第三章 ~続けるための一歩~
翌日。
「朝だ、起きろ!」
優希の目覚めは、そんな大声と急激な寒さによって促された。
「な、何々!?」
飛び起き、優希は声の主を見て、当然の質問を投じた。
「……フォルティスさん、何してるの?」
活気に満ち溢れた声は、頭には手ぬぐいを装備し、着物の上からエプロンを装備したフォルティスだった。素材がいいからか、恥らいが無いから成せる業なのか、妙に似合っている。和洋折衷だな、と自然と思えるくらいに。
「何って君を起こしているのだが?」
「それは見れば分かるよ。アタシが言ってるのは、何でそういう格好して、如何にもお母さん的な行動をしてるのかな、という事を聞いてるの」
「朝食を作るのに着物を汚すわけには行かないからだが?」
「高そうだもんね、それ。ちなみにおいくら?」
「そんなに高くないぞ? 一千万だからな」
「い、一千万!?」
それを聞いて、優希は思わず大声を上げた。
「な? 安いだろ?」
一方、フォルティスは当然の事の様に言ってくる。
それを聞いて、優希の怒りのボルテージが臨界点に到達する。
「何素っ頓狂な事を! 逆だよ! 高い、それ物凄く高い! 何でそんなのを私服の様に着てるの!? それで安いとかどんな金銭感覚!?」
「どうしてって、私は日本に来る時はいつもこの格好だし、一千万なんて私は幼稚園くらいの頃から持たされていたが?」
「常用で何だその小遣い!? どんな親ですか!?」
「どんな親? 素晴らしい親だ。最高の親だと私は常々思っている」
かなりズレがある発言をするフォルティス。
話の噛みあわなさに優希は尚も叫ぶ。
「職業を聞いてるの!? 何したらそんな大金が!?」
「職業? 職業……あーっと、石油王とでも言えば良いのかあれは?」
「生粋の大富豪かい! 道理で金銭感覚狂ってると思った!」
そこでようやく違和感に気付いたのか、フォルティスは表情を曇らせ、
「……普通じゃないのか?」
恐る恐るといった感じでそう言った。
すかさず、優希は突っ込む。
「おかしいと思った事無かったの!?」
「無い。周りもそうだったし、親からしてそうだったからな」
断言され、優希は大凡の事情を把握した。
「……あー、勝ち組の人だったの。納得把握」
「納得と把握ありがとう。というわけで、朝食だ。冷めない内に食べよう」
そう言って、フォルティスはそそくさと優希の部屋から出ていく。
優希は何だかなー、と思いつつ、髪をざっと整えてから後を追った。
「ところで、フォルティスさんだけ? 伴野さんやレフィクルは?」
「レフィクルは下にいて、リンは制服を取りに自分の家に戻った。学校でまた会おう、という伝言を預かっている」
「そっか。そういや、野暮用とか言ってたけど、それはもう片付いたの?」
「ちょっと手間取ったがどうにか、な。だがまあ――」
そこで、フォルティスは欠伸を一つした。
「目算よりかかったので、少し寝不足気味だ」
「それなのにどうして朝食なんか?」
「迷惑だったか?」
「いや嬉しいですけど、眠いのに何でかな、と」
「これから一緒に暮らす事になるからだが?」
「あー、なるほど。そういう事か」
そう言って、優希は自分の発言に疑問を抱き、足を止め、
「――って、ええっ!?」
きちんと理解して、思わず叫んだ。
そんな優希を見て、フォルティスはクスクスと笑った。
「ユウキは朝から元気だな」
「あ、どう――じゃない! どういう事? 何でそんな事に!?」
「昨日言ったろ? ユウキの側にいる、と」
「あれってそういう意味だったの!?」
「理解して――ん? そう言えば、ちゃんと話していなかった様な気もするな」「気がするじゃなくてしてないの! 総司さんに何て言えば!」
「あ、その辺は安心してくれ。ユウキの義父の許可は取った」
「アタシの知らないところで話が片付いてる!? そして何故知ってる!?」
「調べたから知っていて当然だろ?」
「調べたって……それ、全力でプライバシー侵害だよ!?」
「安心してくれ。口外しないし、悪用もしない」
「その前に勝手に調べた事を謝ってよ!?」
「それはそれとして、ユウキはドクター・テンカイの養子だったのだな」
「勝手に話を――あれ? 何で知ってる風?」
「私の父とドクター・テンカイは友人で、私も何度か実家の方で会った事がある。だからと言うわけではないが、私が日本へ来ているという旨を伝えたところ、ドクター・テンカイはホテルとか取るの面倒だろ、と気を利かせてここに住む事を許可してくれた、という次第だ」
「あー……そう。それなら、もう何も言わないよ」
「そうか。納得してくれて何よりだ」
フォルティスはそう言って、止めていた足を動かし始め、リビングには向かわず、キッチンに直行した。一方、優希はリビングへ向かう。
「やあ、ユウキ。朝から元気だな」
リビングに入ると、レフィクルの挨拶が飛んで来る。
「おはよ、別に好きで騒いだわけじゃないよ?」
「連日大変だな」
「誰のせいよ誰の」
「お前だろう?」
「分かってるから一々言わないで」
「了解した。それはそれとして、よく休めたか?」
「うーん……」
そう聞かれ、優希は自分の体を総点検する。昨日全力疾走した事によるものか、足が若干筋肉痛だった。しかし、動けないというほどではない。精神的には少しきついが、朝から馬鹿騒ぎしたせいか、こちらも耐えられない事はない。
総点検を完了し、優希は答えた。
「まあ、あんな事を体験した後って考えれば御の字ってところかな」
「結構」
そう言うと、レフィクルはキッチンを一瞥してから忍び足で優希に歩み寄り、首の動きで優希にしゃがむ様に示した。疑問に思いつつ、優希はしゃがむ。
「――時にユウキ、お前は料理が出来るか?」
そう言ったレフィクルは、どうしてか小声だった。
そこはかとなく嫌な予感がしつつ、優希は小声で尋ねる。
「……何で小声なの?」
「後で分かる。それで?」
「出来るよ。料理研究会で時々先生する――」
「よくやった!」
優希の言葉は遮られ、感極まったレフィクルは優希に飛びついた。分けが分からなかったが、優希はとりあえず抱き止め、小声で聞く。
「な、何? どういう――」
「朝から仲が良いな」
と、フォルティスが皿を持ってキッチンからやってきた。
その瞬間、優希はレフィクルが小刻みに震え始めたのを感じ取った。
嫌な予感が確信へと変わっていくのを感じつつ、優希は立ち上がり、フォルティスがテーブルの上に置いた物を見る。
(あれ? 何だ、普通のトーストとオムレツとサラダじゃん)
二つ皿に盛り付けられていたのは、こんがり焼かれたトーストと見本の様な綺麗なオムレツだった。その横には、プチトマトやスライスされたキュウリにレタスが少々という何の変哲も無い平凡なサラダ。そんな観察をしていると、キッチンに向かったフォルティスが、カップと砂糖やミルクを持って戻ってくる。カップには、湯気が立つコーヒーが注がれていた。
「美味しそう。フォルティスさん――」
「フォルティスでいい。私と君は同い年なのだからな」
「――フォルティスって、お嬢様なのに料理するの?」
「趣味で嗜む。女性として料理くらい軽くこなせないと恥ずかしいからな」
「あ、なるほど。それじゃ、いただきます」
そう言って、優希はオムレツを一口大に切り、口へ入れた。
「――っ!?」
その瞬間、優希は高圧電流を流された錯覚に襲われた。
(な、何で? どうやったらオムレツをここまで不味く作れるの!?)
一見何の変哲も無い、そればかりか見本の様に綺麗に出来ているオムレツは、しかし一口で人を昇天させられるほど殺人的に不味かった。この見た目でこの味は最早極悪で卑劣な詐欺と同義だ。
「どうした? 食べないのか?」
そう言うフォルティスは手をつけていない。
それで優希は我に返り、意を決してある質問をフォルティスにぶつける。
「……あのさ、味見した?」
「ユウキは凄いな。たった一口で味気無かった事を見破るとは!」
これが味気無い――という突っ込みを入れたくなる衝動を必死に堪えつつ、優希は可能な限り言葉を選んで、質問を重ねた。
「えーっと、どういう事?」
「うむ。まずオムレツを作ったわけだ」
「ふんふん」
「ちゃんとレシピ通りに作ったのだが、それだと味気無かったのだ」
「……で、自分なりにアレンジしてみた、という感じ?」
「おお! そこまで見破るか!」
「ええ、まあ。……で、そのアレンジした後、ちゃんと味見した?」
「してないぞ? 体に良い物ばかり入れたのだから不味くなるはずないからな」
「……ああ、そう」
そこまで聞いて、優希はオムレツを一口大切り分け、
「――アレンジした後もちゃんと味見しようね、世間知らずのお嬢様!!」
それをフォルティスの口へ情け容赦せずぶち込んだ。
ふぐっ、と唸った後、フォルティスは震撼する事を目の当たりにした顔をする。
「な、何だこの味!? 何でこうなる!?」
「アタシが知るか! アンタが作ったんでしょうが!」
「馬鹿な、有り得ん! 栄養ドリンクとか酢とかビタミン剤の粉末とか――」
「その時点でおかしい事に気付け! そして、そこの黒獅子!」
逃げようとしていたレフィクルが、ビクゥ、と総毛だった。
「な、何だ?」
「アンタ、何でこの暴挙を止めなかった!? いたなら止めなさいよ! おかげで暗殺に使えそうなくらい殺人的に不味い料理を食べる事になったじゃん!」
「さ、殺人的!?」
「はいそこ! 言われて当然の事をやってショック受けない!」
「それは同感だが、もう少し言葉を選んでやれ」
「黙れ、馬鹿黒獅子! それより、何で止めなかったのよ!?」
「許せ、ユウキ。この不幸をまともな感覚を持った奴と味わいたかったのだ」
「そんなの――ああ、そういや、伴野さんも味音痴だったっけ……」
以前、復学した後、調理実習があった時『伴野さんが作った物も食べてみたい』と言って、地獄に行った気分になった時の記憶が不意に過ぎった。
「あ、ああ……あれ以来、俺は出来合い物とインスタント食品を崇拝している」
「……まあ、これと伴野さんの料理を食べた後じゃあそうなるか……」
「だろう?」
そこで、会話のリズムが途切れた。
気まずい雰囲気の中、優希は呆れた様にため息をつき、朝食に戻る。
「……私が言うのもなんだが、それを食べるのか?」
「食べるよ。フォルティスがアタシのために作ってくれた折角の料理だからね」
「ユウキ……」
それを聞いて、感極まったのか、フォルティスは涙ぐんだ。
「……感動してくれてるところ悪いけど、これに懲りたら自分流にアレンジするならこういう事を食べさせる人に言わせない様にしてね?」
「分かった。肝に銘じよう」
「よろしく。それじゃ、改めて頂きます」
改めて、優希は殺人的に不味いオムレツに挑んだ。
(うう、フォルティスさんには悪いけど、胃の調子が……)
大ダメージを受けた体に鞭を打ち、優希は自分が所属している教室を目指し、気遣ってくれる生徒達の声におざなりに返しながら、トボトボと歩いていた。
(しっかし、今日はいつも以上に皆元気だねー……)
色んな事が起こり、色んな事を知った後の日常は、どういうわけかいつもと雰囲気が違っていた。自分が色々な事を知り、日常の脆さと儚さを知って物事に対する感覚が変わってしまった、という事ももちろんあるが、それを差し引いても見慣れた学校風景からは、いつも以上の活気を感じられた。
(この時期イベントは無いはずだから、また誰かが騒いだのかな?)
内輪しか知らない(表に気取らせないとも言う)事だが、天才というよりも奇人だの変人という形容の方が適しているだろう、と困った天才が集まるこの学園は、基本的に何らかの騒ぎが起こっている。やれ科学部が新薬の調合に失敗して爆発だのバイオテロ一歩手前の事が起きたかと思えば、武道の部活における互いを高めあうための異種格闘技大会、そんな事が起きたかと思えば、軽音部によるゲリラライブ、ととにかく騒がしく、生徒も生徒で『面白い事には基本的に参加』という思考回路の持ち主ばかりなので、相乗効果でより騒がしくなる。
(……でも、そんな感じじゃないんだよなー)
この日の活気は、優希が知っている活気とは違った感じがした。活気には違いないのだが、何かが優希の知っているそれとは違っているのだ。
「おはよー」
それを思考しつつ、優希は教室の扉を開けた。
「あの子何者なんだろうな?」
「やっぱ彼氏とかいるのかな?」
「あー、早くお目にかかりたいぜ!」
開けた途端、聞こえてきたのは男子の欲望丸出しのトークだった。
「な、何? 何なの一体?」
優希は面食らうが、興奮状態にある男子はそんなのお構いなしだ。
そこへ、静観していた女子が一石投じる。
「こら男子! 上代さん、困ってんじゃん!」
「うるさいぞー、男子。現実を見ろー」
「無謀なのは醜いですわよ?」
辛らつな発言が聞こえたからか、男子はハッと我に返り、口々に謝罪してそそくさと移動し、歓談し始めた。優希はホッと息をつき、助けてくれた女子達に適当な返事を言いつつ、自分の席へと向かった。
「およ?」
自分の机に到着した時、優希は『それ』を認め、皆に尋ねた。
「ねぇー、何でここに机が置いてあるの?」
優希の席は、昨日まで窓際の最後尾だった。
ところが、今日になってみると優希の席は後ろから二番目になっており、優希の席の後ろには、何処から調達して来たのか、机が置かれているのだ。
「何でって、使うからに決まってんだろ?」
優希の席の近くで歓談していた男子の一人が答えた。
優希は、鞄を置きながら質問を重ねる。
「それは分かるよ。聞いてるのは使用目的」
「鈍いですね。このシチュエーションからして、思い付きそうな物ですが?」
「シチュエーション……」
少し考え、優希の脳裏に仮説が浮かぶ。
「……もしかしなくても、あれかい? 転校生ってやつ?」
「ご明察!」
優希がそう言うと、ヒントを示した眼鏡男子が気障っぽく言った。
「そう、転校生ですよ、上代さん!」
「それもすげー美人」
「さらに留学生らしいよ?」
転校生、美人、留学生――出てくる証拠は、優希の仮説を確信へと変質させていくものばかりであり、優希は目眩を感じた。
「騒ぐなー、男子。どうせアンタら全員相手にされないんだからさ」
「現実を見ろって話だよね?」
「仕方ありませんよ。人に夢と書いて『儚い』と言うのですから」
「あはは、言えてるよねー」
男子が騒がしいからか、女子達は野次を投じた。
「うっせえな! 夢くらい見させろ!」
「当たって砕けろ、とも言います」
「砕けちゃ駄目だけどね」
「夢を見るもんだろ?」
しかし、男子は女子の野次にめげず、熱っぽい視線を虚空に向ける。
それを見て、女子ははー、と呆れたため息を一斉についた。
優希は男子と女子を交互に見比べ、話し易い女子に話題を投下した。
「でもさ、皆何で知ってるの? こういうのって分からないもんじゃない?」
「普通はね。でも、上代さん、ここは蒼穹学園で、私達は蒼穹の生徒だよ?」
「それを持ち出されると何も言い返せない……」
「と言っても、元凶はちゃんといるけどな」
「ひょっとして、新聞部?」
「そうですわ。相変わらずどうやってネタを仕入れているのやら」
「全くだね。盗聴器とかかな?」
「かもねー。アイツらなら普通にやりそう」
「悪用されない事を祈るばかりだな」
「それはしないでしょう。モラルは分かっているでしょうし」
「そういう一線は越えないだろうからねー。ところで、男子のテンションからしてかなりの別嬪なのは分かるけど、どんな感じ?」
「あーっと、聞いた話じゃ、銀髪に灰目で顔もスタイルも鈴と張り合えるレベルだとか何とか。いやー、マジで勘弁して欲しいわー。神様不公平過ぎ」
それを聞いて、優希の中の仮説は確信へと変質した。
得たピースが全て当てはまり、真実という題名のパズルが完成する。
「この世が不公平なのは今に始まった事じゃないって」
「無い物強請りは人の常」
「うっさい! ――って、上代さん、どうかしたの?」
「ふえっ?」
不意に話題を振られ、優希は素っ頓狂な返事をした。
「な、何でも無いよ? うん、何――」
「怪しいです」
一人が優希の声を遮ってそう言った。
それを皮切りに、他の女子も口々に賛同を言う。
「怪しいね。間違いなく怪しい」
「あの顔は間違いなく何か知っている顔だ」
そして、そのやり取りは他の生徒達に聞かれ、
「あー、これは確かに何か知ってる顔だな」
「どう見ても何か知っていますね」
「こういうの顔に書いてあるって言うんだよね?」
男子も集まり、優希にとっては不穏な雰囲気になっていく。
「えーっと、皆、憶測で物を――」
「よし! これより、緊急審問を行う! 法廷の設営開始だ!」
優希の制止も聞かず、男子も女子も協力し、教壇には日直が立ち、優希は気が付けば証言者として作られた証言台に立たされ、それ以外の生徒は聴衆として優希の後ろにズラリと授業参観の父兄よろしく、といった感じで立ち並んでいる。
コホン、と日直の女子が咳払いしてから口を開いた。
「えー、これより緊急審問を開催します。皆々様、ご静聴の方――」
「ちょっと待て――ひっ!」
優希が発言した瞬間、チョークが優希の頬を掠め、裏で苦悶の声を上がった。
「証言者さん、貴女の発言は私が許すまで認められていません」
「な、何それ!? それは横暴――ひっ! だから危ないって!」
「私語は謹んでください。そして迂闊な言動をした自分を恨んでください」
「くっ……」
有無を言わさない発言に優希は押し黙るしかなかった。スイッチが入っているのか、教壇に立っている日直は完全に審問官になりきっている。
優希が黙った事に満足したのか、日直は満足そうに頷いた。
「よろしい。それでは――」
「皆、先生が来たよ!」
その一声で、教室内がざわめき、
「――っ! 予想以上に早い! 皆、撤収作業を開始するわよ!」
日直の一声で、設営された会場は片されていった。
「上代さんも手伝って!」
「ええっ!? アタシ、被害者だよ!?」
「元はと言えばお前が原因だろうが!」
「そりゃそうだけど!」
「文句言う暇あったら手足動かす!」
「ああもう! 何でこんな事に!」
とか言いつつ、手伝う辺り、優希も優希でノリが良いというか、律儀というか。
かくて、準備された時と同様、教室は元の風景を取り戻し、教室内にいた生徒は各々のグループに集まり、歓談をしている体を取り繕う。
そこで、前の扉が開かれ、担任と伴野鈴が入室して来た。担任は教壇に立ち、鈴は自分の席へと軽やかな足取りで向かう。
その途中、優希は横を通る鈴に聞こうとしたが、
「あー、何か知っているみたいだが、省いても良いんだが、俺も一度言ってみたかったから言うぞ」
そうしようとした矢先、担任が口を開き、バンと出席簿を教壇に叩きつけ、
「喜べ男子! 美少女留学生の仲間が増えるぞ!」
声高に宣言した。
それを聞いて、教室内の空気は一部を除いて一気に高まった。盛り上がっていないのは、事情を把握した優希と既に接触済みだろう鈴の二人だ。
そんな二人をさておき、静まらない教室に、指の弾く音が響き渡る。甲高く響いたその音は、かなり盛り上がっていた歓声を一瞬にして沈静させた。
「黙ってくれて助かるぜ、俺の教え子達! そして十数回によるジャンケン勝負の果て、見事転校生を勝ち取った俺を敬いやがれ!」
「敬うから、転校生を見せろー!」
「先生、早く、早くー!」
生徒達から野次は飛ぶが、担任は慌てず、生徒達を静める。
「慌てんな。若さは結構だが、急いては事を仕損じるぜ、若人達!」
「いいから、早くしろー!」
「早く転校生見せてー!」
「分かった、分かった! というわけで、入って来てくれ!」
それを聞き、真新しい制服に身を包んだ女子生徒が入室して来た。と同時に、あれだけ騒がしかった教室がしんと静まり返った。それは必然。その転校生の容貌は息を飲むほど美しく、まとう雰囲気は明らかに異質の物だったから。
静かな足取りで教壇へと転校生は向かう。その最中、担任は見事なチョーク使いで、転校生の名前を黒板に書き込んでいく。二つの音が教室に響く。
担任が転校生の名前を書き終えるのと、転校生が教壇の横に到着し、皆の方を見るのは全くの同時だった。チョークのカスを落としつつ、担任は向き直る。
「あー、転校生のフォルティス=サルファーレだ。サルファーレ、皆に挨拶を」
「了解です」
一歩前に出て留学生――フォルティス=サルファーレは、自己紹介を始めた。
「改めて、フォルティス=サルファーレという者だ。慣れない土地での生活故、何分至らないところがあるだろうが、よろしく頼む」
そして、一礼。
その後、一瞬の沈黙を経て、誰からともなく拍手が上がり、それは伝播していく。最終的に室内は拍手の音で満ち溢れ、転校生を歓迎するムード一色になった。
(まあ、成る様にしか成らないか)
一番に拍手した優希は、そんな事を内心で思いつつ、拍手を続けた。
転校生追加というイベントの発生により、担任の授業だったという事も相成ってか、優希のクラスの一時間目はホームルームとなった。
早速とばかりに始まったのは、通過儀礼とも言える質問タイムだ。
「何て呼べばいい?」
「変な風でなければ何でも良い。好きな様に呼んでくれ」
「何て呼ばれてたの?」
「フォルテかルティスだな。個人的にはルティスの方が好みだ」
「誕生日と星座、それと血液型は?」
「一月六日で山羊座のAB型」
「何処から来たんだ?」
「詳しくは言えないが、ロシアの辺境だ。故にこの国の暑さに少々参っている」
「スリーサイズを是非!」
「興味無いから記憶してない」
「趣味と特技は?」
「趣味は日本の作品に触れる事、特技は特に無い」
「彼氏いる?」
「いないが、今のところ作る気は無い」
という様なやり取りが未だに続いている。根掘り葉掘り聞く方も聞く方だが、きちんと答えるフォルティスもフォルティスだろう。
「凄い人気ですね」
「あのルックスで転校生、その上留学生。注目されない方がおかしいでしょ?」
そんな様子を遠巻きに見ている二人の生徒がいる。
優希と鈴だ。前以って知っている二人にしてみれば、改めて聞く事は別になく、聞かなくとも他のクラスの邪魔にならないか、と不安に思ってしまうくらいの声量で質疑応答が行われているので、勝手に耳に入ってくるので問題無い。
「ところで、朝どうしてたの? 一緒に入って来たよね?」
なので、優希は内輪話をする事にした。
「そういう優希ちゃんは? 今日は少し遅かったですよね?」
「ちょっと寝坊した。それとまあ色々あってね」
「平気ですか?」
「……まあ何とかってところかな。日常の儚さを知って鬱だけど」
それを聞いて、優希は本音を吐露した。
正直に言えば、気が滅入っている。朝から馬鹿騒ぎをしたものの、一人の登校は色々な事を考えてしまえる時間であり、どうにか気持ちを切り替えようと、どうにか考えない様にしていたが駄目だった。見慣れた町並み、見慣れた登校風景、何気無い他愛無い会話――それらを見聞きする度に考えまいとしているからか、知ってしまった実情が何度も脳裏に蘇った。
「自業自得です。受け入れてください」
それに対し、鈴は少し叱咤する風情で言った。
もっともな言い分だったので、優希は受領し、肩を竦めて見せた。
「はいはい。それで?」
それを聞いて、鈴は思い出した様な顔をする。
「と、そうでしたね。登校した後、先生に呼ばれたのです」
「ほうほう」
「で、委員長なので、優希ちゃんのフォローをする様に、と」
「アタシの? それはひょっとして――」
「「「「「上代さんの家に居候!?」」」」」
その時、優希と鈴、それからフォルティスを除く全員が一斉に大声を上げた。
そういう事か、と合点しつつ、優希は人だかりを盗み見た。いくつもの視線とぶつかる。が、それは一瞬であり、質疑応答が再び始まった。耳を傾ければ、優希とフォルティスの関係性についての様だった。
その様子を一瞥し、鈴は優希に視線を戻し、口を開く。
「優希ちゃんが任されるのはそういう理由です。先生から『同じ屋根の下に暮らす者同士、仲良くやれよ』という伝言を頂いています」
「了解。まあ、こうなるって予感はあったから別にいいけどね」
「そう構えずとも平気でしょう。あの調子なら出る幕は無さそうですから」
「ま、転校生との付き合い方なんてあんな感じだろうからね」
「容赦無いのが私としてはハラハラドキドキです」
「アタシはあれで結構世間知らずというか、非常識だからそっちが怖いかな」
「目黒の秋刀魚ですね。偉い人が世情に疎いのは世の常です」
「だね。……って、あれ? アタシもう話したっけ?」
「引き合わされた際に軽く伺いました」
「なるほど。それはそれとして、お嬢様かー」
そう呟いて、優希は級友達と楽しげに話すフォルティスを見て、遠い目をする。
それから、おもむろに呟く。
「――やっぱり憧れるよね。一人の女の子として」
「曰く、絵に描いた様なお嬢様らしいですからね」
「シャンデリアとかあったりするのかな?」
「実家はお城だそうですよ?」
「ホント? それだとより一層憧れるなー」
「隣の芝は青く見えるのも世の常です」
それに、と鈴は続けようとしたが、言葉が続く事は無かった。
皆まで言わずとも、優希には全容が分かった。
だから、努めて言及せず、話題を変える。
「そういやさ、総司さんってフォルティスの家族と知り合いなんだってさ」
「そうなのですか?」
「内容の割に反応が薄いね?」
「あの人なら誰と繋がりがあっても不思議じゃありませんから」
「ま、理不尽に喧嘩売ってる様な人だからね」
優希の義父であり、主治医でもある天海総司を知らない者はいない。
人は彼の事を『救う者』と呼ぶ。その通称通り、彼が何らかの形で介入した状況は必ず好転する。本業は医者だが、経済難に陥っているところではビジネスチャンスを発掘して栄えさせ、医療が行き渡らない辺境では薬草を使った医療方法を示し、こういった様々な方法で通って来た道にいる人を救ってきた。そこに例外は無い。子供、大人、男、女、善人、悪人、皆分け隔てなく救われている。
優希もそんな救われた大勢の中の一人だ。
「……それにしても、尽きないねー」
優希は人だかりに目を向け、何と無しにぼやいた。
歓談に変わったが、フォルティスを中心とした場の空気は依然として暖かい。
「逆に刺激的なのでしょう。この学園だからこそ起こり得る事ですね」
「言えてるね。どいつもこいつも癖強過ぎるから」
「自分を棚に上げてどの口が言うのやら」
「その台詞そっくりそのまま返すよ、完璧超人」
「鏡を見てから物を言いましょうね、記憶喪失さん」
「傍から見たら分からないからセーフでしょ?」
「そうでもないですよ、無鉄砲女さん」
「それを言われるときついけど、あの局面だったら誰でもああするって」
「この学園にいる時点でお前らどっちも傍から見たらイロモノだ」
そこで、男子生徒の突っ込みが二人の下に投じられる。
「ま、私ら全員人の事言えないけどね」
ついで、女子生徒がおどけた調子で言ってきて、
「というか、何でお前らは我関せずなんだ?」
男子生徒の一言を皮切りに、話の矛先が優希と鈴へと向けられ、そちらを向く。
「あれじゃない? 二人は親友だし、優希は家に行けば話せるし」
「でも、こういう場合、皆でワイワイガヤガヤするものでは?」
「その前に『二人は親友』というのは理由になっていないと思うのですが?」
「人の親愛邪魔する奴は、馬に蹴られて三途の川」
「それを言うなら恋路だよ。まあ仕方ないんじゃない?」
「何で? 何で仕方ないの?」
「今更って感じだからだろ? ルティスが上代のところにホームステイするなら昨日の内に顔合わせしてるだろうし、委員長はここにスズセンに呼び出し食らって引き合わされてるみたいだしさ」
「だけど、こういうのは皆で騒いでなんぼでしょ?」
「それには同感だ。皆は?」
「あー、OK、OK。アンケ取らなくていいよ」
そこで優希は言い返し、
「行きましょうか、優希ちゃん」
鈴に手を引かれ、二人も人だかりの一部となる。
男子生徒が言った。
「おらおら、上代と委員長のために道開けろー」
女子生徒も便乗する。
「ほら、さっさと動く、動く」
道は開かれ、二人は中心部へと促されていく。
「すまんな、二人とも。私が不用意に口走ったばかりに」
二人が見えると、フォルティスは開口一番にそう言った。
優希と鈴は顔を見合わせ、優希が尋ねる。
「どういう事?」
「ん? いやな、ユウキとリンがいないな、と思ってな」
「なるほど。そういう事でしたらお構いなく」
「どうでもいい話してただけだからね」
「それなら良かった」
「気遣いありがと。で? 何の話?」
「委員長、今日の放課後暇?」
女子生徒が割り込んだ。
そこへ優希が割り込む。
「何々? 何かやるの?」
「鈍いね。ルティスの歓迎会だよ」
「あー、なる。それでアタシに聞かなかったんだね」
「そ。だから無視したわけじゃないよ?」
「OK、OK」
納得して、優希は鈴を見た。
「で、伴野さん、どう?」
「智世ちゃんの部屋の掃除が終われば大丈夫です」
「マメだなー、委員長。これで料理が出来れば……」
「こら、一言余計」
ぼやいた男子を隣の女子が小突き、
「その一言も余計ですよ?」
鈴が尋常じゃないくらい殺気立った声で言い、沈黙が訪れる。
「ん? リンも料理が出来ない口か?」
その沈黙を平然と破ったのは、何も知らないフォルティスだ。
鈴の額に青筋が浮かび、鈴とフォルティス以外の者が総毛立つ。
「『も』?」
そんな中、冷静な一人の呟きが聞こえた。担任の鈴木誠一だ。
「という事は、サルファーレも料理が出来ない口なわけか」
それを聞いて、男子は露骨にがっかりした顔をし、女子は安堵の息をつく。男子は男子で期待したからで、女子は女子で勝負にならないと分かっていても欠点があった事に浅ましさは百も承知で安心したからだ。
「そうなのですか?」
「そうだよ。ま、伴野さんよりマシだけどね」
鈴の質問には、現状で一番の発言力を持つ優希が答えた。
「……優希ちゃん、一言余計ですよ?」
「そういうのはおかゆくらいをまともに作ってから言おうね?」
「ちゃ、ちゃんと作ったじゃないですか」
「……あのね、伴野さん。ドジならアタシだって許すよ。許すけどさ、洗剤で米を洗い、栄養をつけないといけないからと栄養ドリンクとビタミン剤各種ぶち込んで作ったアレのどの辺が『ちゃんと』なの?」
「あ、アレ!? 言うに事欠いてアレですか!?」
鈴が叫ぶ傍ら、フォルティスは鈴の手を取り、熱っぽい視線を向けた。
「分かる、分かるぞ、その優しさ!」
それを聞いて、鈴はフォルティスの手を握り返した。
「! わ、分かってくれますか! 私の親愛を!」
そんな感じで二人が盛り上がる中、優希の近くにいる男子が聞いた。
「……お前、それ食べたの?」
「勿体無いからね。おかげでぶっ倒れたけど」
「あー、ひょっとして一週間ぶっちぎって休んだあの時?」
「そ。死ぬかと思って総司さん呼んじゃったよ」
「それ食うとか上代は勇者だな。後、よく生きてた」
「ホントだね。私、聞いただけで胃が変な調子になったのに……」
「あれ? あいつは?」
「あー、あいつなら血相変えて教室出て行ったぜ?」
「じゃあ、トイレだね。……私も行ってくる」
「行ってこい、行ってこい。俺が許す」
鈴木先生はそう言うと、女子生徒は一礼して教室を後にしていく。
それを見送って、鈴木先生は優希を見た。
「それで? サルファーレの料理は?」
「慣れる事は出来ます。ええ、慣れる事は。……ふふ、はは、あはは……」
思い出して危ない感じに笑い始める優希。
それを見て、自分達の空間を形成して騒ぐ二人以外全員が青ざめた。
それを払拭するため、鈴木先生は一度咳払いし、話題を戻した。
「で――お前ら、今日どっか食べに行くのか?」
「まあ、そんな感じっすね。スズセンは来られる?」
「楽勝だ。あー、女子は覚悟決めろよ? 最近は物騒だからな」
「内容の割にあっさりだね?」
女子生徒にそう言うと、鈴木先生は後頭部をがしがしと掻いた。
「教員一人が動いてどうにかなるならどうにかしたいが、世界の警察が提携しても何一つ分かってないんだ。正直お手上げだぜ。ま、盾にはなってやるが」
それを聞き、歓声が上がった。
「鈴木先生は勇敢ですね」
その中、フォルティスが賞賛した。
「教師として生徒を守るのは当然だろ? ま、何が出来るかはわからねぇけど」
「その気持ちでも立派だと私は思います」
「……ま、気持ちは受け取っとくぜ」
「あ、スズセンが照れてる」
優希が茶化したのを皮切りに、他の生徒も便乗して鈴木先生をからかい始める。
「うっさいぞ、お前ら。そんな事より、どうすんだ? 焼肉で良いなら、知り合いに店やってる奴がいるから手配してやれるぜ?」
それを聞いて、全員が例外なく目を見開き、
「スズセン、駄目元で聞くけど、それって奢り?」
一人の女子生徒が聞き、
「ああ。出血大サービスだ。あり――」
言い終えるより早く、クラス全員の喜びが爆発した。
「そうと決めれば、親に連絡しとかねーと!」
「あ、私も連絡しなきゃ!」
「前言撤回はさせませんよ?」
口々に言い、生徒達は携帯を操作し始めた。
そんな中、フォルティスが呟いた。
「騒がしいが楽しいクラスだな」
「そう言ってくれて嬉しいよ」
それに、連絡する必要の無い優希が答えた。
こうして、本日の二年A組の夕飯は焼肉に決まった。
かくて、放課後。
(一人でやるのは久しぶりですね……)
伴野鈴は、一人で外野智世の家へと訪問していた。
上代優希が同行を希望したが、それは鈴の方から断った。
理由は二つ。
一つ、一人の方が動き易いため。
一つ、上代優希を魔法少女にしないため。
前者は言うまでも無く、天使達を倒すためだ。優希と一緒に行動した場合、事が起これば、優希は断ってもついてくる。他者の事が放っておけない、という性分は記憶喪失となる前も、なった後でも変わっておらず、事そういう勘に関しては記憶を失う前よりも敏感になっているため、撒いたところで嗅ぎつけられてしまう。だからと言って連れて行けば、優希が魔法少女になってしまう機会を作ってしまう事になる。身を置く者として、それだけは避けなければならない。あんな戦いに親友が関わって欲しくなかった。例え、エゴだとしても。
(……勝手ですよね……)
掃除機を操作しながら、はー、と鈴はため息をついた。
「ため息つくと幸せが逃げて行くぞ?」
不意な声。でも、鈴は驚かない。その声はもう聞き慣れている。
「……何で貴方がここに?」
だからこそ、鈴は単刀直入に、ここにいるはずのない相手に尋ねた。
その相手――レフィクルには、昨日の内に優希とフォルティスの監視を頼んでいる。フォルティスはああ言っていたが、鈴としては備えておく事に越した事は無い、と思い、また優希の性分を考慮した結果だ。
それにも関わらず、レフィクルはここにいる。
その事が鈴に苛立ちを募らせる。
「怒るならユウキとフォルティスにしてくれ」
「二人に頼まれたのですか?」
「そういう事だ」
「二人のところに戻ってください」
「悪いが、それは俺の食事事情の問題で却下する」
「……凄まじく個人的な理由ですね?」
「だが切実だ。それに嫌な感じがしたのでな」
「――また隠し事ですか?」
掃除機を止め、鈴は座っているレフィクルに鋭く言った。
対し、レフィクルは苦笑した。
「心外だな。お前が聞かないだけだと言うのに」
「なら、聞いて答えてくれるのですか?」
「教えないさ。知る必要が無いからな」
「それを判断するのは私であって貴方じゃありません」
「全くだな。しかし、それでも言える。知る必要が無い、とな」
「……話になりませんね」
吐き捨てる様に言って、鈴は掃除機の電源を入れ、掃除を再開した。
「そう拗ねるな。誰も全てを教えないとは言っていないぞ?」
「別に拗ねていませんし、そちらの事情などどうでも良いのでご安心を」
「なら、それがユウキに関する事だとしたらどうだ?」
鈴は手を止め、顔だけを動かしてレフィクルを見る。
それを見て、レフィクルはやれやれという顔をした。
「つくづく友達想いだな。そういう馬鹿は嫌いじゃないが」
「賛辞は受け取りますが、早く本題に入ってください」
「了解した。ユウキの不規則性に心当たりがある」
紡がれた言葉に、鈴は呆然とし、掃除機が鈴の手から離れる。少しして、掃除機のホースの部分が床につき、激しい音を鳴らした。
「……どういう事です?」
「急くな。これは最も可能性が高い仮説に過ぎん」
「どういう事かと聞いているのです!」
「喚くな。近所迷惑だ」
「――っ!」
その瞬間、鈴は即座に武装し、出現させた剣の剣先をレフィクルに向ける。
「さっさと教えてください。その話題だと私は短気になります」
「案ずるな。お前の癇癪で殺されない程度の自信はある」
「減らない口ですね。それとも話す気が無いのですか?」
「ある。お前には教えておこうと思っているからな」
鈴はそれでもレフィクルに敵意を向けていたが、はー、と息を吐き出し、剣を消し、武装を解除し、掃除機を片付け始める。
「それで? どういう風に心当たりがあるのですか?」
「ずっと考えていた。お前が口走った言葉を」
「私が?」
「ユウキから俺や天使と対峙した時と同じ気配を感じ取れる、というものだ。全く、よくも黙っていてくれたものだ。何故教えなかった?」
「私の親友の人生に余計な事をするだろう人に話すと思いますか?」
「そういう事か。だが、それに関しては諦めた方が良い。お前やフォルティスがどれだけ策を講じようと、あの子は魔法少女なってしまうだろうからな」
「えっ――?」
それを聞き、鈴は放心状態に陥った。
感情がその現実を、完璧なまでに事実になるだろうその事を全力で否定する。
「……何、故?」
だから、その二文字を紡ぐだけでもかなりの労力と精神力を要した。
「それは――」
「それは、あの人がそうなる事を望んでいるからよ」
「……えっ?」
不意に鈴の耳をついたのは、少女の声。
でも、鈴が驚いたのは、唐突に聞こえた事ではない。
呆ける様に驚いたのは、その声を知っていて、でも聞けないと思っていた声で、だけどそれを発した者は、鈴の記憶と何一つとして一致しなかったからだ。
前触れも無く現れたのは、白を基調とし、赤が各所にあしらわれている特注品だろうコートをしっかりと身につけた黒髪黒眼の少女。その腰には短剣の柄が体の隙間からはみ出ている。
間違いなく、完璧にその姿は鈴の記憶と違う。
だからこそ、鈴は問いかけた。
「……貴女は誰です?」
「酷いね。ちょっと会わなかっただけで、親友の顔を忘れちゃったの?」
「……違います。貴女は――」
「違わないわ。私は正真正銘、紛れも無く、本物の外野智世よ」
「! なら、その格好は、その姿は何です! それはまるで――」
「当然じゃん。そこの悪魔から聞いてない? 今の天使は一般的な天使も含まれているが、『天の使い』という広い意味での総称である、と」
「――っ! なら……それなら……」
「流石に聡いね。そうだよ、鈴。今の私は『天使側』の魔法少女なの」
そう言って、白き少女――外野智世はレフィクルに敵意全開の視線を向ける。
「久しぶりね、レフィクル。許可が下りたから会いに来たわ」
「久しいな、トモヨ。そろそろ来る頃だろうと思っていた」
「久、しぶり……?」
動揺の中、鈴は二人を交互に見つめてながら呟く。
「……そういう関係だったのですか?」
「そうだよ、鈴。私も元々はそっち側だった」
鈴の問いかけに、智世は平然と答え、改めてレフィクルを蔑視する。
「しかしまあ、アンタって本当に節操無しね。まあもっとも、そのおかげで私が采配されたから、そういう意味で感謝してるけど」
「何でも人のせいにするな。リンにもきちんと前置きした上で了解を得ているし、ユウキの件は完全に不測の事態だ。後、ついでに言っておくが、お前が最初に口走った事は半分しか正解していないからな」
「親切にどうも。でも、別にどうでも良いわ。私はここに悪魔の手駒にされてる鈴や、手駒にされる事が確定しちゃっている優希を助け出すために参上したのであって、アンタと雑談するために来たわけじゃないし」
「手駒? 助け出す? ……何の話ですか?」
「リン、事情は――っ!」
レフィクルが言おうとした瞬間、虚を突いて踏み込んだ智世がレフィクルへ駆け寄り、容赦無く躊躇い無くレフィクルを蹴り飛ばそうした。が、それは鈴によって阻まれる。変身を完了させた鈴はレフィクルを抱きかかえ、二人と入れ違いに智世の蹴り上げが空を切る。
「……智世ちゃん、今本気で殺そうとしましたね?」
レフィクルを後ろへやりつつ、鈴は問い詰める様に尋ねた。
「当然よ。敵はぶっ殺すのが戦場の理だもの。鈴だってこれまで多くの『天使側』の魔法少女を血祭りにあげてきたじゃん」
「……『天使側』と来ましたか」
その情報をしっかりと味わい、
「なら、私は『悪魔側』というわけですか」
仮説を提示した。
拍手が上がる。
「流石よ、鈴。正解、正解、大正解。それなら――」
そこで、智世は言葉を止めさせられた。
鈴の不意打ちを防御した事によるものだ。鈴の攻撃はそこで終わりではない。防御されると認めるや、智世の胸倉を掴み、開け放っている扉に向かって自分諸共飛び出し、空の人となったところで智世を突き飛ばし、
「お喋りが過ぎますよ、智世ちゃん」
そう言って、指を弾いた。
直後、武器の雨が智世に降り注ぎ、智世を巻き込んで下へ、下へと落ちていく。
無数の破砕音が鳴り響く中、鈴は武器の雨を全身に受けた智世の前に降り立つ。
「……痛いなー、私が普通の人間だったら死んでるよ?」
と同時に、武器の山から無数の武器が刺さったまま、智世が現れた。
「そのくらいでは死なないでしょう、お互いに」
「だとしても、痛みはあるんだから、ちょっとは加減してよ」
「責め苦は私が勝利した後でゆっくりと承ります」
「……そう」
短く言って、智世は、
「――なら、聞けそうにないね」
「この状況で逆転出来ると?」
「出来るよ」
鈴の言葉にも平然とそう言い、
「だって、私は本命じゃないからね」
そして、不敵に微笑んだ。
それを見て、鈴は怖気を感じ取った。
「リン、上だ!」
と同時に、レフィクルの忠言が飛んだが、それは鈴には届かない。
届くよりも早く、その忠言は降り落ちてきた光線の轟音によって掻き消された。
それに気付き、鈴は光線に向かって、武器の弾丸を放とうとした。
しかしその時、何かが通り抜ける音が妙に大きく聞こえた。
それが何かと視線を落とすが、そこへ光線の洗礼が鈴へと降り注ぐ。回避は間に合わず、防御も間に合わず、光の洗礼を鈴は全身で浴びる事になった。
声にならない悲鳴が、光線の轟音と合わさり、二重奏となって響き渡る。
光線が消えると、焼け焦げた鈴は糸が切れた人形の様に崩れ落ちる。
(優希、ちゃん……)
そう思い、鈴の意識はプツリと切れた。
コップが落ちて割れた。
騒いでいたが、その音は室内に酷く、不気味なほどに響き、騒ぎは一瞬だけ静まる。が、すぐさま何事も無かった様に再開される。
(今のは一体……)
先の一瞬、優希の脳裏には嫌な予感が過ぎった。
虫の知らせの様に曖昧で、それなのに予知の様な確信するに足る強い感覚だ。
「どうした、ユウキ?」
そう聞かれつつ、肩を叩かれ、優希はハッと我に返った。
そちらを見れば、フォルティスが心配そうな顔をしていた。
「……今、変な感じがしなかった?」
「変な? いや――」
言いかけて、言葉を止めたフォルティスは、唐突に眉根を寄せ、
「――ユウキ、具合悪そうな演技をしてくれ」
優希に耳打ちし、
「皆、盛り上がっているところ悪いが、ユウキが具合悪そうなので、私達はこれで失礼する。また明日学校で会おう」
そう言い残し、引き止める声も無視して、優希を連れて店の外へ出る。
「――っ、何だこの気配は……」
そして、舌打ちしてからそう呻いた。
「気配って……、このとにかく嫌な感じ……の事?」
「ああ、そう――って、ユウキ、君はこれが分かるのか?」
優希がそう言うと、フォルティスは納得しかけ、ただならぬ雰囲気で聞いた。
その迫力にたじろぎつつ、優希は答えた。
「え? う、うん。この嫌な感じがそうなら……」
外へ出た時、優希はただならぬ圧迫感を感じ取った。とてつもなく大きな、それでいて見えない手で上から押し潰されている様なそんな感覚を。それ故にかなり息苦しく、喋るのも一苦労だ。
そんな優希を、フォルティスは一瞥し、
「――悪いが急ぐ故、無理を強いるが、しっかりついて来てくれ」
そう言うや、優希の手を掴み、夜の街を走り始めた。その速度は常人が出せる速度では断じてなく、風景が線となってしまっているほどだ。そういう速度のため、引っ張られている優希には喋る余裕も無い。
それでもどうにか、優希はフォルティスに話しかけた。
「先に、行って」
「何?」
それを聞いて、フォルティスは急ブレーキをかけた。その反動で優希の体は前に吹っ飛びそうになるが、フォルティスがしっかりと掴んで離さなかったので、優希はフォルティスの前に着地する。
「ユウキ、どういう――ちっ、相変わらず空気が読める連中だ」
ぼやいた瞬間、世界が唐突に変貌した。
あの白い、白い、白い、何処までも白い世界へと。
それ即ち、天使の襲来を意味する。
そしてそれは、鈴が窮地に陥っているだろう、という仮説を捕捉する。
駄目押しとばかりに、空から天使が降りてくる。
それを見て、優希はフォルティスにこう言った。
「……約束する。絶対に逃げ切ってみせるから」
「本当――いや、正気か?」
「こんな時に冗談は言わないよ」
無力な優希は、気持ちで訴えるしかない。それに勝算が無いわけではない。どういうわけか、こういう状況における危機的回避能力は凄まじい物がある。それは信用出来るものではまるでないが、この状況ではそれに縋るほかない。
沈黙は数秒。
少しして、フォルティスは一度目を伏せ、優希に背を向ける。
「出来るだけすぐ戻る。それまでどうにか切り抜けてくれ」
そう言い残すや、フォルティスは電光石火で天使の軍勢を掻い潜り、この場から戦略的撤退を計った。気持ちが伝わった事に優希は安堵し、
「――それじゃ、精一杯逃げ回るとしますか」
踵を返し、死の鬼ごっこを開始した。
「アキム、お前という奴は何処まで堕ちれば気が済む!」
舌打ちした後、レフィクルは空に向かって叫んだ。
「その台詞、そっくりそのまま返してやる、レフィクル」
そして、空から答えが返って来た。
遅れて、『それ』が空より舞い降りてくる。
『それ』とは、言うまでも無く天使だった。
だがしかし、見た者ならば誰もが思うだろう。この天使に比べれば、他の天使など愛玩動物の様に可愛い存在だ、と。
次元が違う、という話ではない。目を合わせただけで、心が折られ、戦うという意欲が塵となって吹き飛ぶ、理不尽な絶望が形となった、そんな存在規模。
一目すれば、誰でも一瞬で理解に至る。
これが、天使、だと。
アキム、と呼ばれた天使は、歳若い金髪碧眼の男の姿をしていた。智世が着ている衣服の男性用だろうコートを着用し、背には左右三対の六枚の翼。その姿は何一つとっても絶対的なまでに天使だった。
降り立ったアキムは、智世を一瞥する。
「口が過ぎるぞ、トモヨ。そこまでのサービスを許したつもりはない」
「でも、矢のトドメは完璧だったでしょ?」
智世は得物を掲げて見せた。手には双剣を繋げて、光で構成された弦が張られている弓が握られている。
それを一瞥した後、アキムは智世の体を見て、ため息をつく。
「それは言えているが、割に合っていない」
対し、智世は肩を竦める。
「目的は達成したんだから、そこは大目に見てよ」
それを聞いて、アキムはまたため息をついた。
それから、遥か頭上にいるレフィクルに視線を向ける。
「アキム!」
そこで、少女の怒声が割り込んだ。
ついで、真紅の大鎌が空を回転しながら裂き、アキムへと向かった。
直撃――と思われた瞬間、アキムは動き、片手で大鎌を軽々しく白羽取りする。そこへフォルティスが追いつき、柄を掴んで回収し、双方の間に割って入る。
そうして登場したのも束の間、フォルティスは鈴を抱きかかえるや、脱兎の如くその場を離れた。それにはレフィクルもついていく。
かくて、戦場だった場所にはアキムと智世の二人だけとなる。
しばらくして、智世はケラケラと腹を抱えて笑い始める。
「あはは! アイツ、負けた鈴を連れてってどうするんだか!」
「仕方ないだろう。奴は単独行動故、『暗黙のルール』を知らないからな」
「なるほど。でも、それならレフィクルが何も言わなかったのは?」
「さあな。負けていないと判断したのか、奴には奴なりの理由があるのか」
「理由? 理由って何の理由?」
「ユウキ=カミシロを魔法少女にする理由に決まっているだろう」
そう言って、アキムは身を翻し、数歩歩いて軽くしゃがみ、飛び上がった。軽やかな跳躍だったが、アキムの身は遥か上空へと浮かび上がる。それはまるで、天使が天へ戻っていく様な軽やかさだった。
「優希を魔法少女にする理由、か……」
智世は吟味する様に呟き、フォルティスが逃げ去った方向を見る。
「……ま、私にとっては好都合だから何でもいいわ」
そう言い、智世もアキムの後を追った。
「間に――た」
「お前――して――だ?」
「仕方――? 俺には――」
「だが――では――なのだ?」
(う……)
鈴の意識は、肌を刺す風と話し声によって覚醒へと促された。
覚醒して初めて感じたのは、不快感。少し考えて、口の中が切れて血で一杯になっているからだ、と分析する。ついで、胸に痛みを感じた。また少し考え、智世の攻撃を食らった時に出来た傷が疼くのだ、と分析する。それらが認識すると、今度は全身から激痛を感じ取った。聴覚と視覚が戻ってきたのは、それからだ。
目に飛び込んできたのは、白い町並み。
耳についたのは、遠くだが爆発のそれだと分かる音。
「ここ、は……」
「起きたか」
その声を聞き、鈴は大凡の状況を把握し、
「な、何故貴女がここに!? 優希ちゃんを置いて何してるのですか!? というか、何故私は平気なのですか!? 私は確か智世ちゃんに負けたはずです!」
矢継ぎ早に尋ねた。
それを聞き、フォルティスは小さく笑った。
「それだけ元気があれば平気だな」
「笑ってないで質問に答えてください!」
「答えてやるから落ち着け。落ちたいのなら話は別だが」
トン、と軽やかに着地し、二人の体は重量を感じさせない軽さで宙へと浮かび、裂いた空気が肌を刺し、髪と衣服をはためかせる。
「現状把握は終わったか?」
また建物の屋根に着地し、再び飛んだところでフォルティスは尋ねた。
「ええ、お陰様で」
「結構。まずはユウキの事だが、これに関しての文句は本人に言ってくれ」
「優希ちゃんが……? 自分の方がずっと危険なのにどうして……」
優希の不規則性は、接触すればもちろん、強者ならば遠くでも感じ取れてしまうほど強大な代物である。それ故に、利用しようとしても諸刃の剣であり、ならば排除してしまおうと誰もが思う。そして、昨日の接触により、優希の存在は、優希の不規則性は天使側に伝わっている。故に、現状、もっとも命の危険があるのは、それを有している優希を置いて他にいない。
「本人も自覚しているし、私も止めたさ」
「なら――」
「……どうしてか、賭けてみたくなったのだ」
「……正気ですか?」
「安心しろ。これでも自覚している」
だが、とフォルティスは一度区切り、また屋根を踏み台にして、跳躍した。
「あんな目で見られたら、賭けたくなるのが人の情というものだ」
「目?」
「ああ、あの目か」
並走していたレフィクルが何と無しに言った。
「それには同意だ。俺もあの目を見て、血迷った事をしようとしたからな」
それを聞き、心当たりがある鈴は閉口した。
大小はさておき、何らかの危機的状況に陥った際、優希は決まってそういう目をするのだ。何の根拠も無いはずなのに、どうしてか信じてみたくなる、賭けてみたくなる目を。だから、レフィクルは危険性を承知の上で優希を魔法少女として危機を乗り切ろうとしたし、フォルティスは文句を飲み込んで優希を一人で置いて来たのだろう。あの目を知っている鈴だからこそ、二人の気持ちは分かる。
「時にリン、戦闘行為は行えそうか?」
不意にフォルティスが言った。
何故――そう思考しようとした鈴だったが、問わずとも答えは眼下にあった。白い大地を小さな黒点が白の波から放たれる炎や水冷、雷撃、疾風、光線を神技と言える超回避を行いながら、ひたすら逃げていた。
「鬼だ。鬼がここにいる」
「黙れ、役立たず悪魔。刈り取るぞ」
「仕方ないだろう? 俺には動けない理由があるのだ」
「知っているが、それでもやり様はいくらでもあっただろう?」
「戯け。そんな物が無いから、人間を巻き込まざるを得ないのだ」
「そうなのか? 知らなかったよ、悪魔」
「アイラスの野郎……ちゃんと教えておけ、と伝えておけ」
「アイラスを怒るな。私が無関心だっただけだからな」
「……お二方、歓談は後にしましょう」
内容に興味はあったが、目の前の窮地を放って置くわけにもいかないので、鈴は一人と一匹の会話に横槍を入れた。一匹はそれで口を閉ざし、
「それで? 行けるのか、リン?」
それを聞き、鈴は白の波を一瞥し、
「今の残存魔力では、二十本の召喚がやっとです」
自分の体力、精神力と相談し、はじき出した限界を口にした。
「それはお前が動けるだけの力を省いた数か?」
「……それなら半分です。足りますか?」
「十分だ。じゃ――」
「フォルティスさん、それにレフィクル、智世ちゃんの事は――」
「分かっている」「言うわけ無いだろう」
鈴の頼みに対し、一人と一匹は即座に返答し、
「それじゃ、頼むぞ」
続け様にそう言い、フォルティスは鈴から離れ、白の波へと突っ込んだ。
一方、支えを失った鈴は落ちながら、十本の武器を召喚し、虚空に展開させたそれらをフォルティスに当たらない様に弾道を調整し、白い波へと射出した。
(かあー、やっぱ格好付け過ぎた!)
実質的には数分、体感的には数時間の鬼ごっこにより、優希はかつてないほど疲弊していた。もう気力で動いている。足も肺も悲鳴を上げ、自分自身でもどうして走る事が出来ているのか分からず、動いている事が不思議なくらいだ。
(でも、約束したからね……)
そう思うだけで、活力が内から湧いてくる。
優希を信じ、自分の思いを堪えて、鈴を助けに行ってくれたフォルティス。
自分が傷ついたら、心配してくれるだろう鈴。
そんな二人に答えるには、明日全身筋肉痛に悩まされるとしても、過労により明日から走れなくなったとしても、今この現状だけは何としてでも逃げなければならない。それが、首を突っ込んだ自分が出来る少ない事だと思うから。
しかし、現実というのは往々にして無情だ。
そしてそれは、期待すればするほど、頑張るほど牙を向く。
意気込んで踏み込んだのが祟ったのか、体が限界を越え、止まらなければならない臨界点に到達してしまったからか。
その瞬間、優希の足は不運にもつった。
あ、と思った瞬間には、地面が迫り、前のめりに派手に転んだ。かなりの勢いで走っていたからか、何回も転がり、十回くらい回転したところで止まる。
全身は痛みを訴えたが無視して、優希は走り出そうとした。したが、臨界点に到達した下半身は、優希の思いに反して言う事を聞いてくれなかった。
「くそっ! こんなところで!」
堪らず優希は大声で叫び、それでも必死に足掻いた。
「――お疲れ様」
その時、優希の耳は待ち望んだ声を捉えた。
次の瞬間、少量の武器の雨が天使の軍勢へと降り注いだ。ついで、赤い影が武器の雨が降り注いだ場所へと降り立ち、その衝撃波で何体かの天使が宙へと浮かび上がった。が、赤い影――フォルティスは気にせず、戦闘行為を開始する。
途端、赤き破壊の風が白い世界に吹き荒れた。
赤い風が吹き荒ぶ度に、天使は一体、また一体と糸が切れた操り人形の様に崩れ落ちる。攻撃は繰り出されるも、触れるのは風の残滓だけで、それを認めた瞬間に一体、また一体と膝を折り、白い大地に横たわる。
「ユウキ、体勢を低くしていろよ!」
叫んだ瞬間、白い世界が朱色に染まり、真紅の大鎌の刃先は巨大になり、
「ジャッジメントスラッシャァアアアッ!!」
その一喝と共に、赤の大一閃が残る全ての天使に襲い掛かった。それから逃れられる天使はおらず、一人として余す事無く、刈り尽した。
沈黙が訪れる中、フォルティスは振り切った大鎌を操り、
「――断罪完了。お前らの来世に幸が多い事を」
柄を白い大地に打ち付ける。
それを合図とし、天使達は一斉に崩れ落ちた。
その音を聞き、フォルティスは大鎌を手放し、両手を広げる。すると、そこへ鈴が落ちてきて、すっぽりと収まった。
「……はは、凄いや」
それを見た瞬間、優希の緊張の音がプツリと切れる。
その瞬間、体からの警告なのか、ドッと疲れた押し寄せ、眠気に襲われた。
「――あー、駄目。今……」
抗おうとしたが、抗い切れず、優希はまどろみに身を委ねた。
「優希ちゃん!」「ユウキ!」「ユウキ!」
二人と一匹は切迫した声を上げるが、優希は聞いていなかった。