中
「ごめんなさい。明日の朝にはまた飛行機で東京に戻らなければならなくて。どうしても来たかったんです」
話を聞けば単純明快、彼女は生まれ故郷の思い出である遊園地を一目見たかったそうである。上京後、戻ってくる気は無いらしい。
「えっと、許して下さる、かな?」
許すも何も不法侵入なのだが。しかし、彼女は料金を払っている。管理人は鬼畜ではない。僕に彼女を通報する勇気はない……。結局自分だけでは判断できず、何となく曖昧に微笑んでみた。許可を得たと思ったのだろうか、花が咲いたような笑顔を浮かべる彼女。あの頃のようだ。それでいて、真っ赤な顔でたどたどしく応答する僕を見つめるかつての静かな笑顔とは、また一味違うものであった。
何も僕らの関係について尋ねてこない。同じ微笑だけがここに存在していた。おそらく彼女は、僕が元クラスメイトだったということにすら気がついていないのだ。
分かっていたことではあった。クラスメイトであったのは一年間だけ、小学生の頃の話だ。覚えているわけが無かった。心の中に、薄く灰色の霧が立ち込めていく。しかしそこで僕はそれを無理矢理振り払った。彼女は事実ここにいる。では、僕はその偶然をありがたく受け入れるべきなのではなかろうか。
彼女の首元で光るネックレスの天秤が揺れ動いているのが分かる。一体何が皿の上に乗っかっているのかはよく分からなかった。簡単な選択であるように見えて、何かが違う気がした。やがてそれは片方に傾いた。
「ちょっと待ってて下さい!」
再び首をかしげる彼女を置いて管理室へ戻る。受付の机から二十枚つづりのアトラクションチケットを手に取り、料金を支払った。
部屋を出ようとして立ち止まる。ひやりとしたドアノブを掴んだ右手を伝って、あの天秤の皿の中の何かが漏れ出したかのようだ。
目線はあの熊の着ぐるみにあった。何となく手に取り、首から下の部分をはき、頭の部分をかぶる。近くにあった鏡には遊園地キャラクターの姿が映った。チケットを握り、再びドアノブを掴んだ。
……所詮彼女にとって僕は知らない人。しかも僕自身はスタッフだ。好意を抱いていたのは昔の話。何を勘違いしていたのだろう。
再び彼女の元へ走る。上を見上げれば、無数の星達が僕を見つめていた。応援してくれているのか、憐れみの目を向けているのかは分からない。顔を前に向けると彼女が目を丸くしているのが見えた。
「えっと、その格好は……?」
「もともとの役目がこれなんです、僕」
たまらず彼女がふきだした。女性に向かって、口を開く。
「スタッフがいてよかったですね。はいこれ」
「え、これって」
もこもこした手で買ってきたチケットを差し出した。
「思い出巡るなら、実際に乗ったほうが良いでしょう?」
しばし彼女の動きが止まる。熊の頭とチケットを見比べて、結局チケットを手に取った。薄いピンクのリップが塗られた唇が動く。
「ありがとう」
顔が発熱していくのが分かる。席が隣同士だったあの日に戻った気がした。初めて感じた頬の熱さを、卒業式の悔しさと共に思い出す。着ぐるみの中の温度が上昇していく。天秤の片方の皿に何かが次々に上乗せされていく――否、と首を振った。今ここにいる僕は、彼女に思いを伝えられなかったことを後悔しているだけなのだ。何を考えている。しかし彼女に魅せられていることも確かである……。
そこで僕は思考を止めた。天秤の想像すら止めた。普段の何となく、で良いのだ。移動しましょうと言いつつ軽い気持ちで質問する。
「東京の生活って、どんな感じなんですか?」
「うーん、普通かな。あたしは今××大学に通っているんだけれど、普通に大変で、普通に楽しいよ」
――その瞬間、僕の身体は雷に打たれたかのように硬直した。
××大学知ってる? と彼女は再度有名な国公立の大学の名を挙げた。僕と同じく軽い調子で、彼女は言ったのだった。そこで多くの人が受験し、多くの人が、例えば高校時代勉強しかしてこなかった僕が、不合格通知をもらったことを知らないというかのように。
ただ微笑んで、無邪気に僕と彼女の圧倒的な差を宣言した。
彼女は有名な外資系の会社の内々定をすでに取っており、将来は世界を相手にするそうだ。彼女は嬉しそうに僕との溝を深くしていく。小学生の頃隣に彼女の机があったという思い出さえ、今の僕を惨めにするだけであった。いつの間にか彼女と僕との「普通」はこんなにも離れていてしまったのだ。彼女はそこにあったはずの天秤を無視し、ただ僕だけを切り刻んでいった。夜風が染みて、痛い。
「これ、乗りたいな」
遠くを行く元少女は、僕の隣でメリーゴーランドを指差した。彼女を木馬へと案内する。電源を入れるとひび割れた音楽が鳴り出し、ゆっくりと回りだした。あふれんばかりの笑顔が浮かぶ。木馬はのんびりと上下に動きながら彼女を運んだ。少しでも長く彼女と一緒にいたいと思った。また逆に、早くこの時間が終わってほしくもあった。着ぐるみの中だというのになぜか体が震えだす。
「楽しかった! 夜の遊園地って、不思議な雰囲気で素敵ね」
そんな感想を漏らした彼女は、次はあれ、今度はあれ、と楽しそうに園内を回っていく。だんだんチケットが減っていく。幸福と寂しさをまぜこぜにした時間が減っていく。
最後の一枚を使う時、果たして僕はどんな気持ちになるのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、コーヒーカップに乗っている彼女を眺めていた。




