記憶喪失の幽霊 陸
〈……え、もしかしてタイヨーちゃん、あたしのこと、見えてる……?〉
紫月さん自身も驚いているらしい。何度もまばたきを繰り返している。
「み、見えてますし聞こえてます。けどなんで……俺、別に霊感なんて」
太田さんと同じくらい、私も戸惑っていた。
太田さんの言葉を借りるなら────私自身もある日突然、〝霊感〟がついた人間だ。けど、こんなになんの脈絡も無くついたわけじゃない。私の時はもっと────。
そこまで考えて、思い当たることがあった。咄嗟に空を見上げる。赤と青、それから紫も混じった、とても綺麗な空があった。
そうだ、そうだった。ゆっくりと昼から夜へ変わっていく、この時間は。
「……逢魔が時」
ナギ先輩が言っていた。逢魔が時は昼と夜とが曖昧になって、この世のものではない何かに逢いやすくなる時間だって。だから太田さんの瞳でも、紫月さんの姿を捉えることができているのかもしれない。
「って言うか」
太田さんは盛大なため息をついた。
「なんで中学時代の姿なんですか。先輩、二十二歳でしょ?」
ずっと気になっていたことを太田さんは指摘する。
おかしいと思っていたんだ。紫月さんは中学時代の先輩だって語る太田さんの話と、今こうして目の前に居る紫月さんの姿とでは、明らかに年齢差があったから。やっぱり幽霊姿は当時のものだったんだ、と私は一人で納得する。
「何幽霊になってまで年齢をサバ読みしてるんですか、情けない」
〈別に好きでサバ読んでたわけじゃないし。タイヨーちゃんと交わした約束のことを考えていたら、こうなっちゃっただけだもん。……まぁ、さっきまで忘れてたけど〉
「いやいや、約束って……え? あんなくだらない口約束を守るためだけに俺のところへ来たんですか。先輩ってやっぱりバカですよね。そこは普通、ご家族のところへ行くでしょ」
〈おい、この短期間で何回バカって言うんだよ。こっちはずっと聞こえてるんだぞ〉
「あの……」
奇跡のような再会なのに、喧嘩なんてしている場合じゃないと思う。おずおずと口を挟めば二人同時に振り返り、「あっ」という顔をした。私の存在を忘れていたのかもしれない。
〈あはは、ごめんねぇ〉
紫月さんは照れたように言ったあと、小さく微笑んだ。
〈もしもあたしが死んだら、その時は真っ先にタイヨーちゃんに会いに行って、『ほら幽霊は居たぞ』って言ってやる〉
「え?」
〈中学生の時、タイヨーちゃんとそんな約束をしたんだ。タイヨーちゃん、幽霊なんて居ないって言い張るからさ。今だってほら、こうして目の前に居るのにねぇ?〉
煽るように笑う紫月さんを見て、太田さんは「ぐっ」と言葉に詰まって顔を顰め、それから俯いた。
〈ほら見ろ幽霊はちゃんと居たぞ~? あたしの言う通りだった……って、タイヨーちゃん?〉
途中で太田さんの様子がおかしいことに気付いたらしい。紫月さんは太田さんの顔を覗き込み────、困ったように眉を下げた。
〈泣かないでよ、タイヨーちゃん〉
「……泣いてませんよ」
太田さんは大きく息をついたあと、顔をあげる。
「幽霊は居たぞ、じゃないんですよ、先輩。アンタまだ二十二歳でしょ。幽霊になった姿を見せに来るにしても、もっと歳を取ってから来てくださいよ。これじゃあいくらなんでも早すぎます。何やってるんですか」
〈あははぁ、面目ない……〉
「第一、先輩が無事に大学を卒業できたら、一緒に酒でも飲もうって言ってたじゃないですか。あれだって言うなれば約束ですよ。なんで子供同士の口喧嘩の方を優先してるんですか。中学生の姿じゃ酒なんて飲めないでしょうが」
〈あー、そんな話もしてたねぇ。結局、卒業前にこうなっちゃったわけだけど……あれ、そう言えばあたしの卒業と内定、どうなっちゃったんだろ? もしかして、あんなに頑張ってたのに無駄になったってこと? うわ、これ、何よりも怖くない?〉
「茶化さないでください」
〈す、すみません〉
「大体、先輩はいい加減なのにも程があるんです。さっき、約束したのを忘れてたって言ったの、俺、聞き逃してませんからね。しっかりしてください」
〈はい……〉
「言いたいことはまだまだあります」
〈まだあるの!?〉
「ありますよ、言いたいことだらけです。文句だって言い足りないし、伝えたかったこともある。これから先だって、話したい出来事はたくさん起きてたはずです。なのに、なんで」
太田さんは再び俯いてしまった。紫月さんはそんな太田さんに手を伸ばしかけ、ふと動きを止める。それからそれを隠すように自らの背後へと回し、後ろ手を組んだ。
〈タイヨーちゃん、幸せになりなよ〉
そう言って切なげ笑う紫月さんを見て、お別れが近いんだと悟る。多分、太田さんも同じことを思ったんだろう。弾かれたように顔を上げ、きゅっと唇を結んだ。
「……分かりました。先輩が羨んで化けて出るくらい、幸せな人生を送ってやりますよ」
〈お! いいじゃん。その心意気!〉
紫月さんは頷いたあとで私に向き直る。
〈おねえさん、〝おとしもの〟探しに付き合ってくれてありがとう。お陰であたしが誰なのか、どんな約束をしていたのか思い出せた。短い間だったけど、一緒に居れて楽しかったよ〉
「……はい」
私も小さく微笑んだ。伝えたいことはそれなりにあったけど、それ以上何かを言うのは違う気がして、私は口を噤む。
残り少ないだろう時間は、二人のために使って欲しかったから。
「これ、先輩に渡すつもりで買ったんです。店員さんに相談したら、この花を薦められて」
太田さんはそう言って、ずっと抱えていた花束を持ち上げた。駅前の花屋で買ったものなんだろう。花びらに網目みたいな模様がある、紫色の花がふんだんに使われている。
「これ、アイリスって言うんですって。色合い的にも先輩に似合うと思ったんですけど……」
その状態じゃ渡せませんね、と太田さんは眉を下げる。でも、紫月さんは嬉しそうだった。
〈せっかくのプレゼントだもん、あたしの墓前にでも供えて欲しいなぁ。あ、ついでにお酒とおつまみもお願いね!〉
「……はは、相変わらず欲張りですね」
〈ずっと強欲だったみたいに言わないでよ〉
「スイーツビュッフェで欲張って大量に取って来て、満腹になったあとも無理矢理詰め込んで、最終的に腹を壊した人がよく言いますね」
〈ちょっと! 何年前の話してるの!〉
楽しそうに談笑する二人の背後で、ゆっくりと、けど確実に夕日が沈んでいく。逢魔が時はもうすぐ終わりを告げるだろう。そしたらきっと、この奇跡のような逢瀬も終わってしまう。せっかくこうして再会できたのに。全部思い出せたのに。
────現実は残酷だ。
「紫月先輩」
太田さんが紫月さんを呼ぶ。
〈何?〉
「その内、今度は俺から会いに行きますね」
その言葉に、紫月さんは照れたようにはにかんだ。
〈了解! でもあんまり急いで来ないでね。あたし、待つのも好きだからさ〉
「言いましたね? 待ちくたびれても、絶対に呼びに来ないでくださいよ?」
〈あはは、行かない行かない。ちゃんと大人しく待ってるよ〉
「本当に待てるんですか? 疑わしさしかないですが」
〈……前から薄々感じてたけどさ、タイヨーちゃんってちょくちょく失礼だよね〉
「先輩がちっとも年上らしくないからですよ。これが尊敬できるような人だったら、俺だってちゃんと敬ってます」
〈うわぁ酷い、失礼に失礼を重ねてるぅ〉
紫月さんは唇を尖らせる。不機嫌そうなその様子を見て、太田さんはフッと笑った。
「半分くらいは冗談です」
〈それってもう半分は本気ってことじゃん!〉
「まぁ、そうとも言いますね」
〈あー! またそういうこと言う! 謝る気が全然感じられないんだけど!〉
「……ははっ、すみません。じゃあ、そのお詫びと言ってはなんですが」
太田さんは言葉を切る。
「今度会えた時に酒を奢るので……その時は一緒に飲みましょうか」
そうやって続けたそれはつまり、二人にとっての新しい約束だった。
〈タイヨーちゃん……〉
紫月さんは眉を下げ、一瞬だけ泣き出しそうな顔をする。でもそういう表情を見せたのは本当に一瞬だけで、次の瞬間にはニカッと強気に笑っていた。
〈気障だねぇ!〉
「それ、褒め言葉じゃないですよ」
〈知ってるよ〉
褒めてないもん、と言う紫月さんに対し、太田さんは「クソ!」と赤面した。
「言うんじゃなかった……」
〈あはは! でも、すごく嬉しい。ありがとう〉
「……」
〈……〉
二人を静寂を包む。夜はもう、すぐそこまで迫っていた。
「紫月先輩、俺────!」
まだ何か言いたいことがあったんだろう。再び口を開いた太田さんの唇に、紫月さんはそっと人差し指を翳した。
〈だめ〉
太田さんがグッと押し黙る。それを見て、満足そうに頷いた紫月さんは空を仰いだ。そして。
〈タイヨーちゃん、またね!〉
最後にそう言い残して────まるで暗がりに溶けて消えたかのように、紫月さんが居なくなる。
夕日が沈み、やがて、夜がやって来る。