009◇渇望◇望まぬ栄光
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三ツ木家の食卓は常に豪華だった。
母親はエリートだったし、息子も最近その道が約束された。
あの日。
初めて食餌をした司郎は、母親の気配を察知出来るようになった。
母親は一族でも指折りの強者であり、そのチカラ故に信奉者も多い。彼らが住む屋敷も、一族からの貢物である。
「見てたんだ?」
「ええ。」
司郎は自分が母親と同じ「強者」としての立場を得た事に、未だ気付いて無かった。少女を逃がした事を、責められるかと思った。
「喰らわずに済んだのね。」
母親は寂しそうに告げた。
「私は……我慢出来なかった。」
「…………後悔……してるの?」
初めて。
母親の「弱さ」を見た気がして、司郎は驚いていた。
母親は、何の躊躇いも無く、エリート街道を歩んだものだと思っていた。何の疑いも無く、司郎は母親の「非道」を信じていた。
人間にとってのソレは、一族にとっての当たり前の「常識」だった。
「喩えば、あなたが悔やんだとしても………そのお友達は戻って来ないわ。」
母親は、質問には答えなかった。いや。ソレこそが、解答だったのかも知れなかった。
まだ、司郎にはよく理解出来なかった。理解、したくも無かった。
「……知ってるよ。」
「もしも、今後我慢出来なかったとして。その場合も……同じよ?」
母親は不思議な笑みを浮かべた。
一瞬、その言葉に反発が浮かんだが。
期待をしているかのような笑みに、司郎は戸惑った。ソレをドチラの意味に取るべきか、と……そう司郎は考えた。
母親は、何処か不思議な世界に生きている。
母親の事を理解出来る日は来ないだろう。司郎はそう考えてもいる。
「彼女は喰べない。」
「そう。」
静かな決意に満ちた言葉に、母親はただ頷いた。
帰宅した司郎を、母親に仕える者たちが恭しく迎えた。
いつも司郎になど興味を持たなかった奴らが、当然のように司郎に膝を屈した。
その日から。
三ツ木家への供物に、司郎宛のモノが加わった。
司郎は母親と同じ、強いチカラに目覚めていた。
「これは血筋的なモノなの?」
そんな筈は無かったが、母親の信奉者たちの台詞に、司郎は訊ねた。
「流石、千春様のご子息様!」
司郎の信奉者とも成った彼らは、千春の血を褒め称えた。
母親は、司郎の訝しげな問いに、苦笑した。
「まさか。」
と、あっさり否定した。
「あなたが全部喰べたからよ。」
「………他の奴らは、もしかして残す?」
――あんなに美味しいのに?我慢出来るのだろうか?
司郎が屈した欲望は、全てを喰らい尽くさずにはいられなかった。
友人の肉体を無駄には出来ないと考える以前に、その欲望に抗う事が敵わなかったのだ。
母親は。
嗤った。
昏く欲望に満ちた眼差しに、司郎は微かに怯んだ。チカラの発露は、強者の仲間入りを果たしたばかりの司郎では、未だ対抗出来ない相手だと知らしめた。
「愛した相手は、美味しいわ。」
いつも渇いた眼差しの。人生に倦んだ母親の「虚ろ」が。
一瞬、花火のようにギラつく生気に満ちた。
直ぐに閉じた瞼の下で、どんな感情がその眸に映るのか、司郎には窺い知れなかった。
「大切なお友達だから、あなたも美味しく最後まで喰べる事が出来たのよ。」
司郎は母親を睨み付けた。
「望んだからと云って、チカラは手に入らない。望まなくても………喰らい尽くさずにはおれない。」
司郎の怒りに気付かぬ筈も無いのだが、一族最強の女が淡々と語る。
その声に、先ほど見せた「生気」は無い。絶望も無い。希望も無い。
逃れられない運命を、諦観とも虚心ともつかぬ、静かな口調が語った。
「私たちのチカラと云うのは、そういうモノよ。」
司郎は、母親もまた、喰らいたく無かったのだろうかと考えた。
エリートの母親が?とも思いはしたが、それは既に己にも向けられる言葉だった。
母親は、悟った訳では無く、諦めただけかも知れなかった。
「私は二度喰らったわ。他の獲物は、何処かしら美味しく無い箇所が有るの。生臭くて、どうしたって喰らえない箇所がね。」
「………。」
司郎には、まだ解らなかった。
そして。
直ぐに理解する事になった。
どんなブランドの肉も。どれだけ上質な供物も。
最後の一口は。
決して受け入れる事が出来なかった。
親友や彼女の香りには劣るものの、司郎には上質な供物が捧げられ、充分な甘い香りが食欲を誘った。肉の味も、決して悪くは無かった。
親友の肉に劣りはしない味だとさえ感じた。
――ただ。
何故か満たされた感じが遠く、何処かしら飢えとも渇きともつかぬ感覚が、心の片隅に奇妙な衝動を呼んだ。
母親は、そんな司郎を静かな眼差しで眺めるだけだった。
「………っ?」
飢えと渇きを、微かに遺したまま、しかし充分な美味な食餌だった。
何故これを最後まで喰らえない、などと云う事が有るのだろうか。
そう考えた側から……いきなり、手が伸びなくなった。
欲しくないと感じた。
母親の話を聞いてなかったなら、違和感無くそこで食事を終わらせただろう。
飢えているのに、満腹と云う、奇妙な感覚を受け入れた筈だった。
――つまり。これが、普通の食餌?
エリートに成る為ならば、これくらい我慢する奴らも居るような気もした。
司郎自身、何故かは解らない。
その「説」を、否定したくて堪らない気持ちになっただけだ。
無理矢理、手を伸ばした。
物凄い抵抗感に驚いた。
嫌で嫌で堪らない気持ちが、司郎を押し留めようとした。
それを我慢して、何とか手を伸ばしたが。
いきなり、甘い香りが消えて、生臭い悪臭に嫌悪が募る。
我慢して口にした。
直ぐに吐き捨てた。
生理的に受け付けなかった。吐き気や頭痛、生臭さ、食感、舌触り、最悪だった。
息が出来なくなる程、嫌悪に鳥肌がはしる程、吐き捨てた後も……頭痛と吐き気と目眩が収まらない程に。
「ね?無理でしょう?」
のたうち回る司郎を、信奉者たちが慌てふためいて介抱する。
母親は、その様子を見ても何も感じないのか、ただ淡々と告げた。
確かに、無理だった。
司郎の不調は数日続き、必要も無いのに意地で登校はしたが、何に対して意地を張るのか。何に対して怒りが冷めやらぬのかは、自分でも理解しなかった。
母親はずっと、司郎が物心ついた時から強者だった。羨ましがる一族は多い。司郎の母親のような、エリートになりたいと云う奴らも多い。
信奉者も沢山いて。
司郎は……今やその、母親と同じくエリートと呼ばれる存在だった。
ただ強いだけだ。
何をするでも無い。
何が出来る訳でも無い。
強いという、それだけで、崇め貢ぎ、仕える………信奉者たち。
そんな立場を、羨み、望む、お気楽な奴らが存在する。
司郎は寧ろ、弱者で良かった。
親友など、喰らいたくて喰らった訳では無かった。
喰らい尽くしたあの欲望が、あの歓喜に満ちた瞬間が。
司郎の中では、苦痛に満ちた記憶として残った。
それでも。
あの甘い香りに、酔い痴れた瞬間を夢に見る。
何度も、何度も繰り返し見る。
一度たりとも………司郎は我慢出来なかった。
既に過ぎた事だ。
今更どうしようも無い。
夢の中で我慢したって、親友が還る訳でも無い。
それが解っていても、苦痛には他ならない。
況してや、時に親友は「彼女」に姿を変えるのだ。
――彼女は喰らわないっ。
せめて。絶対。彼女だけは喰らわない。
司郎は何度も心に誓った。
喩え誰を喰べようとも、彼女だけは口にしないと誓った。
こんな衝動に縁が無い奴らに、理不尽な怒りを抱いた。
無邪気にエリートを羨む、そんな「普通」の一族に、憎しみさえ覚えた。
司郎は。
好きで「強者」になど成った訳では無かったのだ。
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