第55話:「バカじゃないの!?」(後編)
泣き疲れて、気がつくと朝だった。
リビングの床に座り込んだまま、エリオットの手を握って眠っていたらしい。
首と背中が痛い。二十八歳の身体は、床で一晩過ごすようにはできていない。
エリオットは、ソファに移動していた。自力で這い上がったのか。
顔色はまだ白いが、昨夜よりは少しだけマシに見える。薄く目を開けて、天井を見つめている。
「……起きてたの?」
「一時間ほど前から」
声は掠れているが、昨夜のあの消えそうな声よりは力がある。
「勝手にソファに移動しないでよ。動くな」
「君が床で眠っている間、身動きひとつ取れないのは……さすがに」
「あんたが動くなっつってんの」
強い口調で言った。でも、声が震えている。
エリオットがゆっくりとこちらを見た。あの蒼い目。いつもの真顔。でも、その底に疲弊と後悔が滲んでいる。
「……カレンシュ、いや奈々」
「だから加齢臭って言うなって」
反射的に返したが、いつもの勢いがない。
「……すまなかった。隠していたことを謝る」
エリオットが、静かに話し始めた。
この現代の、魔素がない世界で、彼がどれだけ無理をしていたか。
毎朝のキスで得られる魔力は、自分が生存するギリギリの量に過ぎないこと。私のための大魔法――空間拡張、全回復ディナー、認識阻害の結界――は全て、自分の魂を削って補っていたこと。
日中、私が仕事に行っている間、部屋で瞑想してひたすら魔力消費を抑えていたこと。るんすけだけが話し相手だったこと。
「あんたがニートだったのって……働く余裕がなかったからじゃなくて、生き延びるために魔力を温存してたから……」
「そうだ」
「るんすけに愚痴ってたのも、他に話し相手がいなかったから……」
「……るんすけは良い聞き手だ」
足元で、るんすけが小さな電子音を鳴らした。
私は、唇を噛み締めた。
この男は。
私のために命を削ってご飯を作り、命を削って部屋を快適に保ち、命を削って見守り、今度は命を削って助けに来ようとして倒れた。
全部、私のため。
私が笑ってくれるのが嬉しかったから。
そんなの、バカだ。バカすぎる。
「エリオット」
「何だ」
「もう魔法は使うな」
エリオットの目が、わずかに見開かれた。
「もう空間拡張もいらない。ディナーの錬成もいらない。最低限の認識阻害だけ維持して、あとは全部止めて。普通にご飯食べて、普通に寝て」
「しかし――」
「あんたの魔法なんかなくても、私が全部ひっくり返してやるから」
真っ直ぐに、エリオットの目を見た。
「白峰さんの罠も、公安の件も、全部私が自分の力でなんとかする。あんたは休んでなさい」
エリオットが、言葉を失った。
蒼い目が揺れている。永き時を生きてきた大魔法使いが、限界OLの言葉に打ちのめされている。
「………奈々……小松奈々」
不意に、初めて、今生の名前で呼ばれた。
フルネームで。
「ッ――」
不意を突かれた。
私という、親の愛情のない番号を、断固として呼ばなかったこの男が。
「……奈々。すまなかった」
「謝るな」
「だが」
「《《謝るなっつってんだろ!》》」
大声が出た。涙がまた出そうになるのを、必死に堪えた。
「あんたが謝ることなんか何もない。ご飯が美味しかったのも、部屋が快適だったのも、全部本当のことだから。ただ、対価が命だってのが問題なんだよ」
私は立ち上がった。膝がまだ少し笑っているけど、もう倒れない。
「今日は休む。あんたも休め。明日から私が動く」
キッチンに向かった。
冷蔵庫を開ける。昨日のエリオットの作り置きが残っていた。だし巻き卵。
温め直して、二人分の皿に盛った。
テーブルに置く。
「食べて。命削ってないやつ」
エリオットが、かすかに笑った。
笑ったのかどうか怪しいくらい微かだったが、あの真顔の氷が、ほんの一瞬だけ溶けた。
「……いただきます」
エリオットの笑顔を見て、小さく笑みを浮かべながら私は思う。
――反撃だ。
これ以上、こいつの魂を削らせたりはしない。
私が全部……ひっくり返してやるっ!!
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
「あんたの魔法なんかなくても、私が全部ひっくり返してやるから」。
限界OL、覚醒。魔法の助けを断ち、自分の力だけで白峰さんと公安に立ち向かう決意。そしてエリオットが初めて「奈々」と今生の名前で呼んだ瞬間。
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