復讐への誓い
目が覚めると身体の痛みはより酷くなっていた。
やっとのことで身体を起こす。ギシギシの身体を引きずりながら、私は瑞貴の姿を求めていた。
寝室を出てリビングに入ると、瑞貴がテレビを食い入るように見ていた。
「……ああ、起きたんですか?」
私に気が付くと瑞貴は、立ち上がり近付く。
壁の時計を見ると、まだ朝の7時を回った位だった。
「まだ、寝ていたほうが……」
瑞貴が心配そうに言う。
「いえ、大丈夫です」
痛みで二度寝は無理らしい。私は瑞貴の向かいへ回り、ダイニングテーブルの椅子にやっとのことで腰を下ろした。まるで老人のようだ。
瑞貴は、Tシャツにスエットのズボンを履いていた。
コンタクトではなく、眼鏡を掛け、髪を後ろで縛っている。普段着の瑞貴も、魅力的だった。
「お腹すいていませんか?」
「ああ……ええ」
食欲は無かった。にもかかわらず、私ははっきりと断らなかった。
瑞貴の心遣いを無下にはしたくなかった。
「何か作りますね」
瑞貴は立ち上がりキッチンに向かった。
私は瑞貴が腰掛けていた椅子を見た。ソファーには毛布が置かれている。
私に寝室を譲り、瑞貴はソファーで夜を明かしたことを知り、気が引けた。
オートロックに、来訪者確認用のモニター付きインターフォンと、セキュリティシステムは万全のようだ。1LDKらしく、部屋の中は掃除は行き届いていて、きちんと片付けられてる。フローリングの床は塵一つない所からも瑞貴の性格が伺える。
テレビなどのAV機器が充実している。映画のDVDが重ねて置かれ、意外にもテレビゲーム機器がある。
棚には化粧道具や香水と供にダイエットサプリメントの壜や缶、箱が並んでいる。
壁には時計の他にリトグラフが飾られている。
芸能人というより一人暮らしのOLのような部屋だった。
部屋の隅には観葉植物と共に全身が映るような大きな姿見の鏡がある。ペットや男の匂いのするようなものはない。
この部屋で奇妙な部分が一つあった。
カーテンが完全に閉めきられている。光が遮られ、まったく入ってこない。
まるで瑞貴の心を象徴しているかのようだ。
キッチンでは瑞貴が冷蔵庫の中を確認している。
水回りは充実していて、調理器具揃っている。料理は得意そうだ。
瑞貴が奏でる包丁の音を聞きながら、私はテレビを見た。
ニュース番組だった。
昨日の化粧会社の新製品発表の記者会見イベントの様子だった。
芹沢玲香だった。
自社の新製品である口紅を手に持ち、フラッシュを浴びている。
アルカイック・スマイルを浮かべ、商品をアピールしていた。画面には映らない記者たちに、めいいっぱい振り撒いている。
たった数十時間前の出来事だった。
あの後、私は地獄の落し穴へはまりこんだのだ。
曽根崎から受けた暴行行為が、本当に昨日の出来事だったのか、まるで昔の記憶のようなどこか不鮮明で、現実感がなかった。
おそらくだが、あまりの恐怖と痛みとの記憶の為に、脳が完全に再現を拒否しているのだろう。
だが対照的に、芹沢との邂逅の記憶は私にとって鮮明すぎた。
昨日まじかで見た、性悪さは微塵もない。
白いワンピースを纏い、清純さをアピールしている。
とんだ道化だった。でなければ茶番だ。
テレビというフィルターで芹沢の存在感を適度に抑制してくれる。やはり芹沢玲香は向こう側の人間なのだ。
だが、真実を見た私にはモニターの芹沢玲香がが美しさを通り越してひどく醜悪に見えた。
瑞貴が料理を運んできた。
お粥だった。気遣いに涙が出る思いだった。
スプーンを取り、私は粥を啜った。短時間で作った割には、美味かった。
顔への攻撃は無かった為、口に入れることはできるが、胃はまだ焼けるように熱い。
瑞貴は向かい側に座るとテレビに眼を向ける。
テレビでは放送時間を稼ぐ為に、芹沢のネタをリピートしている。
瑞貴の横顔は能面のようだった。冷静を装ってはいるが、内心は穏やかではないだろう。
痛みと気まずさでますます食欲は失せていくが、私はお粥に手を付けた。
煙草を押しつけられできた手の火傷が疼き、スプーンを落としそうになった。
さすがに完食はできなかった。瑞貴に悪いとい思いつつも、私は皿に粥を残し、スプーンをテーブルに置いた。
「どこか遊びにでもいきませんか?」
私は瑞貴を誘っていた。
一拍置くと、「そんな身体で……ですか?」と呆れたように瑞貴は言った。
「お互いに今必要なのは、気晴らしのようだ」
自分を労わることより、まず瑞貴を元気づけたかった。
瑞貴は苦笑すると、「お気を使わなくて結構ですよ」と言った。
「……一般人の誘いに芸能人の方はやはり乗っていただけませんか?」
「そんな意味で言ったんじゃありません」
瑞貴は否定する。
冴えない顔だった。瑞貴の悲しそうな顔を見るのは忍びない。
「……それにわたし、芸能人じゃ有りませんから」
「じゃあ、一般人同志、大手を振って表を歩けますね」
私の言葉に瑞貴は一瞬きょとんとすると、吹き出した。
「わかりました」
瑞貴は観念したように言った。
「実は観たい映画があるんです。付き合ってもらえますか?」
「……映画か。いいですね」
私は瑞貴の提案に同意していた。
嫌な現実を忘れるには、物語に浸るのが一番いい方法かもしれない。
私はテレビに映る芹沢玲香を見た。
はっきりとした憎悪を自らの内に意識していた。
私たちは有楽町を訪れていた。
車を映画館近くの地下駐車場に停めると、有楽町マリオンへ向かった。
瑞貴は黒のニットにグレーのスカートで、白いコートを纏っている。
眼鏡は掛けず、コンタクト姿である。
瑞貴が見たかった映画は、今話題のサスペンス巨編だった。商業主義におかされていない作家性の高い作品で、こういうものを選択する瑞貴の趣味の良さが伺えた。
映画を見終わると、私と瑞貴は銀座の町を歩き回った。
瑞貴と一緒にいると、身体の痛みも苦ではなかった。
それくらい楽しかった。えりとのデートなど、比ではなかった
高級宝飾店やブティック、百貨店、デパ地下、スイーツ店など銀座をすっかり満喫し、気が付けば、すっかり夕方になっていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
私と瑞貴はマロニエゲートの一一階にあるイタリアンレストランで、夕食を取ることにした。
食欲はなかった。
だが、今食事を取らないのは曽根崎に負けを認めるような気がしてならなかった。
無理やりでも食物を胃に入れるつもりだった。
夜景をバックに、オーダーした料理を口に運ぶ。
前菜のサラダ、ミートソースとジャガイモのラザニア、パルミジャーノチーズリゾット、和牛のロースとこんな状態でなければ、最高のデートとなっただろう。
怪我を負っているのが、口惜しかった。
瑞貴も私に付き合ってくれているといった感じだった。
「……最近、よく映画や舞台をよく見に行くんです」
前菜のサラダをフォークで突きながら瑞貴は言った。
「……グラビアをやっているとそういう欲求が強くなってくる。声や音もなく、ポーズや表情でいろんなことを表現しなければならない。そういったものが形になると、もっと別の形で自分を表現したくなる。ドラマとか映画とか演技の仕事がすっごく眩しく見えるんです」
わたしはラザニアを食べながら聞いていた。
普段はクールな瑞貴が熱っぽく語る姿はとても新鮮だった。
「どんな映画がお好きなんですか?」
私は熱くなっている瑞貴を冷やさないよう、たわいもない質問を投げ掛けた。
「今日見たようなものかな。ハリウットのような大作はどうも苦手で……面白かったですか?」
「ええ。とても」
本心だった。私自身ハリウットのような商業作品はデートで付き合うことはあっても、一人では決して観ない。
映画の話題が一段落すると、瑞貴は「……蓮沼の方ですけど」と切り出してきた。
私は座りを直す。
「食事の約束を取り付けました」
「……本当ですか?」
私の言葉に、瑞貴は力強く頷いた。
「電話を掛けたら、最初は凄く嫌がられたんですけど、森川の名を出したとたん、態度が一変して……。一端電話を切って、散々焦らして向こうから電話が掛かってくるのを待ったんです。誰から聞いたって散々問い詰められましたけど、その辺はうまく誤魔化しておきました」
「有難うございました。正直駄目だと思っていました」
私は礼を言った。
「少し不愉快なことを聞いてもよろしいですか?」
「蓮沼に擦り寄って、セレブにでも移籍するんですか、とか?」
尋ねたかったことを先に言われ、私は少々面食らった。
私は「はい」と頷くと、瑞貴は困ったように微笑する。
「ありえません。そういうのはもう……」
「……そうですか」
嘘は言っていないようだ。私は安心した。
「それに蓮沼の性格はよく知っています。約束を守るような人でもないし……」
「……蓮沼氏を怒らせてしまった。それが仕事を干された原因ですか?」
私の問いに答えずに瑞貴は外を見る。
私も外の景色を見た。
陳腐な表現だが、眼下に広がる世界は、ネオンやビルの明かりが瞬き、淡い群青色の深海のようだった。こんな状態でなかったら、女を口説く絶好のシチュエーションであろう。いい女が目の前にいるというのに、つくづく口惜しい。
勝ち組の連中が集うような店で負け組二人が飯を食っている。なんとも滑稽だった。
「蓮沼は女性にだらしない人だと、業界の間では有名です」
「そうですね」
「気に入った芸能人には、仕事をブッキングするという形で雁字搦めにしていくんです。それはそうでしょう。昨日まで、その他大勢の居ても居なくてもいいような小っちゃい仕事しかなかったのに、突然月九のようなドラマの出演が入ってくるんです。舞い上がらないほうがどうかしている」
「……確かに、そういうバーターはお得意のようだ」
私の言葉に同意するように瑞貴は頷く。
「ドラマの世界観を壊してでも、役を増やして捩じ込んできますから」
「で、視聴率も下がるわけだ」
私の言葉に、瑞貴は笑った。
私は周囲に視線を走らせた。瑞貴に気付く者はいない。
皆が場や料理に酔い、楽しい一時を過ごしている。
瑞貴の悲しい現実であり、現状そのものだった。
私は瑞貴の嫌な噂を思い出していた。蓮沼や桧垣など、瑞貴の周りにはろくな男が寄り付かない。もちろん私も含めて、だ。
男運の悪さも瑞貴の芸能活動の空転を助長している。
「芹沢は蓮沼と懇意なんですか?」
私は訊いた。
「みたいですね」
「……物部守雄が欲しがっているから?」
私の問いに「多分」と瑞貴は首を傾げる。
「……何回か接触し、移籍の交渉は個人レベルで行なっているはずです。芹沢が首を縦に振れば、強引に引き抜く。あそこはいつもそうですから」
瑞貴の考え全てを納得したわけではなかった。
何か腑に落ちないものがある。それだけでは説明のつかないことが多すぎる。
「……気を保たせてるんでしょう。彼女のしそうなことです」
「でも、あなたの場合は意味合いが違った」
瑞貴は手を止めた。
「あなたの事務所はセレブ系列。上の人間に睨まれれば……」
「蓮沼は元々テレビ局の人間。テレビ局に強いパイプを持っています。キャスティング権は彼の意のままですから」
瑞貴は不愉快さを滲ませながら笑った。
「何が目的ですか……?」
私の問いに瑞貴から笑みが消える。
「何かとは?」
「お約束の件です」
「ああ……」
「森川さんのことを知って何をなさるつもりですか?」
「もういいんです。忘れてください」
瑞貴は疲れたように言った。
仕返しでもするつもりだったのだろう。やり方次第では協力してもいいとさえ思っていた。それくらいの借りが、瑞貴にはある。
「……これはお伝えしなければなりませんね」
「なんでしょう?」
「依頼人が森川氏を探している理由です」
瑞貴が興味を示した。
「森川氏は芹沢玲香の芸能人生を潰しかねないほどのネタを持っているらしいのです」
「といいますと?」
「どうやら、それは盗撮映像のようです」
「ええっ!?」
瑞貴は大きな声を上げた。
「……まあ、本当かどうか分かりませんが」
「でも、根津さんがそんな眼に会うくらいですからね……」
興奮と驚きで渇いたのか、瑞貴は唇を舐めた。
瑞貴の仕草に私は思わず肌が粟立った。
次の話題を切り出そうか、迷った。
尋ねづらい雰囲気がある。だが、今の時を無くして芹沢との確執の理由を聞き出すことはできないだろう。
「芹沢さんとは何か因縁があるんですか?」
瑞貴は私の言葉に、再び困ったように微笑した。
「……彼女には色々言いたいことはたくさんあります。デビュー当時から何かとありますから」
「聞かせていただけませんか?」
私の問いに、瑞貴は目線を下げると、再び窓の向こうを見る。
「……昔の話です。私がまだ駆出しのモデル……いいえ、コンパニオンっていった方が正しいかな。あるオーディションです。わりと大きい企業のイメージガールを決めるものでした。わたしはオーディションにエントリーしました」
瑞貴は静かに語りだした。私はフォークを置く。
「後で聞いたんですが、完全な出来レースだったんです。アクティブ所属のモデルを起用することは慣例でした――」
テレビや企業などのキャンギャルは、最近はほとんどが出来レースだと聞く。選考以前に採用が決定している。バックマージンやキックバックなど実弾攻勢もさることながらやはり決め手になるのは事務所の力だ。弱小事務所などはグラビアやイベントなどでファンを徐々に獲得していきながら知名度を得ていくというのが最近のやり方だ。週刊誌のような発行部数の多い雑誌にグラビアを飾れれば、スポンサーなどの目に触れ、名を覚えてもらい、テレビやCMに出演するチャンスもある。つまり素材さえ良ければ、大手と十分渡り合っていけるが、とどのつまりはコツコツと実績を積み上げていくしかない。近道はない。瑞貴は自らの魅力と実力で勝ち取ったのだ。
「アクティブは元々モデル事務所ですが、派遣業だけの他のモデル事務所は違い、芸能部門もある総合プロダクションです。芸能界においても強いパイプを持っています。一モデル事務所所属の人間が勝てるはずがない――」
瑞貴はワイングラスに注がれているミネラルウォーターを飲む。運転があるため、酒の類は頼んでいなかった。
「実際、わたしと芹沢は最終選考まで残りましたが、結局最後は芹沢が……」
重い話だった。
聞いていて、こっちまで胸が痛くなる。
「後でその事実を業界関係者に聞かされました。悔しかった。本当に悔しかった……」
瑞貴の視線はテーブルの上を彷徨っていた。
私のほうを見ようとはしない。
「その時、芹沢はわたしを勝ち誇ったような顔で笑いました。その眼は蔑みと嘲笑に満ちていました。それ以来彼女の顔が忘れられないんです」
瑞貴は怒りを抑えるような表情を見せた。
「芸能界が実力ではなく、事務所の力により左右されるという事実を目の当たりにした瞬間でした。わたしの甘い幻想を打ち砕いたんです。努力でどうにかなる。本気でそう考えていたんです。可愛いでしょう……?」
瑞貴の語るモデル業界の生々しい内幕に私は口を挟めなかった。
「もちろんわたしが落選した理由は、単純に素材として魅力が無かっただけなのでしょう。でも、いまでも、どこかでその答えを求めている」
「答え……?」
「芹沢とわたし――」
そう言うと瑞貴は言葉を止めた。
「……いいえ。なんでもありません……」
その後、瑞貴がどういう言葉を続けようとしたのか、私には容易に想像できた。
芹沢玲香と小川瑞貴。事務所という要素を取りのぞいた場合、どちらがタレントとして魅力があるか――彼女が問いたいのはそういうことではないのか。
見つかるかどうかも解らない、探しても辿り着けない答えを探している。
「だから仲良くできなかった?」
私の問いに瑞貴は誤魔化すように笑う。
「……もっとも彼女はわたしと口も聞こうとはしませんでしたけど」
瑞貴から笑みが消える。芹沢の話をするとき、瑞貴の顔は決まって険しくなる。
「……人のことは言えませんね。わたしも業界に染まってすっかり嫌な女になってしまった……」
「そんなことは……」
私は否定しようとした。
「少しでも良い事務所を求めて、モデル事務所を点々として、撮影会のモデルやらをこなして、ようやくわたしは今の事務所に拾われました。それなのに……」
瑞貴は悔しそうに唇を噛む。
慰めの言葉が思い浮かばない。私の知り得る言葉では何を言っても空疎で表層的なものにしかならない。自分の語彙の無さを呪う。
「なぜ、芸能界を……?」
私は別の質問を放った。
「――スカウトです。街を歩いているとき、声を掛けられて。わたし自身この世界でやっていけるなんて、それまで思ったこともなかった。でもせっかくのチャンス無駄にはしたくないって……」
瑞貴は酒を呷った。
「人より幸せになりたかったから……欲深いんです」
瑞貴は自嘲気味に笑う。
芸能界を目指す人間は不幸な子供時代を送っている人間が驚くほど多い。
親の離婚率は高く、実家がボロ屋など珍しくない。
そういったものが芸能界において原動力となる。彼女も御多分に漏れず、そういう境遇なのだろう。
芸能界は自己実現を成すための手段なのだ。
「ご結婚はなさらないんですか?」
私は我ながら不躾な質問を瑞貴にしていた。
「……結婚に夢は持っていませんから。根津さんは?」
「私もです」
結婚に夢を抱かなくなったのはいつだろうか――私は思い出そうとしていた。おそらく今の稼業をはじめる手前だろう。
探偵見習いの頃から、男女間の現実を嫌というほど見ている。他人の間に何かを求めること自体、愚かなのだろう。
「……もうこんなことになってしまった以上、調査は終わりですね」
「いいえ」
私は否定した。
「まだ辞めるつもりはありません」
「……なぜですか?」
瑞貴は眉を眉間に寄せ、尋ねる。
「リベンジ……でしょうか。こういう性分でしてね」
瑞貴は不可解そうな表情で私を見る。
「冗談です……実は依頼人の方から金をもう振込まれましてね。もう後には引けないんです」
「そうですか……」
そうなのだろうか……?
私は自分自身に尋ねた。
単に瑞貴の前で格好つけたかっただけなのではないのか。おそらくそれは正しい。
「貴方にも借りを返さなければならない」
これも正しい。
こちらの方が今の私にとって重要だった。
「しかし……」
「そういうお約束でしょう?」
私は瑞貴にきっぱり言った。
「……ですが、蓮沼への接触ももう結構です。これ以上は貴方の身に危険が及ぶ」
蓮沼に近付く理由はもはや瑞貴には無い。
だが、瑞貴は次に意外なことを言った。
「――根津さんがそういうことなら、わたしも引けませんね」
「……ちょっと待ってください」
私は思わず止めた。
「根津さんとのお約束ですから」
瑞貴は微笑んだ。
「なぜ、そこまでこだわるんですか?」
私の問いに瑞貴は答えず、困ったように視線を外した。
「危険すぎる。貴方の存在が向こうに伝わった可能性があると申し上げたはずです」
危険なだけではない。不愉快な思いもするだろう。
そんなことは彼女にはさせられない。させる理由がない。
「だからこそです」
瑞貴ははっきりと言った。
「あれだけ恐い目に遭わせたのだから、もう何もしてこないだろうと普通は考えるはずです。蓮沼側は油断しています。そこが狙い目です。少なくともわたしに暴力を振るうことはないと思います」
瑞貴の大胆さに私は唖然となるばかりだった。いや、瑞貴は初めて会った時からその行動力を匂わせていた。
思わず、総毛立っていた。
この行動力こそが今の彼女を作り上げ、なんとか芸能界で生存してこれたのだろう。
「……芹沢玲香の誕生日が迫ってます。セレブを出し抜くためにも、情報は必要です」
森川が動く可能性が高いという事だ。
それは森川を捕まえるチャンスでもある。
否定できないのが今の私の弱さだった。
「お互い、やられっぱなしは悔しいでしょう……?」
自嘲気味に言う瑞貴に、私は大きく頷いていた。