第50話:最後の罠(前編)
月曜日の朝。
私が出勤すると、白峰さんはもう席についていた。
「おはようございますぅ、先輩!」
いつもの笑顔。いつもの声。
だが、私の目には見えていた。白峰さんの目の下に、薄い隈。昨夜、あまり寝ていないのだろう。
この一週間、白峰さんは表面上は完璧なゆるふわ後輩を演じ続けていた。しかし、内側で何かが変わったことを私は感じていた。あの給湯室の後、白峰さんは一切の罠を仕掛けてこなかった。データの改竄も、人への工作も。
静かすぎる。嵐の前の静けさだった。
§ § §
その日の午後。
奈々が席を離れた隙に、白峰は動いた。
プロジェクトの中枢サーバーにアクセスする。白峰のアクセス権限は一般メンバーレベルだが、問題ない。経産省からの出向者に与えられた省庁間連携サーバーへのアクセスキーを利用すれば、プロジェクトの機密データベースにリーチできる。
それだけではない。
白峰は自分のPCではなく、奈々のアカウントを使った。
三日前、奈々の席の隣でたまたまパスワード入力を覗き見た。正確には、聖女の微細な呪詛で一瞬だけ奈々の集中力を散らし、その隙にキーストロークを目視した。
奈々のアカウントでログインする。
プロジェクトの物流セクション、最重要機密データに到達する。
国際貿易特区の設計図面。関税免除の対象品目リスト。各国との非公開合意事項。
数千億円規模の国家機密。
白峰の指が、データを選択した。
送信先は、三日前に用意した海外のダミー企業のメールサーバー。実体のないペーパーカンパニー。実家のネットワークを使えば、こういうものを作るのは難しくなかった。
一瞬の躊躇い。
指が、キーボードの上で止まった。
(ここを越えたら、もう戻れない)
データの改竄やExcelのバグ程度なら、バレても「操作ミスでした」で済む。通訳官の体調不良も、白峰の関与を証明する方法はない。
だが、これは違う。
国家機密の流出。国家反逆罪に問われかねない、取り返しのつかない犯罪行為。
そしてその全てが、奈々のアカウントから実行されたように見える。
(先輩。ごめんなさい)
白峰の目に、涙が光った。
(でも、こうしないと。あなたを完全に壊さないと。全てを失って、膝をついて、一人で泣いている先輩の手を……私が握るためには)
エンターキーを押した。
データが送信された。
§ § §
何事もなかったかのように、白峰はログオフした。
ブラウザの履歴を消去し、キャッシュをクリアし、一時ファイルを削除する。
だが、ログは残る。サーバー側のアクセスログに、「小松奈々」のアカウントから海外のIPアドレスに機密データが送信された記録が、消せない形で刻まれている。
あとは時間の問題だ。
セキュリティチームが定期監査で異常を検知するか、あるいは――
白峰は、自分のスマホを取り出した。
短いメッセージを一本、あるところに送信した。
宛先は、内閣官房の情報セキュリティセンター。
匿名の通報フォーム。
『国際経済特区推進室のプロジェクトメンバーが、機密データを海外に流出させている可能性があります。アクセスログをご確認ください』
§ § §
白峰は席に戻り、何事もなかったかのように書類を広げた。
横で奈々が、夕方の会議用の資料をまとめている。眉間にちょっとだけ皺を寄せて、データを睨んでいる顔。六年分の疲労が染みついた、でもどこか強い横顔。
「白峰さん、この資料のここなんだけど――」
「はいぃ?」
奈々が画面を指差して、白峰に質問する。いつもの、疑いのかけらもない顔。
白峰は微笑んでアドバイスをした。
心臓が痛い。
文字通り、痛い。
でも、止まれない。もう止まれない。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
白峰さんが、ついに越えてはいけない一線を越えました。
国家機密を海外に流出させ、その全ての痕跡を奈々に偽装する。国家反逆レベルの罠。そして匿名通報で、自ら火をつけた。
奈々はまだ、何も知らない。このまま、嵐が来る。
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