下
それは突然のことだった。彼女を観覧車に乗せたところで、急に管理室にある電話のけたたましい呼び出し音が聞こえてきたのだ。
あわてて管理室まで走り鍵を開け、受話器をとるとそこから流れてきたのは苦情の嵐。簡潔に言うなれば近所迷惑だからやめてくれ、だった。ひとまず相手に向かって謝罪の言葉を述べた。
管理室を出て彼女の元へと急ぐ。チケットはまだ、余っていた。
賢い女性が状況を理解するのに時間はかからなかった。
「あ、そうだよね。さすがに騒音被害出るよね。じゃあ帰ろうかな」
納得後の少し寂しそうな表情を見て、後悔の念がうずいた。
ありがとう、と彼女はもう一度僕に言い、そのまま何も言わず歩き出した。すぐに背を向けたあたり、あまり長い時間は無理だと分かっていたのかもしれない。後ろ髪を引かれているそぶりも見せず、坂を下りていった。所詮、僕らは他人同士だったのだ。
見送りは僕と、明かりのともったアトラクション達。そして彼女と同じように輝く無数の星達である。
彼女は彼女の「普通」へと帰って行った。
あれほどにぎやかだった遊園地が、今は空っぽに見える。残ったのはまだ何枚か余っているチケットのつづり。軽く握り締めると音をたててつぶれた。近くのゴミ箱に捨て、熊の頭をはずし、管理室へと歩く。首から下の部分も脱ぎ去り頭と一緒に抱えた。
夜風が冷たい。頬に突き刺さるようだ。僕は空を見上げ手を目一杯伸ばそうとするが、短すぎて輝いている星達には届かなかった。
もしかすると小学生時代の彼女に対する想いもただ彼女という星空に憧れていただけで、恋ではなかったのかもしれなかった。脳内の天秤は、彼女がいたときとは逆の方向に大きく傾いている。
空っぽの心を風がすり抜けていった。自然と視線が下に向かう。何かが視界の端に映った。それは彼女がしていたネックレスであった。僕は恋だと勘違いしていた女性の忘れ物を、拾って握り締める。
――違う。それは違う。
自分の中で誰かが否定の声をあげた。あの天秤の、最初に傾いていた方の皿であった。あの頃の熱い想いは本物であったはずだ。あれは、初恋だったはずだ。僕をそう責め立てた。心がもう一度夢を見たいと駄々をこね始めた。しかしそれと同時に冷たい夜風が僕の中へと滑り込んできた。小学生の恋なんて戯れの塊だ。そう言った。
天秤はしばし大きく揺れ動き、とうとう大きな音を立てて横倒しになった。皿の中に入っていた二つの物質が心の中で交りあう。
その瞬間、僕の中から何かがあふれ出した。
何年も前の感情がよみがえってくるような気がした。否、それは小学生時代に抱え込んでいた感情ではなかった。燃え盛る炎が僕の心を焦がすが、正反対の何かがそれを次々に静めていく。夜空の星達が輝きを増したように見えた。あの頃に戻ったようで、それとは全く違う気がした。そうだ、この感情は。
「好きだった」
僕はまだ彼女と終われていないことに今更ながら気がついた。一人で恋をして、一人で諦めただけだったのである。彼女との時間はずっと「何となく」一時停止したままであったのだ。いつから僕はこんなに子供っぽく、そして大人になってしまったのだろう。
歩が早まっていく。明かりのともるアトラクションたちがまだ間に合う、と僕を追い立てている。管理室の扉を強引に開け、着ぐるみセットをソファへと放り投げる。鍵だけはしっかりとかけた。
告白なんてするつもりはなかった。明日から彼女はまた、僕の知らない都会で大きく羽ばたき始めるのであろう。彼女の幸せを汚すつもりはない。僕はただ、これからも今の僕の「普通」を過ごすために必要なことをしようとしているだけなのだ。
一つ、溜息をつく。僕の想いは幸せ一つと共に吐き出された。顔を上げる。掌の中の天秤は横倒しになったまま、僕の行動を見守っている。駄々をこねていた心は、何かを覚悟したかのように静かになった。その代償とでも言うように目から流れ出た一粒はきっと気のせいだ。
満天の星空の下、僕は走り出す。冷たい夜風が気持ち良い。柵を乗り越える。バイクの場所は闇にまぎれて見えなかったが、別にそれはそれで良かった。小学生の頃の俊足を生かすだけである。
僕はただ、少し縁が無かっただけの星空に別れの言葉を届けたいだけなのだ。大声で思い切り叫べば、きっと声くらいは届くだろう。
きちんと終われなければ次が始められない。残されたネックレスが、僕の手のひらの中でそう言ったような気がした。
忘れ物を届けにいこう。今までずっと引きずってきた幕を、完全に下ろし切ろう。そしてまた、新しい何かを天秤に乗せることにしよう。
リズムのよい足音が、闇にこだましていく。
明かりのともったアトラクションと、光り輝く無数の星達。彼女が去ったときと同じ者達が、僕を見送った。




