第41話:完璧な後輩の隠し事(前編)
白峰サヤカの一日は、祈りから始まる。
朝五時。目覚ましが鳴る前に、瞼が開いた。
白いシーツの上で、天井を見つめる。高級マンションの天井。実家が用意した、霞が関まで徒歩十分の部屋。家具も家電も全て最新で、冷蔵庫には作り置きの惣菜がストックされている。
何不自由ない暮らし。
何不自由ない、箱庭。
ベッドから降り、洗面台の前に立った。
鏡の中に、栗色のゆるいウェーブ。大きな瞳。愛嬌のある丸い頬。誰からも好かれる「ゆるふわ後輩」の顔。
「……おはようございます、お姉様」
鏡に向かって、そう呟いた。
声は甘く、柔らかく、完璧に制御されていた。
洗面台の引き出しを開ける。化粧品の奥に、一冊の手帳が隠してあった。
表紙は何の変哲もない白い革。開くと、びっしりと文字が並んでいる。
奈々の行動記録。出勤時間、退勤時間、昼食の内容、会議での発言、誰と話したか、表情の変化。前の会社の時から――二年以上にわたる記録。
最新のページを開いた。
昨日の日付の横に、丁寧な文字で書かれている。
『先輩は今日も朝倉座長に褒められていた。物流セクションの資料が「完璧」だと。嬉しそうに頬を染めていた。可愛い。とても可愛い。でも駄目。褒められて嬉しそうにしている先輩は、駄目。幸せそうな先輩には、価値がない』
手帳を閉じた。
§ § §
白峰サヤカ――前世の名を、聖女フィオレンティーナという。
記憶が戻ったのは、二年前。あの中小企業のオフィスフロアで、先輩の小松奈々が「白峰さん、ここのマクロ、こうすると楽だよ」と笑いながらExcelの使い方を教えてくれた時だった。
奈々の手が、キーボードの上で自分の手に触れた。
その瞬間、世界が反転した。
宮廷の回廊。ステンドグラスから差し込む光。金色の髪。自分のことを「妹」と呼んで、唯一対等に接してくれた美しい姉。
――カレンシュお姉様。
全てを思い出した。聖女として利用された孤独な少女時代のことも。枢機卿に唆されてカレンシュを冤罪に嵌めたことも。処刑台の上で、最後まで毅然と微笑んでいた姉の横顔のことも。
あの微笑みが、いまだに許せない。
なぜ泣いてくれなかったのか。なぜ「助けて」と叫んでくれなかったのか。
なぜ、最後まで私を必要としてくれなかったのか。
§ § §
出勤の支度をしながら、今日の計画を頭の中で組み立てる。
WAGEプロジェクトに潜り込むのは簡単だった。白峰家――現世での実家は、政財界に食い込んだ名家。経産省の出向ポストなど、父に一本電話するだけで用意できた。
もっとも父は、娘が「ゆるふわOLごっこ」を辞めて本業に戻ると思い込んでいる。まさか自分の娘が、前世からの執着を完遂するために国家権力を私物化しているとは、夢にも思っていないだろう。
思わず、くすりと笑った。
鏡の中のゆるふわ後輩が、一瞬だけ別の顔になった。
§ § §
合同庁舎。八階。
会議室のドアを開けると、もう奈々が席についていた。
「白峰さん、おはよう! 今日も早いね」
奈々が笑う。あの笑顔。くたびれた限界OLの顔なのに、瞳の奥に前世の煌めきが残っている。あの処刑台の毅然とした光と同じもの。
「おはようございますぅ、先輩! 今日のお弁当、美味しそう」
奈々の弁当箱を覗き込む。だし巻き卵に唐揚げ。上手い。素人の手作りとは思えない出来。
(あの男が作ったのね)
筆頭宮廷魔術師。前世で自分の「認知阻害」すら突き通せなかった、あの氷の美貌の化け物。
今の彼は、弁当を作る主夫に成り下がっている。だが油断はしない。千里眼は常にこちらを見ているはずだ。
――見えていない、けれど。
白峰の唇が、ほんの一瞬だけ弧を描いた。
神の力で編んだ認知阻害の結界は完璧だった。エリオットの千里眼に映る「白峰サヤカ」は、魔力を持たない無害な一般人。どれだけ精密にスキャンしても、彼女の内側に眠る聖女の呪詛は検知されない。
魔法使いの探知は「魔素」を手がかりにする。だが聖女の力は「神の奇跡」そもそも検出の原理が違う。
かつて宮廷で彼の目を欺いたのと同じ方法で、現代でも――
「白峰さん?」
奈々に声をかけられてハッとする。
いつの間にか、奈々の弁当をじっと見つめたまま固まっていた。
「あ、ごめんなさいぃ。だし巻き卵が美味しそうで、つい見とれちゃいましたぁ」
「あはは、あげようか? エリオット……あ、いや、彼氏が毎朝作ってくれるんだ」
「いいんですかぁ? やった!」
差し出された卵焼きを、ありがたく受け取る。口に入れた。
……美味しい。悔しいが、美味しい。あの男の手作りか。
§ § §
午前中の会議が終わり、昼休み。
白峰は奈々と並んで食堂に向かいながら、さりげなく話を振った。
「先輩、物流セクションの進捗データ、すごい量ですよねぇ。整理、大変じゃないですかぁ?」
「ああ、あれね。確かに量は多いけど、マクロ組んだから大丈夫。前の会社で鍛えられたスキルが活きてるよ」
「さすが先輩ですぅ。私、マクロ苦手で……。あとでファイルの構成、教えてもらえますかぁ?」
「もちろん! 午後の空き時間に見せるね」
奈々は疑いもしない。後輩が業務の勉強をしたがっている、としか思っていない。
ファイルの構成。マクロのロジック。データの保存場所。アクセス権限の階層。
白峰が知りたいのは、そのすべてだった。
(ありがとうございます、先輩。あなたはいつも、自分から鍵を渡してくれる)
食堂のカレーを食べながら、白峰は計画の第一段階を確認した。
まず、奈々の信頼を完全に得る。次に、彼女のデータにアクセスする。そして――小さなエラーを仕込む。気づかれないほど些細な、でも致命的になりうるエラーを。
積み上げていくのだ。少しずつ、少しずつ。
奈々が躓くたびに、隣で「大丈夫ですかぁ?」と手を差し伸べる。
そして最後に、全てが崩壊した瞬間――ボロボロになった先輩の手を握って、こう囁くのだ。
「私がいますよ、先輩。もう大丈夫」
今度こそ。今度こそ、お姉様は私だけに縋ってくれる。
§ § §
「白峰さん、カレーおかわりする?」
「しますぅ!」
にこ、と笑った。
完璧な笑顔だった。
§ § §
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
今回は視点チェンジ――「完璧な後輩」の内側をお届けしました。
あの可愛いゆるふわ後輩の白峰さんは、最初から全てを覚えていた。二年前から奈々を観察し、記録し、計画を立てていた。そしてエリオットの千里眼すら欺く「神の認知阻害」が、なぜ機能するのか――その理由も明かされました。
奈々は何も知らずに弁当のだし巻き卵をあげている。この温度差、胸が痛い。
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