第3話 気づけば、そばにいた 〜スーツに猫の毛と、夕暮れのただいま〜 (今日のレシピ:サーモンと野菜の重ね蒸し)
猫との暮らしが始まって、まだほんの数日。
戸惑いながらも、玲央の日常には少しずつ変化が生まれ始めています。
朝、スーツに絡んでいた猫の毛。
職場でふと交わした、他愛ない会話。
帰宅すると、思いがけず散らかった部屋――
静かだった日々に、ひとつずつ彩りが増えていく。
まだぎこちなくて、距離もあるふたりだけれど……
その変化を、玲央は心のどこかでちゃんと感じ始めているようです。
今日も、そんな一日のお話を、そっとお届けします。
朝。都内の自宅マンションの一室、玲央の部屋には淡い陽光が差し込んでいた。
玲央はリビングのテーブルで、トーストと紅茶だけの簡素な朝食を済ませると、淡い光の中でジャケットに袖を通した。
ネイビーのスーツに、品のあるストライプのネクタイ。控えめな香水の香りが空気に溶け込む。
だが、鏡の前に立った瞬間――
「……これは……」
肩口に絡みついた、クリーム色の細かな毛。
玲央は静かにブラシを手に取り、几帳面に払っていく。
「まったく……君は、どれだけ毛を置き土産にするんだ」
振り返れば、ソファの上で丸くなっているシトロン。
眠っているようで、じつは片目をうっすらと開けていた。
玲央はため息まじりにネクタイを直すと、玄関へ向かい、ドアを静かに閉めた。
* * *
都心のビル群に囲まれたオフィス街。
玲央が勤める外資系ブランドの本社には、朝から軽やかな足音と、香り高いコーヒーの匂いが漂っていた。
会議の合間、社内ラウンジで資料をチェックしていた玲央に、若手の仁科が声をかける。
「一條さん……すみません、それ……猫の毛、じゃないですか?」
目線をたどると、ネイビーのジャケットに、白っぽい毛がひとすじ。
玲央は一瞬返答に迷いながらも、口元に微かな笑みを浮かべて答えた。
「……そうかもしれない。最近、家に……小さな同居人が増えてね」
「えっ、猫ちゃん!? うわ、かわいい! 名前とか……もう決まってるんですか?」
「……シトロンという。クリーム色の毛をしている」
仁科は目を輝かせた。
「うちも猫飼ってるんです! ごはんとか、おもちゃとか、何でも聞いてくださいね!」
玲央は軽く会釈を返しながらも、胸の奥に、ふっと温かい何かが灯ったのを感じていた。
* * *
夜。玄関の鍵を回し、ドアを開けた瞬間、異変に気づく。
「……これは……」
クッションはすべて床に落ち、観葉植物の鉢は倒れ、読みかけの本がページを開いたままソファに引っかかっている。
その中心に、シトロンがいる。
まるで自分が中心だったとでも言いたげに、しっぽを前脚に巻き、くりくりとした瞳でこちらを見上げていた。
「……やってくれたな」
玲央は額に手をあて、溜息をひとつ。
だがすぐに、少し口元をゆるめた。
「仕方ない。君も、まだここが“家”だとわかっていないんだな」
シトロンが小さく「にゃ」と鳴く。
玲央はキッチンへ向かうと、棚から一冊のレシピ帖を取り出した。
祖母・紗英の『月夜のレシピ帖』――
古びたしおりに書かれた言葉が目に留まる。
「帰り道が少し疲れていても、
部屋に灯りと、あたたかいごはんがあれば、それでいいのよ」
玲央は静かにエプロンをかけた。
冷蔵庫を開けると、ちょうどよさそうなサーモンの切り身と、ズッキーニ、さつまいも、にんじんが目に入る。
「よし。今夜は――これにしようか」
包丁の音がやさしくキッチンに響く。
味つけ前の一部を猫用に取り分け、仕上げには柚子の皮をひとひら、人間用の皿に添えた。
テーブルに、ふたり分の器が並ぶ。
シトロンの器には、ちいさな魚と野菜の重ね蒸し。
玲央は静かに座り、フォークを持ち上げながら言った。
「……いただきます」
玲央は蒸したサーモンを口に運び、ゆっくりと噛みしめる。
野菜の甘さと柚子の香りが、張りつめていた胸の奥をそっとほどいていく。
「……なんてことない料理なのに、不思議だな」
ふと隣を見ると、シトロンも静かに器に顔を近づけている。
言葉はなくても、今夜だけは、ふたりの呼吸がそっと揃った気がした。
こんな夜には、派手じゃなくていい。
そっと寄り添う味が、ふたりをつないでくれた。
玲央が食器を片付けようと立ち上がると、シトロンもふわりと立ち上がった。
テーブルに落ちていた紙ナプキンを、前脚でちょんとつつく。
「……君なりに、手伝っているつもりか?」
玲央が苦笑すると、シトロンは得意げにひと鳴きした。
ふたりの距離はまだ遠く、それでも――ほんの少し、近づいた気がした。
* * *
【今日のレシピ】
『サーモンと野菜の重ね蒸し 〜柚子の香りを添えて〜』
▶ 材料(1人と1猫)
・サーモン(骨なし)……1切れ
・ズッキーニ……数枚(薄切り)
・にんじん……輪切りで数枚
・さつまいも……小さめにカット
・オリーブオイル……少々
・柚子の皮……少量(人間用のみ)
・塩……ひとつまみ(人間用のみ)
▶ 作り方:
サーモンと野菜を重ね、クッキングシートで包む。
蒸し器または電子レンジでしっとり火を通す。
取り出し、猫用には味つけ前に取り分けて粗熱を取る。
人間用には柚子皮と塩をひとつまみ。皿に盛って完成。
▶ レシピ帖のひとこと:
「あなたが笑うと、部屋の空気までやわらかくなるのよ」
――祖母・紗英の『月夜のレシピ帖』より
第3話、いかがでしたか?
今回のテーマは、「静かな日常の中に生まれた小さな変化」。
朝の支度のひと手間や、職場での思いがけない会話。
そして、帰宅してからの“ちょっとした騒動”まで――
まだ不器用なふたりの間に、ほんの少し心の動きが見えた気がします。
トラブルも、驚きも、ふたりで過ごせばちょっとだけ愛しくなる。
そんな空気が、ほんのり伝わっていたら嬉しいです。
次回は、もう少し距離の近づいたふたりの、ちょっぴり優しい夜のお話を。
どうぞお楽しみに。