
睨みつける。
「パパなら、受けてた」
魔力が膨れ上がり空気が軋む。
「どうして反撃しないの?」
さらに一歩、踏み込む。
「どうしてワタシを斬らないの?」
沈黙。
魔王は、ただ見ている。
「そんなの――“魔王”じゃない」
叫びと同時に、魔力が炸裂した。
轟音。
壁が砕け、柱が吹き飛ぶ。
「……でも」
パニラの声が低く沈む。
「それ以前にさ」
魔力が、さらに膨れ上がる。
「パパの姿で、そこにいること自体が――」
歯を食いしばる。
「気に入らないんだよ!!」
次の瞬間、空気が爆ぜ、パニラの身体が、再び突っ込む。
今度は直線ではない。
高速で軌道を変えながら、何度も切り込む。
残像が、幾つも走る。
刃が閃くたび、衝撃波が壁を削り、柱を砕く。
「消えろ!!」
斬撃。
魔力の刃が、横薙ぎに走る。
玉座の背後の壁が、丸ごと吹き飛んだ。
だが、魔王は動かない。
ほんのわずかに手を上げる。
それだけで、衝撃が逸れる。
砕けた石片が、まるで意思を持つかのように軌道を変え、外へと流されていく。
「……っ!」
パニラの表情が歪む。
「なんで――避けるだけなの!!」
踏み込む。
今度は拳。
魔力をまとった一撃が、地面を抉る。
その衝撃が床を砕き、城の構造そのものを軋ませる。
「壊れてもいいんだよ!?」
叫ぶ。
「ここは魔王城でしょ!?」
連撃。
爆音。
瓦礫が降り注ぐ。
「パパなら!!」
振り抜く。
「こんなもん、全部ごと叩き潰してた!!」
その拳が――届く。
だが、寸前で止まる。
いや、止められている。
魔王の指先が、軽く触れているだけだった。
「……!」
動かない。
押し切れない。
まるで、空間そのものに固定されたように。
「……落ち着け」
静かな声。
「壊す必要はない」
その一言が、火に油を注いだ。
「……は?」
パニラの目が、完全に怒りに染まる。
「壊す必要がない?」
一歩、踏み込む。
「パパなら――」
震える声。
「そんなこと、言わない!!」
魔力がさらに膨張し、天井が裂け、夜空が露出する。
「全部ぶっ壊してでも、勝つのが魔王でしょ!?」
その叫びとともに、瓦礫が崩れ落ちる中、パニラの身体はそのまま上空へと跳ね上がった。
月を背に、浮かぶ影。
「これで……分かる」
両手を広げる。
魔法陣が展開される。
幾重にも重なる術式。
精密に組み上げられた構造。
圧縮されていく魔力。
――局地破壊用魔法。
「偽物かどうか――確かめてやる!!」
魔力が臨界へと達する。
その瞬間。
パチン。
指を鳴らす、軽い音が響いた。
それだけだった。
次の瞬間、魔法陣が、消えていた。
収束していた魔力ごと、何もかも、跡形もなく。
静寂。
風だけが、吹き抜ける。
「……なんで」
パニラの声が、震える。
あり得ない。
あの魔法は。
あの術式は。
「……なんで、消せるの……」
魔王は、ゆっくりと見上げた。
「当然であろう」
一拍。
「その魔法は――余が教えたものだ」
その言葉に、パニラの瞳が、大きく揺れた。
「……パパ……?」
だが――
すぐに、首を振る。
「……でも」
絞り出すように。
「パパじゃない」
静かに、言い切る。
「やっぱり分かるよ」
一歩、降りる。
「だって――ワタシのパパだもん」
沈黙。
魔王は、ほんのわずかに目を細めた。
「……やっぱり、分かっちゃうよな」
小さく、息を吐く。
そして、手を差し出した。
「おいで」
その声は、どこか柔らかい。
だが次の瞬間、見えない鎖が空間に走り、パニラの四肢を拘束した。
「まずは落ち着いて。話をしよう。全部は話せないけど――」
一拍。
「それでも、“本当のこと”は教えるよ」
夜風が、二人の間をすり抜ける。
崩れた天井の向こうで、月が静かに輝いていた。
パニラは見えない拘束に身を捩ったが、びくともしない。
「……っ!」
魔王――いや、父の姿をした何者かは、ゆっくりと手を下ろした。
「だから、落ち着いて」
静かな声。
先ほどまでの激突が嘘のように、熱のない声音だった。
「……誰」
パニラが睨みつける。
一拍。
ほんの少しだけ困ったように笑って、男は言った。
「ボクはエルン」
その言葉に、空気が変わる。
「キミのパパと戦って――引き分けた男だよ」
軽い口調。
だが、その内容は重い。
「みんなは、ボクのことを“勇者”って呼ぶけど」
一瞬の静寂。
「――勇者……?」
パニラの瞳が、揺れる。
「魔族の……敵……」
ぎり、と歯を食いしばる。
「だったら……!」
魔力を無理やり噴き上げる。
だが、拘束は、揺らぎすらしない。
「だから、落ち着いてって」
指先を、わずかに動かす。
それだけで、拘束がさらに締まる。
「話を聞いてほしいんだ」
その声音に、怒気はない。
ただ――
真っ直ぐだ。
「……何を」
吐き捨てるように言う。
エルンは、少しだけ視線を上げた。
「お互い、トドメの一撃のつもりだったんだ」
一拍。
「全力でぶつけた瞬間――」
自分の胸に手を当てる。
「魂が、入れ替わった」
風が吹き抜ける。
パニラの瞳が、大きく見開かれる。
「……は?」
理解が、追いつかない。
「だからボクは――」
言葉を選ぶように、少し間を置く。
「キミのパパと“話をして”」
一拍。
「一時停戦することにした」
その言葉は、あまりにも軽くて。
あまりにも、ありえない。
「元に戻る方法を探す」
静かに言い切る。
「それが、今のボクたちの結論」
沈黙。
風の音だけが、響く。
「……本当なの?」
パニラの声は、わずかに震えていた。
エルンは、少しだけ笑った。
「嘘は言わないよ」
一拍。
そして――
「隠し事はするけどね」
その軽さ。
その言い方。
その“距離”。
それが――
パニラには、決定的だった。
(……やっぱり)
目を伏せる。
(パパじゃない)
確信が、静かに沈む。
「……じゃあ、パパはどこにいるの」
「……ビルギット」
エルンが、軽く指を鳴らす。
「魔王に連絡を取ることは可能かい?」
わずかな沈黙。
「可能です」
空気の揺らぎとともに、声が応じた。
◇
「――魔王様」
「どうした、ビルギット」
低く、落ち着いた声。
「勇者より、連絡を取りたいとのこと」
一拍。
「……ほう」
わずかに、含みを帯びた声。
「繋げ」
◇
「――魔王」
エルンが口を開く。
「ごめん。パニラにバレた」
一瞬の静寂。
そして――
「クク……」
低く、喉の奥で笑う声。
「やはりな」
一拍。
「余の娘だ。見抜けぬはずもあるまい」
「なに、それ予想してたの?」
エルンが肩をすくめる。
「当然であろう」
声音に、わずかな愉悦。
「その程度の思慮も回らぬようでは、魔王など務まらん」
一拍。
「……そこに、パニラもいるのか」
「うん。ここにいる」
エルンが、軽く視線を送る。
パニラが、息を呑む。
「パニラ」
呼ばれる。
「聞こえるか」
「……パパ」
その一言だけで、空気が変わる。
「其奴から事情は聞いておるな」
「……うん」
短く、頷く。
だがその手は、まだわずかに震えている。
「ならばよい」
一拍。
「しばらくの間――」
静かに、言葉を置く。
「其奴を“魔王”として、支えてやれ」
「……でも」
迷い。
「パパ……」
その声に、ほんのわずかに柔らかさが混じる。
「案ずるな」
短く、しかし強く。
「余も、まもなくそちらへ向かう」
エルンが眉をひそめる。
「何かあったの?」
一拍。
「……色々とな」
わずかに、間を置く。
「今、国から追われている」
その言葉に、場が凍る。
「詳しいことは、会ってから話そう」
「……」
エルンは何も言わない。
「すでに、そちらへ向かっている」
その一言だけで、すべてが変わる。
「……じゃあ」
パニラの声が、少しだけ明るくなる。
「もうすぐ、会えるの?」
「うむ」
一拍。
「だから――」
ほんのわずかに、声が柔らぐ。
「それまで、いい子にしておれ」
パニラは、ぎゅっと拳を握る。
「……うん」
「わかったよ、パパ」
その言葉に、ほんの一瞬だけ沈黙が落ちた。
そして――
「勇者よ」
声が、戻る。
魔王の声へと。
「数日中に、魔国領内へ入る」
一拍。
「無用な衝突を避けるため、迎えを用意せよ」
命令。
だが、どこか“預ける”響きもある。
エルンは、軽く笑った。
「了解、魔王」
一拍。
「ちゃんと迎えに行くよ」
◇
通信が、途切れる。
静寂。
パニラは、ゆっくりと顔を上げた。
目の前にいるのは――
父の姿をした、別の誰か。
「……ねえ」
一歩、踏み出す。
「ほんとに……パパと戦ったの?」
エルンは、少しだけ困ったように笑った。
「うん」
一拍。
「死ぬ気でね」
その答えに。
パニラは、何も言わなかった。
ただ――
「……じゃあ」
ぽつりと。
「それまで、見張っててあげる」
一拍。
「変なことしたら、今度こそ本気で殺すから」
エルンは、肩をすくめた。
「手厳しいなあ」
だがその目は――
少しだけ、嬉しそうだった。
◇
目を閉じ、念話を終えたエルンが、ゆっくりと瞳を開く。
パチン――
焚き火の中で、小さく火が弾けた。
「……エルンさんと、お話されていたのですか?」
傍らに寄るコルネリア。
夜の中、そこにいるのは二人だけだ。
「ああ」
短く答える。
「向こうも、なかなかに大変そうだ」
一拍。
「娘に正体がバレたらしい」
コルネリアが、わずかに目を見開く。
「……それは、大変そうです」
「うむ」
小さく息を吐く。
「だが――余の娘は優秀だからな」
焚き火を見つめたまま、続ける。
「奴のこと、しっかりと支えてくれるだろう」
一拍。
コルネリアが、少しだけ口元を緩めた。
「……親バカ、ですか?」
沈黙。
そして。
「クク……」
低く笑う。
「そうかもしれん」
火の粉が、ひとつ弾けて夜へと昇る。
「ですが……」
コルネリアが、少しだけ真面目な声に戻る。
「やはり入れ替わりには、無理があるのではありませんか?」
「なに」
エルンは肩をすくめる。
「気づくとすれば――」
一拍。
「よほど親しい者か、身内か」
焚き火の向こうを見る。
「あるいは、外見ではなく“内側”を見る者だけだ。
ヌシのようにな」
静かな声。
「そうそう露見するものではない」
コルネリアは、少しだけ考える。
「……ですが」
一拍。
「時折、口調が混ざっています」
エルンを見る。
「どちらかと言えば――魔王寄りに」
沈黙。
そして。
「……うむ」
わずかに目を細める。
「気をつけよう」
それだけ言った。
焚き火の粉が、夜空へと昇っていく。
まるで――満天の星に、仲間を求めるかのように。
「しかし……」
ぽつりと、呟く。
「あの娘が、ロヴィーサの弟子だったとはな」
一拍。
「世間は、狭いものだ」
コルネリアが首を傾げる。
「ご存知なのですか?」
「ああ」
即答。
「魔国でも、指折りの賢人だ」
一拍。
「奴ならば――この状況、何か掴めるやもしれんと思ってな」
焚き火に、小枝を放る。
ぱち、と火が広がる。
「いずれ訪ねるつもりでいたが……」
わずかに口元を歪める。
「ちょうどよい機会だ」
「――魔王様」
不意に、空気が揺れる。
ビルギットの声。
「何だ、ビルギット」
「ロヴィーサは現在、シルフィドゥーエの招集を受け――」
一拍。
「国境の砦におります」
わずかな静寂。
そして。
「……ほう」
エルンの目が、わずかに鋭くなる。
「シルフィドゥーエの……かつての副官であったな」
一拍。
ゆっくりと、立ち上がる。
「ちょうどいい」
焚き火の光が、揺れる。
「行き先が、決まったな」
◇
馬車の幌の中から、規則正しい寝息が聞こえる。
揺れに慣れた身体が、いつの間にか眠りへと落ちていったのだろう。
ネオの低いいびき。
ゼルマの寝返りの音。
だが――
その中でただ一人、アリアナだけが、目を閉じたまま、意識を保っていた。
静かに、息を殺し、耳を澄ませる。
馬車の軋み。
車輪が土を踏む音。
遠くで鳴く夜鳥の声。
そして――
外の方から、かすかに聞こえる会話。
低く抑えた、二人分の声。
薄く、目を開ける。
幌の隙間から差し込む、焚き火の残り火のような光。
その向こうで――
“何か”が動いている気配がする。
勇者。
そう呼ばれていたはずの男に感じる、言葉にできない違和感。
強さではない。
振る舞いでもない。
もっと――
(中身、っていうか……)
ぎゅっと、指先を握る。
寝たふりのまま、さらに意識を集中させる。
外の声を、拾うために。
(……ちょっとだけ)
一拍。
(聞かせてもらうよ)
◇
天井に穿たれた大穴。
そこから差し込む光が、崩れた謁見の間を白く照らしていた。
その光の中を、二つの影が進む。
一人は、白銀のレイピアを携えた女。
風を纏うような軽やかな足取り。
――風の聖剣ヴィラン・ブレスの担い手。
天空を駆ける騎士、“ワルキューレ”の一人。
レピア。
もう一人は、無言で歩く男。
背に二振りの氷青の剣。
――氷の聖剣コール・ディーザの担い手。
国にも属さぬ孤高の剣士。
ザード。
二人とも、この国の貴族の末席に名を連ねる者たち。
玉座の前で、足を止める。
「炎の勇者はどうした」
王の声が、低く響く。
大臣が軽く肩をすくめた。
「それが――所在がつかめず」
王の眉が、わずかに動く。
「……まあよい」
一拍。
「貴公らに勅命を下す」
空気が、張り詰める。
「光の聖剣を持つ者が逃亡している」
ゆっくりと、言葉を刻む。
「どこぞの田舎騎士風情が――な」
レピアの目が、わずかに細くなる。
「それを討ち取り、聖剣を取り戻せ」
一拍。
「見事果たした暁には――」
王の口元が歪む。
「子爵位を与えよう」
静寂。
ザードが、わずかに鼻で笑った。
「……仰せのままに」
レピアも軽く頭を下げる。
だが、その目は笑っていない。
「行け」
短い命令。
二人は踵を返した。
◇
城門を出たところで。
「ねえ」
レピアが口を開く。
「“光の聖剣を奪った田舎騎士”ってさ」
一拍。
「エルンさんのことよね?」
ザードは振り返らない。
「ああ」
短く答える。
「聖剣持ちの中で唯一、貴族の血を引かない男だ」
一拍。
「それが魔王を倒したのが――気に食わないんだろうな」
レピアがくすりと笑う。
「表向きは騎士団長の手柄になってるけど」
空を見上げる。
「噂に壁は立てられない、ってことね」
ザードは、わずかに肩をすくめた。
「で、どうする」
一拍。
「行くのか?」
「勅命だからね」
レピアはあっさりと言う。
「貴族の性ってやつよ」
一拍。
「とりあえず追うだけ追って――会えたら話すつもり」
ザードが、わずかに口元を歪める。
「甘いな」
「そう?」
「……まあいい」
踵を返す。
「一緒に行かないの?」
「ごめんだね」
一拍。
「野営であんたの“飼い猫”に寝ぼけて噛まれる趣味はない」
レピアが肩をすくめる。
「失礼ね」
その背後。
「ご主人様~、終わったのかにゃ?」
軽い声。
振り返ると――
幼く見える猫獣人の少女が二人。
レピアの従者だ。
「仕事よ」
軽く手を振る。
「準備ができたら出るわよ」
「了解にゃ!」
元気よく応じる二人。
ザードはそれを一瞥し、
「……やっぱりな」
小さく呟いて、去っていった。
◇
二人の背を見送りながら。
王は、ゆっくりと口を開いた。
「……炎の所在を探れ」
大臣が頭を垂れる。
「はっ」
「早急にだ」
一拍。
「嫌な予感がする」
その言葉に、空気が冷える。
王は、ゆっくりと天井の穴を見上げた。
「勇者が二人もいれば、あの田舎騎士は終わりであろう」
一拍。
「だが――問題は“炎”だ」
声が、わずかに低くなる。
「奴の炎は……浄化の炎。神の火だ」
指先が、玉座の肘掛けを叩く。
「奴には忖度など関係ない、ただ善悪のみで動く」
一拍。
「価値も、事情も、関係ない」
ゆっくりと、吐き出す。
「――厄介な男だ」
沈黙。
「……あの切っ先が、こちらに向いた時」
一拍。
「城など、ひとたまりもあるまい」
大臣は、何も言わなかった。
ただ――
わずかに、顔を強張らせた。
◇
真紅の大剣を背に、男は空を行く。
その足場は、巨大な翼を持つ炎竜。鱗の隙間からはかすかに赤熱した光が漏れ、空気を焼くような熱を纏っていた。
風を裂き、雲を突き抜ける。
その背に立つ男――
炎の聖剣アルク・アンシェルの所持者、聖騎士マルコ。
「いいの? 勇者が勝手に国を離れて」
背後から、呆れたような声が飛ぶ。竜の背にしがみつくように座る女性が、マルコを睨んでいた。
「いいんだよ」
マルコは振り返りもせず、軽く肩をすくめる。
「戦争は終わったんだ。オレたちの役目も、ここまでだろ」
その声音には、どこか解放されたような軽さがあった。
だが同時に――何かを求めるような、乾いた響きも混じっている。
「だったらさ」
マルコは、空の彼方へと視線を向けた。
「オレは自由に飛ぶ。好きな場所へ行って、目の前の“悪”を斬る」
口元が、わずかに歪む。
「神の威光のもとに、な」
それは誓いのようでいて、どこか危うい響きを帯びていた。
「……相変わらずね」
女はため息をつく。
「“悪”なんて、そんな簡単に決められるものじゃないでしょ」
「決めるさ」
即答だった。
「オレが見て、そう思ったら、それが悪だ」
迷いはない。
だからこそ――危うい。
「お前もそう思うだろ?」
マルコは足元の炎竜の首を軽く叩く。
「ギャオン」
低く、重い鳴き声が空に響く。
「ほらな」
満足げに笑うマルコに、女は呆れたように肩を落とした。
「もう……ほんと勝手なんだから」
炎竜は大きく翼をはためかせ、さらに高度を上げる。
雲海の上、太陽の光が三つの影を長く引き延ばした。
その先に待つものが何であるか――
彼らはまだ、知らない。
正義と信じた刃が、
誰を斬ることになるのかも。
◇
次第に木々はまばらになり、頭上に差し込む陽の光が増えていく。
鬱蒼とした森の気配は薄れ、やがて――
旧道は途切れるようにして、一本の広い街道へと合流した。
そこは、見渡す限りの平原。
風に揺れる草原の波が、どこまでも続いている。その中央を、まるで世界を二つに割るかのように、一本の街道が果てしなく伸びていた。
馬車はその手前で、ゆっくりと速度を落とす。
「どうする?」
手綱を握るネオが、前方を見据えたまま口を開く。
「魔国へ渡るのなら――どの道、王国側の砦を通らなければならないぜ」
遠く、陽炎の向こうにうっすらと影が見える。
あれが、おそらく国境の砦。
「だからといって、あの城壁を飛び越えるか?」
荷台に腰を下ろしていたエルンが、肩越しに振り返る。
「いっそのこと、城壁ごと壊して突破しましょうよ」
アリアナが、軽く拳を握りしめた。
金属製のガントレットが、カン、と小気味よい音を立てる。
「そんなことだから、お部屋の壁が穴だらけになるんですよ、姫様」
コルネリアの淡々とした指摘。
「だから姫様じゃないって」
即座に返すアリアナ。
「っていうか、ワタシが殴った程度で穴が空く壁のほうが悪いと思うんだよね」
「冗談抜きで、どうする」
エルンの一言で、空気がわずかに引き締まる。
一瞬の沈黙。
風が草原を撫で、馬の鼻息だけが静かに響いた。
「……闇夜に紛れて、強行突破」
ゼルマがぽつりと呟く。
「暗影化の魔法をかけるから。
全員の姿を夜に溶け込ませて――城壁を飛び越えよう」
その声には、先ほどまでの軽さはなかった。
「なるほどね」
ネオは小さく頷く。
「ってことは、この馬車とももうすぐお別れか」
軽く叩くように、御者台の縁に手を置く。
「せめて砦の近くで、見つけてもらえる場所に停めておこう」
「そうですね」
コルネリアも静かに同意する。
「ここまで頑張ってくれた馬もいますし。放置して野に返すわけにもいきません」
「そうだね」
アリアナが、馬の首元をぽんと軽く叩いた。
「ちゃんと保護してもらわないと」
馬はそれに応えるように、小さくいななく。
遠く、砦の影がわずかに揺らめいた。
あの向こうは、もう魔国。
そして同時に――
引き返せない領域でもあった。
◇
北方の山脈から流れ落ちる雪解け水は、やがて無数の支流を集め――
王国と魔国、その境を二分する大河となる。
そして、その流れを跨ぐ一本の大橋。
往来を管理する砦こそが、両国の“境界線”そのものだった。
日が落ちるのを待ち、五人は動き出す。
夜。
風は冷たく、音を運ばない。
「――暗影化」
ゼルマが軽く杖を振る。
その瞬間、五人の輪郭が揺らぎ、闇の中へと溶け込んだ。
「完全に消えたわけじゃないからね」
小さく釘を刺す。
「“見えにくくなる”だけ。光に当たれば、逆に浮き上がるから気をつけて」
頷きだけで応える。
言葉はもう、いらない。
五人は一斉に走り出した。
砦へと続く街道を、音を殺して駆け抜ける。
やがて――
眼前に、城壁が立ちはだかった。
等間隔に並ぶ松明。
揺れる炎が、石壁を赤く照らしている。
だが――
「……少ないな」
エルンが低く呟く。
見張りの兵は、想定よりも明らかに少ない。
「警戒が薄いのか……それとも――」
コルネリアが言いかけた言葉は、最後まで続かなかった。
「まかせて」
アリアナが一歩前に出る。
物見台の死角を見極めると――
腕を振り抜いた。
ヒュッ、と風を裂く音。
放たれた鉤爪付きのロープが、城壁の上へと吸い込まれ――
ガン、と鈍い音を立てて固定された。
「城脱出用に覚えたスキルが、こんな所で役に立つなんてね」
口元をわずかに緩める。
「無駄じゃなかったな」
ネオが小声で笑う。
ロープを伝い、五人は順に城壁を登る。
指先にかかる石の冷たさ。
足場のわずかな崩れ。
だが誰一人、音を立てない。
やがて――
城壁の上へ。
松明の明かりを避けるように、影から影へと移動する。
兵の視線の“隙間”を縫うように。
風が吹く。
炎が揺れる。
その一瞬を逃さず、五つの影が走り抜けた。
「……反対側まで来ましたね」
コルネリアの声。
「あとは降りるだけだ」
ネオが下を覗き込む。
足元の先には、闇に沈む大地。
「よし」
ゼルマが杖を構える。
「重力軽減、かけるよ」
小さく振る。
空気が、わずかに歪んだ。
「今!」
合図と同時に――
五人は城壁から飛び降りた。
音もなく、地に着地する。
その先に広がるのは――
黒く流れる、大河。
月明かりを受けて、鈍く光っている。
「あとは、あの橋を渡れば――魔国だ」
エルンが静かに言う。
「まさか、またこの橋を渡ることになるとはな」
ネオが苦笑する。
「しかも、間一ヶ月でね」
ゼルマが肩をすくめた。
橋には、松明の明かりは届いていない。
闇の中に浮かぶ一本の線。
五人は、言葉を交わさず進む。
足音だけが、わずかに響く。
一歩。
また一歩。
やがて――
対岸へと、渡りきった。
その瞬間。
背後にある王国と、前に広がる魔国。
世界が、はっきりと分かたれる。
そして――
西の空が、わずかに白み始めていた。
◇
早朝。
薄く白み始めた空の下、砦の物見台に緊張が走った。
「報告! 門前に――人影!」
見張りの声が、静寂を切り裂く。
「人間です! 数名――いや、五名確認!」
その一報は、瞬く間に砦全体へと広がった。
城壁の上へと駆け上がるシルフィドゥーエ。
風を切り、外を見下ろす。
――いた。
門の外。
朝靄の中に立つ、五つの影。
その中心に――
「……勇者……!」
思わず、歯を食いしばる。
(停戦だというのに――)
(こんなにも早く約定を違え、攻めてくるというのか)
怒りが胸の奥で燃え上がる。
「戦闘準備!!」
鋭い怒号。
その声に呼応するように、砦が一気に動き出す。
弓兵が配置につき、門兵が槍を構え、伝令が走る。
その中に――
「勇者が攻めてきたとは、本当か」
低い声。
ドグラが現れた。
「はっ! 門の外に勇者の姿を確認しました!」
「それだけか」
「……は、はい」
一拍。
「攻撃は?」
「仕掛けてきてはおりません!」
ドグラは、ふっと鼻を鳴らした。
「ならば――戦闘準備は不要だ」
「しかし――」
「いいから解除しろ」
短く言い切る。
戸惑いながらも、兵たちは動きを緩めていく。
ドグラはそのまま城壁の上へと上がり、シルフィドゥーエの隣に立った。
「焦りすぎだ、シルフィドゥーエ」
「何を言っている」
睨みつける。
「勇者が来たのだぞ」
「遊びに来ただけかもしれんだろう」
肩をすくめる。
「魔王様と勇者は、本気で拳を交えられたのだ。本気でやり合った相手とは、妙な縁ができるというではないか」
「知りませんよ、そんな獣人限定のことわざなんか」
吐き捨てるように言いながらも――
視線は外したまま、門の外を見据える。
やがて。
シルフィドゥーエは一歩前に出て、声を張り上げた。
「勇者!!」
城壁の上からの怒声。
「何の用だ! 要件次第では――ただでは済まさんぞ!!」
一瞬の静寂。
そして――
「里帰りでーす」
あまりにも気の抜けた声が、返ってきた。
空気が、止まる。
「……は?」
思わず漏れる声。
「里帰りです!」
今度は、はっきりと。
ゼルマが、手を振りながら叫んでいた。
「師匠に会いに北の森へ! タルゴゼロプスの草原の町の北に住んでる、ロヴィーサってエルフがワタシの師匠なので!」
一拍。
「……ロヴィーサ……だと?」
シルフィドゥーエの眉がぴくりと動く。
その時だった。
「……どこかから、ワタシのバカ弟子の声が聞こえるんだが」
だるそうな声。
振り返る。
そこに――
いつの間にか、ロヴィーサが立っていた。
ぼさぼさの髪。
片手に酒瓶。
目は半分閉じている。
「……あっ、師匠。久しぶり」
ゼルマが、あっけらかんと手を振る。
「やっぱりバカ弟子だったか」
ロヴィーサは頭を掻きながら言う。
「ちょうどいい。二日酔いを治す魔法、くれ」
「また飲みすぎたんですか」
ゼルマが呆れたようにため息をつく。
「お酒はほどほどにしろって、何度も言いましたよね」
軽く杖を振る。
淡い光がロヴィーサを包み――
「……あー、楽になった」
けろりとした顔で、伸びをする。
その光景を。
シルフィドゥーエは、ただ呆然と見ていた。
門の外には勇者。
城壁の内側には賢者。
そしてその二人が――
まるで日常の延長のように会話している。
「……何なの、これ……」
ぽつりと漏れる。
ドグラが、隣で笑った。
「だから言っただろう。
戦争は終わったのだ。何でもかんでも疑ってかかるものではない」
シルフィドゥーエは、深く息を吐く。
そして――
ようやく力を抜いた。
「……まったく」
呆れと、諦めと、わずかな安堵。
そのすべてが混ざったため息だった。
◇
砦の喧騒から離れた場所。
朝の光が、静かに森の縁を照らしていた。
「で?」
ロヴィーサが、だるそうに頭を掻きながら言う。
「なんで勇者様ご一行が、こんな所にいるんだ?」
「里帰りって言ったでしょ」
ゼルマが肩をすくめる。
「違うだろうが」
一拍。
ロヴィーサの目が、わずかに細められる。
「“中身”の話をしてる」
空気が、変わる。
誰も、すぐには口を開かない。
その沈黙を楽しむように、ロヴィーサは笑った。
「隠そうとしても無駄だぞ」
ゆっくりと、エルンを見る。
「魔力の流れがちぐはぐすぎる」
一歩、近づく。
「器と中身が――噛み合っていない」
その時。
「すまぬな、余が呼んだのだ」
背後からの静かな声に振り向く。
そこに立っていたのは――魔王。
その後ろには、パニラの姿。
「魔王様、それにパニラ様も……」
「魔王様……!」
城壁の上にいたシルフィドゥーエが、思わず息を呑む。
魔王は視線を門の外へと向ける。
勇者――エルン。
互いの視線が、交差する。
一瞬の沈黙。
「……来たか」
魔王が、静かに口を開く。
「そっちも、無事みたいだね」
エルンが肩をすくめる。
その軽いやり取りに――
周囲が、ざわめいた。
「な……」
「何だ……あの距離感は……」
敵同士のはずの二人が、まるで旧知の仲のように言葉を交わしている。
理解が、追いつかない。
だが――
ただ一人、パニラだけが、二人を見比べていた。
(……やっぱり)
確信。
(中身が、違う)
魔王が、ゆっくりと口を開く。
「勇者は余の客人なのだ。まさか全員で来るとは思ってもいなかったが……」
一拍。
「それに、知らぬ顔が一人増えているようだ」
アリアナが一歩前に出る。
「魔王陛下には初めてお目にかかります。王国第二王女アリアナと申します――現在は勇者一行の一員として行動しております」
深く一礼。
「以後、お見知りおきを」
「うむ」
短く頷く魔王。
ロヴィーサは、じっと二人を見比べた。
(勇者の器に――魔王の魔力、
魔王の器に――勇者の魂、か)
静寂。
「どうしたの師匠、そんなまじまじと見て」
ゼルマが小さく呟く。
「お前にはあれが分からないのか?」
「……あれって、何のことです?」
ロヴィーサは大きくため息をついた。
「少しは成長したかと思えば……やはりバカ弟子のままか」
一拍。
「ちょうどいい機会だ。修行の続きをさせてやる」
ちらりと視線を向ける。
「人間にはエルフほどの寿命はないからな。少しは生き急げ」
「はいはい……」
不満げに頬を膨らませるゼルマ。
ロヴィーサは視線を戻し、魔王とエルンを見る。
「魔王様、そして勇者殿。
内密なお話がある。少し、よろしいか?」
場所を移す。
城壁の影。
周囲を見渡し、人の気配がないことを確認してから――
ロヴィーサは口を開いた。
「勇者と魔王――」
一瞬、二人を交互に見やる。
そして、にやりと笑った。
「中身、入れ替わってるな?」
静寂。
二人とも、何も言わない。
だが――否定もしなかった。
「やっぱりな」
一歩、前に出る。
「いいぞ、面白くなってきた」
その目は、完全に“研究者”のそれだった。
「その現象――」
ゆっくりと、口角が上がる。
「ワタシが解き明かしてやる」
「本当か」
魔王が、静かに問う。
「当たり前だ」
ロヴィーサは鼻で笑う。
「こんな面白い状態、見逃すわけないだろうが」
一拍。
「――ただし」
わずかに、声のトーンが落ちる。
「元に戻せるかどうかは、別の話だがな」
沈黙。
その言葉だけが、重く残った。
ロヴィーサは踵を返す。
「来い、バカ弟子」
森の方へと歩き出す。
「ワタシの研究対象が増えた」
軽く振り返り――
楽しげに笑った。
そのやり取りの奥で、確実に、何かが動き始めていた。
入れ替わった運命の歯車が、
ゆっくりと、軋みを上げながら――
次の局面へと、回り始める。




