閑話 ラーの過去 後編
転移した先は、ある世界の迷宮の中だった。
薄暗いある一つのエリアだった。
微睡む意識から、ぼんやりと浮き上がるようにして、僕の意識は完全に覚醒した。転移は成功しているようだ。
悪魔たちは僕を待っていた。いや、違う。僕の姉を待っていたんだ。……だが、僕の泣き顔を見て、何かを察したようだ。
「だが、それでもお前は生きろ」
僕は姉の言葉を反芻した。
「簡単に言うなよ……」
僕は思わず呟いた。
今、思えば、何事も姉なしでできたことなど、なかったのかもしれない。
様々な政策。確かに考えるのは僕だが、それまでに至る経路、すなわち悪魔たちの反対、襲撃を撃退したのは、紛れもない姉の功績だ。
「……情けないなぁ」
頬にうっすらと涙が流れる。
それは熱かった。
だが、同時に底流にはある感情が浮かんだ。
――悪魔というだけで殺される理不尽。
――常の争いの世界。
――個々の力が優先されるのに、一人では生きてけないということ。
そして、何より……
――あれだけ沢山のものをくれた姉を見殺しにしてしまった自分に対して……
――憤怒。
どす黒い、闇の心。
燃えるような決意の心。
深い深い憎しみの心。
深い深い憎しみの――憤怒の心は心の中を渦まき、螺旋のようにして、僕の心を焼いていった。
心は真っ黒に汚れてしまった。
「悔しいよ、姉さん……」
「悲しいよ」
「辛いよ」
「ねぇ、生きるってこんなつらいことだったけ?」
僕はそう思わざるを得なかった。
「平和な世界を作ろう」
よく姉は言ってたっけ。
最後の最後まで、そうあるべきだ、と。子供のように無邪気で、若者のように情熱に溢れ、だけど、大人のように冷静で。
そう願いを願った結果がこれか。
理不尽。
その一言では片づけれないような酷い現実。
それが今だった。
深い深い黒。漆黒。
墜ちて墜ちて墜ちて。
僕は強くなりたい。
初めてそう願った。
その時だった。
【【大罪】レベルの感情を観測……能力を解放します【大罪】が一つ――【憤怒】を獲得】
盛大な祝福の喇叭が、滑稽なほどに不自然に響き渡る。
それは僕に対する、ありったけの皮肉なのかもしれない。
僕は震える手で、【個人情報】を開く。
そこに表示されていたのは、全く持って別の『自分』だった。
変わり果てた能力値。
新たな技能。加護。力。
それは過去の自分の否定でもあった。
「そうだ。過去は振り向かない」
姉はいつか言っていたっけ。
「未来はどんな可能性さえも内包している」
そう。
「姉が助かっていたという可能性へと改変することも」
なんて、無茶苦茶な理論だと、僕は自嘲した。
それは過去の改変という、神如き力をもっても、可能か怪しいレベルの話だった。
だが……
「そのための力だろう」
僕は笑顔だった。
目から零れ墜ちる雫は留まることを知らない。
――僕は生まれ変わった。
「天使さえ、天使さえいなければ……」
僕は数日、迷宮を彷徨った。
魔界の民たちには、住みかの確保などを命じた。
怨嗟の声。そう言えなくもない。
だが口調はそのようなことはなかった。
ある意味の呪いだった。
「天使さえ、天使さえいなければ……」
その言葉を呟き、呪詛のように紡ぎ、呪われたように……幽鬼の如く、彷徨い歩いた。
そして、その願いは届くこととなった。
「あはは。ねぇねぇ、あなたも悪魔でしょ……」
迷宮の中、一人の悪魔に対して、堕ちた天使は嘯く。
「狂った世界を私たちと変えましょ」
それは甘美な響きで、僕はすぐさま乗った。
「あぁ、もちろんだ」
不思議と疑う気持ちは起きなかった。
微かに起こるのは、歓喜だった。
「そぅ。じゃあ、私たちの仲間となりなさい」
僕は思わず跪いていた。
「勿論です」
すると、彼女は笑った。
「あなたって面白いのねぇ……だけど、仕えるのなら、私たちのリーダーにね」
クスクス。
そういった哄笑が漏れた次の瞬間、視界が明滅した。
それは転移だった。
僕は反射的に目を瞑る。
そうして連れてこられた場所は、世界から隠された場所だった。
「我らの新しい同胞を歓迎する」
大悪魔。いや、【始源の悪魔】とでもいうべき存在だった。
新しい仕える主。
その声と共に、俺は総員四名。
「新しく、参謀を迎え、遂に最低限度のメンバーが揃った」
かつての神であり、その座を奪われた、光輝。
光にありながら、闇に憧れ、堕ちた、天使。
大悪魔であり、【創造神】から直接創られた、化け物。
そして、【憤怒】の名を冠した、愚か者。
「これが始まりだ」
そうだ。
始まりなのだ。
こうして、僕らの、永い永い戦いは始まったのだった。




