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報復へのプレリュード


 私は瑞貴の自宅で手持ちの武器を点検をしていた。催涙スプレーや投擲型催涙ガス缶の使用期限、神経パルス兵器マイオトロン、シュアファイアのバッテリー残量などを確認する。

 私が今手にしているのは射出型遠距離用スタンガン『テーザー銃』である。

 テーザー銃は自分が所持する武器でとっておきの得物である。ワイヤー付きダートを跳ばして標的に打ち込み、電流を流してショックを与える非致死性武器である。

 武装願望が強い私は、アメリカから個人輸入代行業を通してこれを入手した。非致死性とは名ばかりで実際に死人も出ている程の威力で、銃器と遜色ないものといってよい。

 過剰防衛と誹られようが一行に構わない。

 もう暴力には絶対に屈しない。

 私はそう心に決めていた。瑞貴の告白を聞いた以上は――。

 あの後私達は、瑞貴の部屋に戻った。気落ちしている瑞貴を勢いに任せて迫るような真似はしなかった。そこまで私は無神経な男ではない。

 いや、求めれば、瑞貴は確実に私に応じてくれるだろう。だがそれは、蓮沼が瑞貴に行なった行為と同じことに思えてならなかった。

 ここ数日、気まずい関係が続いていた。

 瑞貴は朝食を終えると、自分の知り合いや芸能関係者に当たりを掛け、直接聞き込みへ出向いていた。

 私をどこか避けているように思われた。

 無理もない。

 瑞貴の行動は、私の為というより自らの喪失感を埋めるための代償行為に近いものだろう。

 本気で芹沢玲香に報復するつもりなのだろうか。

 おりを見て、意志を確認しておかなければならない。

 私の方はと言えば、調査が完全に行き詰まっていた。

 蓮沼から引き出した情報はこれと言って有力なものは無かった。

 一番インパクトの大きいものは、皮肉にも瑞貴と蓮沼が肉体関係があったという体たらくぶりだ。

 奥野の線が断たれた今の私にできることはせいぜい芹沢宅の張り込みか、情報集めしかなかった。

 とりあえず目新しい情報が入ってきていないため、目黒にある芹沢宅の張り込みを行なうつもりだった。

 芹沢玲香の誕生日まで三週間を切っていた。

 武器の点検を終え、アタッシュケースに収めると、私は防刃ベストをスーツの下に着込み、車へ向かった。車は瑞貴自宅近くの月極駐車場に止めてある。

 運転席に座ると、私は携帯を取り出した。

 着信履歴があった。宮島だった。

 あまりのタイミングに小躍りする思いだった。私は通話ボタンを押す。電話はすぐに繋がった。

 ――……ああ、どうも根津さん。

 宮島の様子がおかしかった。声からでもすぐに分かった。

「……何かあったか?」

 ――いいえ、特には……。根津さんこそその後大丈夫ですか?

 私は心配が杞憂に終わったことに、安堵した。

必要以上に慎重になりすぎている自分に苦笑する。

「……いろいろあった。まあ、それはいい。何かネタでも入ったか?」

 ――伊沢達也第二弾です。

「……なんだと」

 私は思わず声を上げていた。

 ――……今週の週刊FINSHに掲載されます。

 週刊FINSH――ショットアップと双璧をなす老舗の写真週刊誌である。

 スクープネタのインパクトはショットアップより劣るが、時代の流れを読むセンスは抜群で、数ある写真誌が休刊に追い込まれた中、紙面を変転させる事で生き残ってきた。

 中高年層の心を掴み、生き残ってきた実績は伊達ではない。

 ――伊沢の事務所弱いですからねえ、叩きやすいんですよ。で、まあ今回のネタがまた、パンチが効いているというか……。

「……もったいぶるなよ。なんだ?」

 ――わかりやすく言えば、乱交パーティですわ。仲間とカラオケボックスかどこかで撮られたみたいです。

 当事者で無いにも関わらず、私は目眩がした。

 ――しかもツーショットの写メ画像の一緒に掲載されます。女の方は目線は入ってますが、馬鹿面をした伊沢が楽しそうに写ってますよ。

 携帯を握る手が震えている。

 ――まあ、本当の標的は藤崎でしょうね。伊沢を叩くことで藤崎を間接的に攻撃する、と。

 セレブのタレントである藤崎を叩くことは不可能だろう。セレブのマスコミ対策は万全である。

 しかし、相手側の方は話が別である。対応は遅れてしまうし、セレブと違いマスコミを黙らせるだけの力が無い。

 今回のスクープは伊沢のイメージを落とす意図もある。

 馬鹿な男と付き合っていれば、藤崎自体のイメージも悪くなる。藤崎も同じバカだと世間は認知するということだ。

 これにより藤崎はタレント生命に赤信号が点ることになるのは目に見えている。例の携帯電話のイメージキャラクター争奪戦から藤崎は完全に脱落するだろう。

「……芸翔なのか?」

 私は宮島に尋ねた。答えを聞くのが怖かった。

 ――……わかりません。でも掲載誌から察するに間違いないと思います。ただ、最近の週刊FINSHでは芸翔系のタレントがグラビアで幅を利かせていますから……。

 芸翔との関係が深いということだ。

 ――……当分は尾を引きそうですよ。物部の奴ですけど、怒り狂ってるらしいですよ。さっそく手下に裏取りさせているみたいです。

 宮島の言葉に胃が重くなる。まだ、先日のリンチの傷も治り切っていない。

「セレブの曽根崎という男を知っているか?」

 私は宮島に尋ねていた。

 ――ああ、あの元刑事とかいう男ですよね……?

「……なんだと!? 確かなのか?」

 私は思わず大声を出した。

 ――ええ、確か元警視庁のマル暴担当です。物部に引き抜かれて、タレントのクレームやトラブルの処理をする今の仕事に……。ある意味、ヤクザよりタチが悪いっすね。

 タチが悪いなどというものではない。国家権力が絡んでくるなど考えもしなかったことだ。

 すぐに身を隠して正解だったようだ。曽根崎に押し付けられた煙草の火傷が疼く。

 ――以前、警視庁詰めの番記者から尋ねられたことがありまして……。確かな情報ですよ。有能な刑事だったらしいですが、不祥事やらかして馘になったって……。

「今でも警察と繋がりはあるのか?」

 ――どうでしょうね。色々便宜は計ってもらってるんじゃないんですか?

 宮島は憂欝になることをさらっと言う。

 ――でも身分証が無い警官なんてツブシききませんから。

「金を積まれればどうかわからないだろう。何せセレブの資金は潤沢だ」

 確かに元警官などプロの探偵から見れば調査能力など足元にも及ばない。

 所詮は国家権力と身分証が無ければ聞き込みもままならないような連中だ。

 だが、官憲のコネが今も生きているならば、話は別だ。

 ――……奴になんかされたんですか?

 宮島の声に緊張が走っていた。

「近々、キャバクラで飲もうか。宮島ちゃんともっとゆっくり話がしたい」

 ――……なんすか、急に?

「次会うときまでに、曽根崎に関しての情報を集めておいて欲しい。家族構成、現住所、女性関係、過去の実績、何でもかまわん。番記者の方に問い合せてみてくれ。大至急頼む」

 返事がない。

 電話の向こうでさぞかし嫌な顔をしているだろう。

「……もちろん私の奢りで、だ」

 ――本当ですか! 絶対ですよ!!

 現金な男だった。

 私は苦笑すると「了解した」と言い、電話を切った。

 宮島の情報を整理するため、私は思索に入った。

 写真の内容から推測するに、明らかに伊沢周辺の人間からの流出と見て間違いない。

 だが、もし芸翔の謀ならば私に一言あってもいい筈である。

 このネタは私が提供したも同じだ。

 私の仕事の成果をこんなふうに利用されるのは不愉快極まりない。私は芸能記者ではない。まして、芸翔と連むつもりはない。

 何より曽根崎という男に私は脅迫されている。当然、私の立場も危うくなる。

 伊沢と曽根崎のネタに動揺し、宮島に芹沢のパーティーに関する情報の裏取りをすっかり忘れてしまったことに舌打ちしながら、私は事の真偽を確かめるに神山に電話をした。

 ――耳が迅いですな。

 神山は電話の奥で笑っていた。

「では、やはり……」

 ――ええ、今回は我々が仕掛けました。

 事無げに言う神山の言葉に、私は思わず携帯電話を握る力が強くなった。

 ――……まあ、何かと根津さんにはご迷惑をかける形になると思いますが、ご了承ください。

 神山はぬけぬけと言う。

 つまりこれでセレブは本気になるということだ。

 私は文句を喉の奥で飲み込むと「どこでこのネタを?」と訊いた。

 声が笑えるくらい擦れていた。

 ――貴方の調査結果を元に伊沢周辺の人間に近付き、買収しました。少々金は使いましたがね……。

「伊沢の画像を撮ったのも……?」

 ――金で雇った人間です。芸能人志望の娘でね、事務所に所属させることを条件に伊沢をハメろ、と。簡単でしたよ。

 女と金による妨害工作――さぞかし札束を積んだのだろう。

 こんなに露骨に妨害工作を仕掛けるなど予想外だった。

 芸翔の巧妙な遣り方に、私は思わず舌を巻いていた。

 と同時に芸翔への不信感が決定的なものとなった。雑誌側にも相当な圧力を掛けたのだろう。物量作戦にも程がある。

 なぜ、そこまで本気になる必要がある――?

「事前にご相談いただきたかったんですが……」

 私は感情を抑えながら抗議じみたことを言った。

 ――なぜですか?

 神山の一言に、冷水を浴びせられた思いだった。

 ――私は貴方の調査結果を金で買った。それをどうしようと私の自由でしょう。それに貴方はおっしゃったじゃないですか。妨害工作の類いはしない、と。

 ふざけるなと、怒鳴り散らしてやりたかった。

 これで私の危険が増すということだ。

 馬鹿正直に調査報告書や証拠記録を渡したことを悔やんだ。神山は私を完全に使い駒としてしか見ていない。

 だが、今は耐えるしかない。瑞貴の為にも――。

「……そうですね。少し僭越でした」

 電話の奥で神山の笑い声が聞こえた。胃が灼けるように熱くなる。電話であるということが、唯一の救いだった。

「……物部が黙ってはいませんよ」

 ――でしょうね。

 神山は物部をまったく脅威としていない。さすが芸翔のトップである。

 ――藤崎には別の写真を送りました。まあ、これも彼女も暫くは仕事に手が付かないでしょう。

 嫌がらせにも程がある。クライアントながら神山のやり口に反吐が出そうなほど、胸糞が悪くなる。やはり大手の仕事など受けるべきではなかった。後悔が引く。

 神山との通話が終り、携帯をしまおうとすると電話が震え、着信ランプが瞬いた。

 非着信だった。相手は容易に想像できた。

 電話を出るかどうか、逡巡した。意を決し、私は通話ボタンを押す。

 ――根津だな……?

 聞き覚えのある濁声に顔中が熱くなる。

 曽根崎だった。

 私の予感は的中した。痛み付けられたことが鮮明に蘇る。

 すっかり治っているはずの左手の甲の火傷が疼くような錯覚に襲われた。胃がヒリヒリする。

 ――今回のこともお前が絡んでるのか?

「……伊沢達也のことですか?」

 私は会話を矢継ぎ早に行なった。少しでも間を作れば、私への容疑は決定的なものとなるだろう。事態を収束させるために、私が生贄になることもありうる。

 それだけは絶対に避けなければならない。

 ――……そうだ。

 曽根崎は肯定した。

 私は会話を繋ぐために「一つ有益な情報をお教えしましょうか」と切りだす。

 ――なんだ?

「今回の件、首謀者は芸翔の神山さんですよ」

 ――それで?

「……これで貴方の仕事が一つ省けた」

 ――俺を舐めてるのか……?

 曽根崎は私の冗談を受け付けなかった。また、受話器の奥で煙草を吸っているのだろうか。そんな想像を私はした。

 ――どこでその情報を仕入れた?

「――ネタ元は明かさないのが私の主義でね。真偽のほどは御自身で取られたらどうですか」

 我ながら上手いかわし方だった。

 曽根崎の苛立たしげに息を吐き出す様が聞こえる。

 ――……腐ってもプロだな。あの後からお前の居場所がつかめない。

「もう、これ以上あんな目に会うのは嫌ですからね」

 ――……どうだ。もう一度会って、痛い目に会うか?

 曽根崎の言葉に身が竦む思いだった。

 そんな話に乗る訳が無い。今度こそ半殺しになる。

 次の一手をどう打つか、頭をフル回転させる。

 言うべき言葉はすぐに思いついた。

「……そうですね。それもいいかもしれない。もう少し考えさせてください」

 ――……本気で言っているのか?

「この前の話ですよ。ネタを買い取るという……。決心がついたらお電話します。ですから曽根崎さんの電話番号をお教え願えますか?」

 ――……会社の方でいいのか?

 曽根崎の声のトーンが変わった。警戒しているとすぐに分かった。

「でしたらこの話は無しだ――」

 私はきっぱり断った。

「何か情報が入ったら真っ先に曽根崎さんにお伝えしようと思ったんだが……残念ですね」

 ――……どういう心境の変化だ?

「……いや、別に。あんな暴力ふるわれたら誰だってそうなるでしょう。そのおつもりで私に脅しを掛けたんでしょう」

 いつのまにか、また心理戦になっていることに私は苦笑した。

 だが今回は違う。私の方が、いささか優勢のようだ。

 森川の居場所がつかめず、前回とそして今回のスクープ騒ぎによる藤崎潰し……セレブ陣営側の焦りを感じずに入られない。

 それは曽根崎の焦りでもある。

 曽根崎はさぞかし上の人間に責っ付かれているのは容易に想像できる。私に電話を掛けてきたことがその証拠だ。

 私は曽根崎の状態を図らずも看破したことに落ち着きを取り戻していた。

 攻めるなら今だ。

「……貴方だって、森川さんの居場所がお知りになりたいんでしょう?」

 私は曽根崎に尋ねた。

 ――依頼人を裏切るつもりか?

「……居場所を探せとは言われたが、捕まえろとは言われていない」

 沈黙。

 曽根崎は今、混乱している。

 私はついに曽根崎に対し有効打を放ったのだ。私はそう判断した。

 完全に私のペースだった。

「元警察官でも、芸能マネージャーの居場所を知ることは困難と見える……」

 刹那、会話が止まると

 ――調子に乗るなよ……!

と、怒気がこもった曽根崎の言葉が返ってきた。

「……疼くんですよ」

 私は怯まなかった。

「貴方にやられた煙草の火傷が、ね」

 私は火傷の後を擦りながらそう答えた。

 曽根崎は沈黙する。

「……元刑事さんなら、携帯電話などから森川を追うことだってできるんじゃないんですか?」

 私は曽根崎を挑発するように言った。

 ――簡単に言うな。昔の伝手を使えるならこんなに苦労はしない。

「――でしょうね。でなければ私にこんな揺さぶりを掛けてくる必要もないでしょうから」

 沈黙。

 案外、昔の仲間に頼らないのは曽根崎なりの矜持かもしれない。

 つまらないプライドだった。つまり曽根崎はその程度の男ということだ。

「……現実的なお話をしましょう。ギャランティはお幾らほどになるんですか?」

 曽根崎は答えない。

「芸翔が提示する額の二倍でしたね。もっとちゃんとした具体的な金額を提示していただけませんか?」

 曽根崎は再度沈黙する。

 どうやら、ハッタリだったようだ。あまりの御粗末さに私は笑いが込み上げてきた。

「……お話になりませんな」

 ――幾ら欲しいんだ?

「……貴方が金を払うわけじゃないでしょう」

 私は曽根崎を嬲っていた。

「まず上司とよく御相談の上、もう一度お話合いをしましょう。お話はそれからだ」

 曽根崎の無言は続く。

 意外に抵抗されると、弱いらしい。

「……断っておきますが、後で脅迫されたなんてふざけたことは言いっこなしですよ。もっとも、そんなしょっぱい手は元警官の方なら、恥ずかしくてお使いにはならないでしょうけどね」

 電話の奥から舌打ちが聞こえる。

 曽根崎は、自尊心を大きく揺さ振るようなやり方が一番効果的のようだ。

 ――……いいだろう。

 曽根崎は私に自らの電話番号を教えると電話を切った。

 緊張が解けると疲労感が一気に吹き出す。

 だが、心地よい疲労だった。私の口の端が弛んだ。

 初めて曽根崎に一矢報いた気になった。


 私と瑞貴は原宿で合流することになった。

 藤崎のスクープや曽根崎からの電話など、事態の急変を受けて、私は瑞貴と連絡を取った。

 蓮沼の件に拘っている状況ではなかった。

 瑞貴と話し合い、今後の計画や行動を修正する必要があった。

 原宿に到着すると、午後三時を回っていた。

 平日だというのに、街は若者たちで溢れかえっている。

 学校帰りの学生の姿も多かった。

 瑞貴が指定したのは竹下通りにあるヘアサロンだった。

 美容師でも聞き込みをかけたのだろうか。

 原宿竹下通りは美容室で犇めきあっている。立地条件と話題性が、一旗揚げようと思っている野心家な美容師たちのメッカだ。実に浅ましい限りだ。

 私自身、仕事で原宿周辺を張り込むことはよくある。ファッション誌を開けば、芸能人たちの行きつけの店が紹介されている。それから行動範囲を手繰っていくことはままある。

 ヘアサロンは原宿の裏通りの細い路地の先にあった。

 私はヘアサロン近くのコインパーキングに車を止め、瑞貴が来るのを待っていた。

 店内が外から見えるガラス張りの店舗で、外観は女性受けしそうな白を基調にした金を掛けた作りだ。席はすべて客で埋まり、スタッフが洗髪やカットなどの施術を行っている。

 繁盛しているようで、若い女が引っきりなしに店に入っていく。

 よく予約が取れたものだ。

 数分で予約は埋まるという話だから、もともと予定にあった行動なのだろう。

 このヘアサロンの事はよく知らなかったが、瑞貴が利用するくらいなのだから、有名な店なのかもしれない。

 車中で、私はシートを倒し、横になりながら気を揉んでいた。

 瑞貴とどんな顔をして会えばいいのか、分からなかった。

 公園でのことが頭を掠める。

 涙に濡れた瑞貴をフォローできずにいた自分が腑甲斐無かった。

 軽口や冗談は苦手なほうではないが、あんな状況ではさすがの私もなす術はない。

 昔からそうだった。修羅場や愁嘆場になると言葉が出なくなる。

 嵐が過ぎさるのをじっと待ち、言い訳を諦める。

 私は軽い疲労感を感じ、いつしかねむりにおちた。

 ガラスを叩く音が聞こえ、私は目が覚め、身を起こす。

 一人の女性が立っていた。

 瑞貴だった。

 思わず我が目を疑った。

 私は助手席のドアを開ける。

「こんな時にって思われるかも知れませんが……」

 瑞貴は言う。

「……いいえ」

 瑞貴の長く美しい黒髪が、肩に掛かる程度まで短くカットされていた。

 印象がまるで違っていた。

 長い髪の時は大人の女そのものだった。

 だが、今の瑞貴は陰の美しさに、陽の美しさが加味され、若返った感じになっている。

 陰気な印象を吹き飛ばすような溌剌さが、全身から放たれている。

 気恥ずかしそうに視線を泳しながら「似合いますか?」と瑞貴に尋ねられたとき、言葉が出なかった。

 不覚にも自分の状況を忘れそうになった。

「よく似合っています。とても……」

 私は慌てて答える。

 まるで中学生のような受け答えだった。

「……本当ですか?」

 恥ずかしそうに尋ねる瑞貴に、私は「ええ」と頷いた。

 髪型を変えることで、心機一転を図ったのだろう。

 私には瑞貴なりの決意の表れに思えた。


 強い女だ。

 素直にそう思った。


 生まれ変わった瑞貴のお陰で、私の中で蓮沼の事が完全に消え去っていた。

 瑞貴は助手席のドアを開けると、乗り込む。

 いつもの瑞貴から伝う柑橘系の体臭が鼻を擽る。ざわめいていた自分の心が、落ち着いていくのが分かった。

「新たな瑞貴さんを祝して、どこかで食事をしましょうか。もちろん今後の打ち合せを兼ねて」

「はい」

 瑞貴の声は弾んでいた。

 瑞貴に感化されたのか、私の気分も弾んでいた。

 焦るべき状況でありながら、むしろそれを楽しむように、私はエンジンのキーを回した。


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