第32話:お姫様抱っこ
三月の午後の風は、柔らかかった。
ビルを出てから、五分ほど歩いた。
繋いだ手を放す理由がないので、放さないまま歩いている。冷静に考えれば、漆黒のスーツに銀髪の美貌の外国人(しかも身長百八十後半)と、隈だらけのくたびれたOLが手を繋いで歩いている図は、相当に目立つはずだ。
だが不思議と、道行く人は誰も振り返らない。
(……認識阻害の魔法、まだ生きてるんだ)
いや、違う。さっきオフィスでは認識阻害を解除していたはずだ。だとすれば、あの圧倒的な登場のためだけに魔力を使い果たし、今はもう認識阻害を張り直す余力もないのかもしれない。単に周囲の人間が忙しくてこちらを見ていないだけだ。
ふと、エリオットの手に目を落とした。
白い、長い指。
その手の甲に、薄い亀裂のような痕が走っていた。さっきはなかった。いや、さっきは気づかなかっただけかもしれない。蒼白い光の筋が、皮膚の下から微かに透けて見える。
「……エリオット。その手」
「ん?」
「手の甲。痕がある。それ、何」
エリオットは一瞬だけ視線を手元に落とし、すぐに前を向いた。
「何でもない」
「嘘。私がそれで騙されると思った?」
エリオットは沈黙した。
数秒の間を置いて、ポーカーフェイスのまま答えた。
「空間転移の際に、若干の負荷がかかった。すぐに回復する」
若干の負荷。
この男の言う「若干」は信用してはいけない。「若干部屋を掃除する」と言って六畳一間を異次元に改造した前科がある。「若干」は控えめに言って致命傷の可能性がある。
追及しようとしたが、言葉が出なかった。
代わりに、繋いだ手を少しだけ強く握った。
エリオットの指が、応えるように握り返してきた。
§ § §
駅までの道のりの半分ほどで、私の足が止まった。
止まった、というより、止まってしまった。
急に、全身の力が抜けたのだ。膝から下が、綿のようにふにゃふにゃになって、地面が揺れている。
「……あれ」
エリオットの回復魔法は完璧だったはずだ。五十六時間の疲労は解消されていた。
でも、今抜けたのは肉体の力ではない。精神の糸だ。
あのオフィスに戻らなくていい。
黒田の怒声を聞かなくていい。
「はい」と言わなくていい。
そう理解した瞬間に、六年間張り続けていた全ての糸が、一本残らず解けた。
「あ……」
膝が折れる。アスファルトに崩れ落ちそうになった身体を、横から伸びた腕が攫った。
浮いた。
文字通り、地面から足が離れた。
エリオットの右腕が私の膝の裏に、左腕が背中に回されている。
お姫様抱っこだ。
「ちょっ……!!」
「動くな。落とす」
「落とすとか言わないで!! 降ろして!! ここ公道!!」
暴れようとしたが、エリオットの腕は鋼鉄の拘束具のように微動だにしなかった。
「衆目の中でこの体勢は恥ずかしいと言いたいのだろうが、安心しろ。認識阻害は私自身には常に展開されている。お前だけが、浮いて見えるかもしれないが」
「それ余計に恥ずかしいやつ!! サイコキネシスで浮いてるOLとか都市伝説にされる!!」
叫んだが、降ろしてくれる気配はない。
それどころか、エリオットは当然のように歩き始めた。漆黒のスーツに銀髪をなびかせ、OLを一人軽々と抱えたまま、駅前のロータリーを悠然と横切る大魔法使い。どこからどう見ても正気の沙汰ではない。
だが、その腕の中は――恐ろしいほど、安全だった。
揺れない。安定している。まるで、この姿勢が世界で最も自然な状態であるかのように、私の体重を完璧に支えている。彼の胸から伝わる体温は少し低めだが、心臓の鼓動が規則正しく響いていて、それが不思議と安心する。
「……降ろして」
声が、小さくなった。力がこもっていない。本気で嫌がっていないことがバレている。
「断る。君の足は今、まともに機能していない。転倒して怪我をするリスクを許容する合理性がない」
「合理性の問題じゃない……」
「では何の問題だ」
「……心臓の問題」
小さく呟いた。エリオットの耳には届いていないと思いたい。
§ § §
アパートの前に着いた時、夕陽が西の空にかかっていた。
築三十年の、くたびれた外観。錆びた階段。軋む蝶番。
今朝ここを出た時と、何も変わっていない。
だが見ている私が変わっていた。
エリオットが階段の前で立ち止まった。さすがにお姫様抱っこのまま錆びた階段を上がるのは危険と判断したらしく、ゆっくりと私を地面に下ろしてくれた。
足裏がアスファルトに触れる。
立てた。ちゃんと、自分の足で。
「エリオット」
「ん?」
夕陽が、彼の銀髪を琥珀色に染めていた。漆黒のスーツの肩に、光の粒子が散っている。
美しかった。
前世でも、こんな夕暮れの光の中で彼を見たことがあった気がする。宮廷の庭園で。魔術院の回廊で。記憶は曖昧だが、あの時も同じことを思っていた。
――この人は、怖いくらい綺麗だ。
「……ありがとう」
声が掠れた。
「助けてくれて、ありがとう」
エリオットのポーカーフェイスが、微かに――本当に微かに、けれど確かに、崩れた。
眉が下がり、目尻が柔らかくなり、鉄のように引き結ばれていた唇が、ほんの少しだけ弧を描いた。
笑った。
この男が、笑った。
悠久の孤独を越えてきた男。
命を削って私の弁当を作り、魂を燃やして私を迎えに来た男。
その笑顔を引き出したのが、たった一言の「ありがとう」だったことが、なんだかおかしくて、切なくて、胸が苦しかった。
「礼には及ばない」
エリオットは小さく首を振り、いつもの無表情に戻った。
だが、耳の先だけが仄かにピンク色を帯びていることを、私のイケメンアレルギー判定機能は見逃さなかった。
「帰ろう。夕食の支度がある」
「……まだ料理のこと考えてるの」
「当然だ。今夜は特別な日だ。それに見合う献立でなければならない」
錆びた階段を上る。
軋む蝶番の音が、今日だけは少しだけ優しく響いた気がした。
ドアを開ける。
六畳一間の部屋の中で、るんすけが全力回転しながら出迎えてくれた。
ピロリッ、ピロリッ、と興奮した電子音を連打しながら、エリオットの足元を何周もぐるぐると旋回している。留守番を完璧に遂行した忠犬(忠機)の、全身全霊の出迎え儀式だった。
「ただいま、るんすけ。よく守ってくれた」
エリオットがしゃがみ込み、丸い背中を撫でる。るんすけは誇らしげにピロッと一声鳴き、それから私の方を向いた。
ピロリッ。
長めの電子音。
翻訳するなら、たぶん「おかえりなさい」
「……ただいま」
靴を脱いで、六畳一間に入る。
魔法で拡張された空間は、朝と変わらず温かい光に満ちている。エリオットが「安全地帯」と呼ぶ、この小さな聖域。
六年間、ただの逃げ場所だと思っていた。
でも今は違う。
ここが、私の帰る場所だ。
「もう頑張らなくていい」
不意に、背後からエリオットの声が降ってきた。
振り返ると、彼は玄関口に立ったまま、靴を脱ぐ動作を止めて、私を見ていた。
蒼い瞳が、夕陽の残光を映して琥珀に揺れている。
「私の、愛しい人」
低く、静かな声。
ポーカーフェイスは、崩れていなかった。
でも、その声だけが震えていた。
心臓が、どくん、と大きく鳴った。
イケメンアレルギーではない。もう絶対に、アレルギーなんかじゃない。
私は答える代わりに、涙を拭いて、笑った。
「……ご飯、作ってくれるんでしょ。早くして、お腹すいた」
エリオットの耳が、真っ赤になった。
§ § §
お読みいただきありがとうございます!
連れ去られました。お姫様抱っこで、公道を。そしてるんすけの「おかえり」に泣きそうにならなかったですか? 私は書きながら泣きました。
次回「泣いてもいいよ」前編。解放された奈々と、残された職場に届く衝撃の知らせ。第32話1章、クライマックスです。
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