第31話:大魔法使い、オフィスに降臨す(後編)
私がエリオットの腕に取りすがっている間にも、黒田はリノリウムの床に膝をついたままだった。
顔面蒼白。脂汗が顎から滴り落ちている。立ち上がろうとしているが、見えない力が肩を押さえつけているかのように膝が持ち上がらない。
エリオットは静かに私の手を解き、一歩前に出た。
そして、跪いた黒田を見下ろした。
上から。
文字通り、上から。
前世の宮廷で、罪人を裁く時の視線だった。国を損なった者、誇りを穢した者に向ける、筆頭宮廷魔術師としての冷酷な裁定の眼差し。
「エリオット、やめて……!!」
私は叫んだが、エリオットは振り返らなかった。代わりに、左手を軽く持ち上げた。
指先から、蒼白い光の糸が伸びる。それは蛍光灯の光に紛れるほど細く、目を凝らさなければ見えないほど微かなものだった。
その糸が、黒田の喉元に触れた。
「なっ……なにを……して……」
黒田が、声を絞り出した。
しかしその声は途中で途切れ、代わりに別の声が――黒田のものでありながら、黒田の意志とは無関係な声が、口から溢れ始めた。
「あ……あぁ? なんだ……なんで俺の口が勝手に……」
自白の糸。
エリオットが前世で異端審問に用いた魔法の一つ。対象の喉元に触れた魔力の糸が、対象が最も隠したいと思っている事実を、本人の意志に反して声に変える。
残酷で、優雅で、絶対的に公正な魔法だった。
§ § §
黒田の口が、開いた。
そして、止まらなくなった。
「俺は――俺は経理の帳簿を操作して、この六年間で合計七百二十万円を着服した。接待費として計上したが、実態は全て俺個人の飲食や遊興に使った」
フロアが、凍りついた。
さっきまでエリオットの存在感に圧倒されて動けなかった社員たちが、今度は全く別の理由で動けなくなっている。
黒田の目が見開かれていた。自分の口から出ている言葉に、本人が最も驚いている。
「やめっ……やめろ……!! なんで……!!」
だが、止まらない。
「俺は部下の小松奈々が作成した資料、提案書、分析報告の全てを、自分の名義で上層部に提出し続けた。成果は全て俺のものとして評価され、小松の評価は意図的に低く据え置いた。ボーナスの査定も、俺が操作した」
佐藤さんが、口元を手で押さえたのが見えた。
周囲の同僚たちの顔に、驚愕と、そして理解が広がっていく。知っていた。みんな、薄々気づいていた。でも誰も言えなかった。言ったら自分が「自主退職」させられるから。
「俺は小松が残業している間、定時で帰って、経費で飯を食っていた。休日出勤させた日も、俺はゴルフに行っていた。提出された資料は三分も読んでいない。中身は全部小松が作ったからだ。俺にはあの資料を作る能力がない」
最後の一文で、フロアに低い、抑えきれないどよめきが走った。
「黙れ……!! 黙れ黙れ黙れ!! なんだこれは!! 何をされた!!」
黒田は自分の口を両手で押さえようとしたが、声は手の隙間からも漏れ出てくる。
「俺は白峰サヤカに命じて小松に仕事を押し付けさせていた。白峰を使って小松のミスに見せかけた案件は三件ある。全て俺が白峰にそう指示した」
白峰の名前が出た瞬間、フロアの端で一人の女性社員が身を強張らせた。白い服の女性。大きな瞳。
――白峰サヤカだった。
彼女は唇を震わせ、大きな瞳からポロポロと涙を溢れさせながら、すっと黒田の前に進み出た。
「……私、ずっと怖くて、言えませんでした。黒田さんに逆らったらクビにするって脅されて……でも、小松先輩がいつもボロボロになっていくのが、本当に辛くて……っ!」
静寂のフロアに、白峰の悲痛な叫び声が響いた。弱々しい、だが必死の勇気を振り絞ったような本物の(ように見える)涙だった。
「私……証言します。黒田さんのやってきた不正、ぜんぶ上に話します……! 小松先輩、ごめんなさい、助けてあげられなくてごめんなさい……っ!」
彼女の決死の告発は、恐怖で凍りついていたフロアの空気を劇的に動かした。
「俺は佐藤が一度反論してきた時、人事に圧力をかけて査定を最低にした。他の社員にも同じことをした。逆らう奴は潰す。それが俺のやり方だ」
黒田の口から次々に自白がこぼれ続ける中、白峰の勇気に打たれるように、一人の男が立ち上がった。佐藤さんだった。
「ひどい……」
佐藤さんが、涙を流していた。
声は震えていたが、その拳は固く握られていた。
「私も……証言します。このままでいいはずがない。もう、限界です……小松さんが可哀想っ!!」
佐藤さんの声に震源地をもらうように、他の同僚たちからも「俺も」「私も証言する」と、小さな、しかし確かな怒りの声が上がり始めた。
黒田の告白は続いた。
横領の手口。パワハラの詳細。改竄した報告書のファイル名。接待費の領収書の偽造方法。全てが、本人の意志に反して、克明に、正確に、フロア中に響き渡る声で語られていく。
それは、裁判だった。
証拠も弁護士も裁判官もいない。ただ、真実だけが強制的に引きずり出される、魔法による一方的な審判。
§ § §
黒田の告白が終わったのは、五分後だった。
最後には、声も枯れ果てて、床に両手をつき、犬のように四つん這いになって荒い呼吸を繰り返していた。ネクタイは緩み、スーツは汗で肌に張り付き、あの「上司」としての威厳は一片たりとも残っていなかった。
フロアは静寂に包まれていた。
三十人以上の社員が、異なる感情を胸に抱えたまま、黒田の崩壊を見つめている。驚き。怒り。解放感。安堵。そして、何より深く滲んでいたのは――なぜもっと早く、こうならなかったのかという後悔。
エリオットが、蒼白い糸を消した。
黒田を見下ろす視線には、もう怒りすらなかった。あるのは、路傍の石を見るような無関心だけだった。
「全て聞いたな」
エリオットの声が、フロアに響いた。
誰に向けた言葉かは明白だった。固まったまま立ち尽くしている社員たち全員に。
「この男が自ら口にした事実は、全て真実だ。この魔法に嘘は混じらない。彼が最も隠したいと思っていたものだけが、引きずり出された」
魔法。
この場の全員が「魔法」という単語を聞いた。
だが、不思議なことに、誰も否定しなかった。今さら「そんなことはありえない」と言える人間が、この場にいるはずがなかった。空間が裂けて人が現れ、上司が見えない力で跪かされ、自らの罪を残らず吐き出した。これを前にして合理的な説明を求める余裕のある人間は、既にこのフロアにはいない。
エリオットは振り返り、私を見た。
「奈々」
静かな声。さっきまでの冷酷な裁定者の声ではなく、六畳一間で「おかえり」と言ってくれる時の、あの声だった。
「迎えに来た」
二度目の、同じ言葉。
でも、意味が違っていた。一度目は宣言だった。二度目は、ただの報告。
やるべきことは終えた。あとは、君を連れて帰るだけだ、と。
「……あんた、ほんとに、とんでもないことしたね」
声が、震えた。怒っているのか、呆れているのか、泣いているのか、自分でもわからなかった。
たぶん、全部だった。
「上司を魔法で跪かせて、全部自白させて、それで……それで……」
言葉が詰まった。
だって、この瞬間。
私の六年間を潰してきた全てが、たった五分で崩壊した。
毎日の怒声。理不尽な残業。盗まれ続けた成果。削り取られた自尊心。「大丈夫」と言い続けるしかなかった日々。
全部が、終わった。
「ぐ……っ」
涙が、止まらなかった。
また泣いている。ここ最近、泣いてばっかりだ。二十八歳の大人として情けないにもほどがある。
エリオットが、手を差し出した。
白い、長い指。前世で無数の魔法を紡ぎ、今生では卵焼きとハンバーグを作り続けた、不器用で優しい手。
「帰ろう、奈々」
私はその手を取り、立ち上がった。
いや、立ち上がったというより――引き上げられた。六年間の泥の中から、この手に。
§ § §
フロアを横切る間、誰も声をかけてこなかった。
ただ、佐藤さんだけが、涙で濡れた顔で小さく頷いた。
その頷きは、たぶん「ありがとう」でも「ごめんね」でもなかった。
もっと単純な、人間の感情だった。
「よかったね」
私もつられて、泣きながら小さく頷き返した。
エレベーターホールで、エリオットが私の手を握ったまま立ち止まった。
「空間転移で帰るか。それとも、歩いて帰るか」
「……歩く。少し、外の空気吸いたい」
エリオットが微かに目を細めた。
それが笑顔なのだと気づくのに、もう何秒もかからなかった。
ビルの外に出ると、三月の午後の風が頬を撫でた。
冷たくて、でも柔らかい風だった。
蛍光灯の下ではなく、太陽の光が眩しくて。
隣に立つ銀髪の大魔法使いが、漆黒のスーツ姿であまりにも現実離れしていて。
全てが夢みたいだった。
でも、繋いだ手の温度だけが、確かに本物だった。
「……ねえ、エリオット」
「ん?」
「あんた、会社にいた人たちの記憶、消せるんでしょ。魔法で」
「可能だ。だが、消す必要があるか」
「……ないかも」
あの場にいた全員が見た。
黒田の真実を。自分たちが六年間、見て見ぬふりをしてきたものを。
あれを「なかったこと」にしてしまったら、また同じことが繰り返される。
「そっか。じゃあ、そのままにしておく」
エリオットは頷いた。
「賢明だ」
「あんたに言われると複雑」
私は鼻をすすりながら歩いた。
繋いだ手は、放さなかった。
§ § §
お読みいただきありがとうございます!
六年間の理不尽が、五分で崩壊した。
黒田の全てが暴かれ、奈々の手がエリオットの手に重なった瞬間、少しでも胸がスカッとしていたら、書いた甲斐がありました。
次回「お姫様抱っこ」エリオットと奈々の帰り道。そして、この事件がもたらす「結果」が届きます
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