013◇渇望◇二人目
☆☆☆
その夜は、月が煌々と行く手を照らしていた。それでも、足音がついてくる気配に、女は怯えていた。年の頃は24か25歳。柔らかくてまろみのある体つき。健康的な張りのある肌。私はこんな時だけは発揮されるスナイパー顔負けの、無駄に良い視力で肌目の細やかな輝く肌を見てとっていた。
彼女も流石に私が女だと気付いた様子で、目に見えてホッと安堵の吐息をついた。
私は足を早め、緊張を弛めた彼女の背中に手を伸ばした。
甘い薫りに。
私はうっとりと嗤った。
私の内に巣くう獣が、彼女の肌に爪を立てる。驚いた表情。何があったのか、何をされているのか、理解出来ないキョトンとした眸。
悲鳴さえ上げず、彼女の体は力を無くした。
私の口付けに、陶然と酔った眼差しが揺れている。
甘い。甘い。甘い。
その血が、肌が、内臓が、肉が。
こんなにも甘い理由。
甘美な迄に私を誘惑した理由に。
私は気付いた。
私は嗤う。
嗤うしかない。
それでも。
私は。
食べなければイケないのだから。
せめて。
空腹を防がないと。
あの人を喰べない為に。
私は女が宿した赤子を喰らう。赤子を喰らう私を見詰めて、女はしかし只ぼんやりと、快楽に酔った眸で微笑んでいた。
私は彼女の眸を手のひらで覆う。赤子とは違い、貴女の事は全てを喰らい尽くす事はムリだけど……それでも、せめて良い夢を。
何の代償にもならない快楽と夢を与えて、彼女の小指を残して喰らい尽くした。
☆☆☆
その頃の私は、いつも我慢していた。我慢出来る自分が誇らしかった。
その分、他の誰かを犠牲にしていた事には目を瞑っていた。
「何故…?」
なのに何故。
どうして。
この人はこんな事を云うのだろうか。
泣いて嫌がる私に、彼は困ったような表情をした。けれど、柔らかい眼差しが、折れやすくも無いと私は知っている。
この人。
一見して、ただの人間。
優しそうな……と云われて、その後が続かない平凡な人間。
実際に優しい人だ。
けれど。
決して平凡では有り得ない。
しなやかな強い心を持つ人だ。
彼は。
私を知っている。
私が何者かを知り、その上で私を妻と呼び、子供まで作った。
想像出来ない訳では無い。
怖れない訳でも無い。
彼は、私にキスをした後で、尋常では無い汗をかいていた。
「そんな無理をする理由が何処に有るの?」
私が焦れて尋ねれば。
真剣な眼差しが応えた。
「此処にある。」
そう云って私を抱きしめた。
「愛する女性に、気持ちを疑われたままでは居られないだろう。」
私を抱きしめたまま。
そう………続けた。
彼は、私の不安に気付いていた。
いつか。
夢は………覚める。
いつか。
熱が冷めて、恐怖を思い出す。
私は。
実際に人間を食べる。
これまでも食べてきたし、これからも食べるだろう。
同じ人間を食べる相手に、嫌悪を抱かずにいられるモノだろうか。
同じ人間である彼が、いつまでも私の理性を信じられるモノだろうか。
それはムリだと思った。
捕食者と獲物が、仲良く出来る道理が無いのだ。
恋に溺れていてくれるのは。
一体、いつまでだろうか?
私は。
近付く破滅の日を予想して、日々怯えていた。
今日は大丈夫だった。
明日も大丈夫だろうか?
この人は。
いつまで私を愛したままでいてくれるのだろう。
でも。
もしかしたら。
この人なら。
有り得ない夢を時折視ないでは無かったが。
それでも。
やはり怖かった。
逃げ出したくなるほどの恐怖は、寧ろ補食者の筈の私が感じていた事だった。
ソレなのに。
毎日お腹が空く。
私は、食餌を摂らないといけない。
生きる為に。
初めての食餌を摂取した後は。
毎日。
当たり前に。
食べているモノ。
やめたくても、やめられない。
どんなモノを食べても、飲んでも。
ソレが人間で無ければ空腹は治まらない。
そして。
私は誰より。
何よりも。
本当はこの人を欲していた。
それを誤魔化す様に、通常以上に獲物を狩る。
人間と共に暮らすので無いなら、牧場の肉が貢がれたのだろう。
しかし、彼と共に居る為には、私は一族から隠れなければならなかった。
上質な肉が、手に入らない時もある。
満足いかない食餌の後は、殊更に彼の肌が甘く香る。
息苦しくて。
何もかも投げ出したくなる。
食べて。
しまいたくなる。
耐えて。耐えて。耐えて。
どんな甘い、文字通り甘い誘惑にも屈しなかったのは、何より彼と共に居たいからだ。
彼が、生きていないなら、意味が無いからだ。
「千春。」
夜半に帰宅した私を、彼は優しい、けれど寂しい声で呼んだ。
夜の間は、特に甘く香る。故に、出来るだけ近付かない様に告げているのに。
彼は無造作に私を出迎えた。
私は眉を顰めた。
大丈夫。
今夜は、行きずりにしては極上と呼んで良い獲物だった。しかも「薬膳料理」が付いていた。
薬膳、またはそのままお薬。
私たちが、唯一、好悪の区別無く、食べきる事が可能な餌。チカラや能力には何ら影響しない乍らも、私たちが掛かる全ての病を癒す特効薬。
それが、人間の腹の中に居る赤子だ。そして、子を宿した母親も、大抵の場合、好まれる味わいだった。
温かな小さな命に噛み付いた時。私は泣きそうだった。泣く資格など無いと知ってはいるが、その血の甘さを受け入れて、私の体が内側から元気を取り戻すのが解り、それにもまた切なくなった。
私はどうしたって人間には成れない。
それを苦悩する資格も当然有る訳も無いのだが。
人間に恋をして、人間を喰べる。人間になりたいのに、人間を美味しいと思う。
そこに、嫌悪感が無い事にこそ、嫌悪する。
愛した相手をこそ喰らう本能がある。愛すれば愛するほど、喰らいたくて堪らない。
だから。
私は彼と居るのが辛い。
だから。
私は彼と共に居たい。
狂おしい程に、心と体が引き裂かれそうになりながら、愉悦混じりに「我慢」を繰り返す。
一番喰べたいモノが喰べられない。
一番喰べたくないモノが、喰べたくて堪らない。
我慢して。我慢して。ますます彼の肌が甘く香る。芳しく誘惑する罠を掻い潜り、私は狩りを繰り返していた。
必要以上の狩りは、間違っても彼に牙を立てない為だった。
人間を喰らう私に、彼はじきに我慢出来なくなるかも知れない。
だから喰らいたくなど無いのだが。
嫌われたく無いからと我慢した挙げ句。
彼に噛み付いたら本末転倒も甚だしい。
まだ。
嫌われた方がマシだった。
だから。
私は常に覚悟していた。
棄てられる覚悟。
嫌われる覚悟を。
愛したままでも。
赦せない日が来るかも知れないとも思っていた。
いつか。
彼に殺されるかも知れないとさえ。
私は思い。
覚悟していたのだ。
なのに。
彼は。
自分を食べるように……と云った。
自分を食べてくれと……そう云ったのだ。
☆☆☆




