7話 脱走開始
逃げると決めた後のアユミの行動は迅速で冷静だった
透明化を維持したまま、まずは木陰で便を済ませて葉で拭う
続いて商業区域に行き、不用心な店先から小さなボロ布を拝借
そのまま港の隅で布を海水に浸して体を拭き始めた
汗臭さと磯臭さを比べたら、海の臭いのほうがマシだという判断だ
髪も海水に浸けて手でわしゃわしゃとして、布で拭いた
ボロ布を海に投げ捨て、荷積み中の船までやってきた
作業員の動きに合わせて侵入できるだろうが…
2つのルートが考えられる、船倉にいくか甲板にいくか
船倉は、密航する時の代表的な隠れ場所
雨風をしのげるし、食料をくすねることも比較的容易
だが、不意な出来事があった場合に逃げ場がない
アユミはあえて甲板…見張り台や周囲に張り巡らされている
ロープ、縄梯子を中心に立ち回ることにした
普通は寒風吹きすさぶ中全裸で甲板にいるなど自殺行為だが
凍傷にならない体になったのは2日目で確認済みである
***
日の出直前、アユミが縄梯子の具合を確かめていたころ
ベロ博士が船までやってきた
「おい、ここに人間が来なかったか!?」
「人間? さぁ…見てないですなぁ」
「私の被検体が逃げ出したのだ! 見つけたら生け捕りにするのだぞ!」
「わかりました、航行中に見つけたらそのようにしますよ」
それだけ言うと、ベロ博士は去っていった
まさか頭上にいたとは夢にも思うまい
しばらくして、ゼログニがやってきた
「ゼログニ様! お疲れ様です!」
「うむ、頼むぞ」
そう言うとゼログニは船内へ歩いて行った
「よかった…魔王にもバレなくて」
***
「船が出るぞぉー!」
日の出とともにドラが鳴らされ、船は港を離れていった
方向を変えてから帆を張って速度を上げる
航行中に見張り役の船員が縄梯子を登ってきたが、直線的な動きで回避は容易
多少アユミが動いた程度では、ピンと張られたロープはピクともしない
「透明化」は時間経過で切れる様子はなく、使い続けて疲れる事もなかった
目下の問題は、食事をどうするかという事だった
ゼログニの話では、船で大陸まで丸一日…幼児の体で我慢できるか微妙である
***
「よーし、錨を下ろせー!」
日の入とともに帆が上げられ、船は錨で固定された
さすがに暗闇で航行することは無いようである
船員は全員船内へ入っていった
「よし…行こう」
悩んでいたアユミだったが、全員入っていったのを確認してから決めた
今なら魔族達に出くわし、挟まれることもない
船内は二通りに分かれていて、上層ではゼログニと魔族達が集まって食事を取っていた
楽し気にラゴーウンを称える唄を合唱したりもしていた
「透明化」を見破られる事はないだろうが、食物を取って食べる瞬間は分からない
もう一方の船倉に行ってみると…そこにはなんと人間の成人男性がいた
しかも拘束されている様子もなく、蔵にあった食料を貪っている
アユミの他にも脱走者がいたのだ。どこに隠れていたのかは知らないが…
(無事に逃げれると良いね…)
アユミは心の中でそう呟き、パンと干し肉をくすねて甲板へ戻っていった
食べた後は、寝ることなく動向を見届けた
寝てる時にも透明でいられるかはさすがに分からないからだ
今日は昼寝したから何とか耐えられる
そして風下で尿が船にかからないように小便を済ませ
ヒートハンドで水分と匂いを消し飛ばした
***
朝になり、航行が再開されると、後は正午過ぎに到着するまで何事もなかった
魔族はこの航路を確立させているようだから当然か
アユミは荷下ろし作業の隙を見てタラップから下船した
目に映る港は、間違いなくあの島とは別の港であった
「んーっ、はぁ…これで一安心だね」
背伸びをして、あの島から脱出できたと実感する。まだ魔族領内なので油断はしないが
しばらくは不可視の盗人として生活しよう、そう考え一歩を踏み出した時であった
「はなせっ! はなせー!!」
振り返ると、船倉で見た男がゼログニ達に組み伏せられていた
「オラッ! お前は強制送還だ! おとなしくしろ!」
「てっきりアユミかと思ったが…まぁいい、連れていけ!」
そして、男は船内へと連行されていった。とても助けられそうにない
自分は「透明化」が可能なだけの非力な女児にすぎないのだ
後ろ髪を引かれる思いをしつつも、アユミは生きるために港町へ歩き出そうとした
すると
「うん…?」
ゼログニはおもむろにアユミのいる方向を凝視してきた
「…っ、落ち着け…落ち着け…」
アユミが見えているはずは無いのだが、魔王特有の直感というものが
あるのかもしれない…そう考え、アユミは早歩きでその場を後にした
***
「ああっ! 最悪だっ! あいつに逃げられるとは…
金の卵を生むニワトリを逃がした気分だっ! クソッ!」
「なるほど、確かにアユミは卵を大量に残していきましたね」
「やかましい! まだまだ実験したかったというのに…!」
「そんなに気になさるとは…これが禁断の恋ですか?」
「ドール!? お前…どこでそんな言葉を!?」
「若い女子達の流行です。それで、どうなのですか?」
「…はぁー、前にも言ったが…私が真に心を許している奴はドール…お前だけだ」
「光栄です、ベロ博士」
「うっし! あいつはいなくなったが、卵子の数だけ実験ができる!
存分に働いてもらうぞドール!」
「承りました」